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【水都百景録】州府ガイド(5)松江府

【シリーズ】
【水都百景録】州府ガイド(1)徽州府 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(2)蘇州府 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(3)揚州府 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(4)杭州府 - 壺中天

概要

上海を含む松江府は長江河口にあり、海運の発展と共に台頭した地域である。厳密にいうと「松江府史」と「上海史」は異なるが、ゲームで描かれる「松江府」は明確に上海市であるため上海を中心に記述をしていくこととする。

現在は国際的な大都市として名を轟かせる上海であるが、長大な中国史にあってその登場は遅い。陸地が形成されるのは唐代頃、上海の名が現れるのも「わずか」1000年前のことである。

上海という町は、他の江南の都市のように河川や大運河で発展した町ではない。上海の命運は常に海と共にあり、それ故に頭角を現すのも遅かったのだ。

長江や大運河など幹線水路から外れているのに注目。

以下、お決まりの地図解説。松江府のマップは上海市のうち黄浦江以西の、広い地域がデフォルメされている。大体城壁の内側が今の上海市中心部、その外が郊外のイメージである。

上海(松江府)のあゆみ

孫呉の海港【古代】

前6世紀、呉国の船(泉州海外交通史博物館)

古代は海運技術が未発達で、例えば春秋戦国時代には帆船もなく、動力は専ら人力でコストがかさんだ。そのため江南に建国した呉や楚の支配者たちは海よりも河川や運河での水運を重んじた

その恩恵を受けたのが揚州や蘇州だったが、上海はその逆を行ったわけである。当時の上海(に当たる地域、の意。以下同様に用いる)は小さな漁村で、戦国時代には楚の宰相・春申君の領地となった。そのため上海は後世「申城」と呼ばれ、初期の上海の地下鉄は「申」の字をかたどって作られていたりする。

3世紀になると、三国・呉の孫権が上海に注目。この時期の江南はまだ開発が不十分で、人口・生産力共に勝る魏と戦うには心もとない。そのため彼は貿易に活路を見出したのである()。

ちなみに上海の古刹として有名な静安寺龍華寺孫権が建立したもの。この両者を貫く縦線の辺りが、当時の海岸線である。

孫権が建てた寺院3つ。
※)後漢末は東西を結ぶ季節風貿易が盛んで、ローマ帝国からの使者が訪れたことも有名である。孫権が海に目を付けたのも、そう不思議なことではなかった。


「上海」の誕生【宋・元】

大運河の恩恵で、江南諸都市が栄えた唐代。上海にとって、この時期は今の上海市に当たるエリアがようやく陸地化した頃合いである。751年には華亭県が設置されたが、場所は今の松江区で、上海中心部より20kmほど内陸である(上の地図参照)。

街の名として初めて上海が登場するのは、宋代に成立した「上海鎮」である(所属は華亭県※1)。鎮とは行政機関のある都市(城壁のある城市)ではなく市場町のこと。商業規制が取り払われた宋代には商業が活性化し、各地にこのような鎮が生まれていった。

さらに宋代には造船技術が劇的に進歩(※2)。羅針盤の発明もあって海上交易が盛んになった。宋朝は広州、泉州など沿海の都市に貿易を管理する市舶司を設置し、上海もその対象となった

貿易港として地歩を固めた上海は、元代の1292年には華亭県から独立し県に昇格する。貿易や漕運の拠点となったが(※3)、江南最大の海港はまだ上海ではなく劉家港であった(※4)。

※1)上海の名は、呉淞江南岸の二つの支流「上海浦」「下海浦」に由来する。
※2)遣唐使が苦戦したように東シナ海南シナ海は荒海であり、中国では長らく遠洋航海に乗り出せずにいた。それを解決したのがジャンク船である。遠浅の海に強い平底の構造と防水隔壁が特徴で、ユーラシア東部の海域で活躍した。鄭和の艦隊もこのジャンク船である。

※3)長江に面した港町で鄭和艦隊の出発地。ゲーム松江府では万航涇あたり。劉家港と蘇州との結びつきについては蘇州ガイド、漕運との関係については揚州ガイドを参照。
※4)松江府の建築テキストをよく見ると、漕運に関する記述が良く出てくる(北倉城や漕河涇)。明代の漕運は元と違って大運河主体だが、上海は大運河漕運の拠点でもあったようだ。


明代の上海

しかし明代、着々と成長を続ける上海を二つの試練が襲った。一つは土砂の堆積、もう一つは倭寇である。

黄浦江の逆転劇

上海の川と言えば、真っ先に出てくるのは黄浦江だろう。広大な川面をクルーズ船や大型貨物船が行きかう様子は上海を代表する景色の一つで、黄浦江クルーズも上海観光の定番である。しかし、実は明代まで黄浦江は地味な河で、水量も今の五分の一しかなかった

その代わり、上海一の大河といえば呉淞江であった(※1)。そもそも「松江」という名も、この淞江に由来している。

呉淞江は今でもある。黄浦江沿いのプロムナード・外灘の北側で黄浦江と合流する、小さな川がそれである。

呉淞江と黄浦江の合流地点。手前が呉淞江。

衛星写真で見てもその規模は黄浦江と比ぶべくもないが、実は明代の中頃まで、この二つの川の大きさは逆だったのである。

呉淞江はかつては太湖と海を結ぶ最大の水路だった。流量が多く流れが穏やかな呉淞江は長江よりも安全で、今の上海がまだ陸地として存在しない時代にも、海から長江に入る船は多くこの川を利用していた。

上海の町も、呉淞江の運ぶ土砂の上に作られた。しかし江南の開発が進んで水の使用量が増えたこともあり、時代とともに運ばれる土砂が増加。ついには河口をふさいでしまったのである。

そうなると船の乗り入れが出来なくなり、上海は元代まで設置されてきた市舶司の対象から外れてしまう。さらに土砂でせき止められた川は洪水をもたらし、民衆の生活にも悪影響を及ぼした。

15世紀初頭、この問題に取り組んだのがゲームにも登場する葉宗行である。松江府・華亭県の秀才(※2)であった彼は戸部尚書に書状を送り、呉淞江の工事について提案した。

葉は大胆な発想の転換をする。呉淞江の河口を浚渫するのではなく、黄浦江の規模を拡大することを提案した。いわば、トラブルの種である呉淞江を放棄して黄浦江に乗り換えたのである。

そしてこれが、我々プレイヤーが作中で経験する呉淞江・黄浦江の浚渫工事である。

黄浦江を拡張し、広大な水路が出来たことで上海では再び大型船の乗り入れが可能になった。のちの国際貿易港としての上海の基礎は、こうして築かれていったのである。

※1)『後漢書』には「松江の鱸(スズキ)を食べたい」と言った曹操のために、左慈が水盤から魚を釣り上げた話が載っている。この「松江」が呉淞江である。水都百景録の松江府にも「蓴鱸涇」があるので名物なのだろう。
※2)ここでいう「秀才」というのは、科挙の童試を突破した知識人のこと。公立学校である府学・県学の入学資格を持ち、生員とも言う。
徐光啓倭寇体験

明代の上海が直面したもう一つの問題は、ゲームでもおなじみの倭寇であった。その正体や背景については後述するが、当事者である徐光啓を通じて、上海の倭寇経験を追体験してみよう。

1550年頃から江南沿岸では倭寇の襲撃が頻発し(嘉靖の大倭寇)、1553年には上海も数度にわたる攻撃を受けた。

なんと当時、上海の街には城壁がなかった。戦う者は街にとどまり、その他は郊外に避難することに。徐光啓の母親も、姑と幼い娘(徐光啓の姉)を連れて逃げ惑った。行先のあてもなく野宿をし、休憩する時は水辺を選び、倭寇が迫ったら入水する覚悟を決めていたという。

逃げ惑う住民たち(仇英「倭寇図巻」)

命拾いはしたものの、徐家は家と財産を失い、生活苦に陥った。徐光啓が生まれたのはそんな時分であった。1562年生まれの彼は倭寇を直接経験はしていないが、この事件は彼の人生に大きな影響を与えている。彼が科挙を受けた背景には徐家再興の悲願があったし、家族の話を聞いて子供の頃から兵書を読み、生涯軍事や国防に関心を持ち続けた()。

徐家に限らず、こうした物語は当時江南のあちこちで見られただろう。

この経験を踏まえて、松江知府は上海県城に城壁を築いた。2km四方、外周6km程度の小さな城壁だが守りは固く、見張り塔(敵塔)が2か所、箭台が20か所にあったそうだ。

城壁は1912年に取り壊されて現存しないが、道路の形がその名残をとどめ、その内側には県城に欠かせない城隍廟や文廟(=県学)が今でも残る。

※)徐光啓は軍事思想家としても功績を残し、晩年には西洋砲の導入や北京の防衛など、後金(のちの清)との戦いで活躍している。こうした彼の原点が両親の倭寇経験であった。
マテオ・リッチの目線

徐光啓は1604年、念願の進士に及第した。彼は北京で翰林学士として勤める傍ら友人のマテオ・リッチ(利瑪竇)から学び、『幾何原本』の翻訳など多くの成果を残した。

しかし二人の交流は、徐光啓の父が亡くなったことで中断される。1607年、徐は父の遺体を送り届け、また三年間の喪に服するため故郷の上海に戻ることになった。

徐光啓の求めに応じて、リッチは神父カッターネオ(※1)を上海に派遣している。おそらくは彼を通じて情報を得ていたのだろう。リッチ自身は上海の地を踏んだことはないが、友人の故郷について詳しい記録を残している。彼の書いた1610年ごろの上海を見てみよう。(※2

同時代人の言葉による臨場感を大事にしたいので、あえて引用メインで書きたいと思う。

シャンハイ市はヒェン(県)と呼ばれるものの一つで、ナンキン省(南直隷)に属しナンキンの統治を受けている。(中略)

シャンハイはジャパン(日本)にたいへん近いため、これほど近くなければよいのにと考えられている(船尾から風を受けた時には二四時間足らずでチナからジャパンへの航海、またはその逆の航海が可能である)。

というのは、ジャパン人の海賊がしばしば姿を現してはシャンハイ市や海岸地帯にあるその他の市を悩ましているからで、チナ人が以前からジャパン人を憎んでいるのもこのためである。

ナンキン省というのは中国では南直隷。都である北京順天府と副都である南京応天府は皇帝の直轄地となり、それぞれ北直隷・南直隷と呼ばれていた。また、当時の松江府には上海県のほか華亭県(董其昌や沈度の出身地)、青浦県があった。

(市内の)戸数は総計三万ないし四万ほどにはなろう。市域(郊外)は平原というより、むしろいたるところに庭園を備えた大きな都市のように見える。
(中略)
このあたりの戸数は二万以上あろうから、市内のものとあわせれば総人口は三十万人に達するであろう。毎年国王に納めている税は十五万クルザドの貨幣と十万俵の米である。

クルザドはポルトガルの貨幣。こちらの試算によると3万クルザド=12億円とあるので60億円相当…!?

ここは米が豊かに稔る地であるが、とくに綿の収穫高が非常に大である。そのためここには布がたくさんあり、織工は市域全体で二〇万人以上になろう。
したがって王都のペキンとその省(北直隷)をはじめシャンハイやその他の地域の布の大半はこの地から供給されている。

ここでリッチは綿について言及しているが、これについては後に詳しく述べることにする。総人口30万に対して織エが20万というのは驚きの割合だが、当時の松江の農家がほとんど副業として綿業に従事していたことを思うとそうおかしくもないのかもしれない。

この後は、徐光啓とカッターネオ神父による信仰生活・宣教活動の様子が続く。彼ら二人によって、上海初めての教会が作られた。徐光啓の邸宅・九間楼付属の教会である。

なお、徐光啓とリッチが再び出会うことはなかった。服喪を終えて北京に戻った時、リッチはすでに故人となっていた。徐はその葬儀に参列して納棺の綱を引き、記念に綱を持ち帰ったという(※3)。

※1)カッターネオ(郭居静)は徐光啓が初めて出会った宣教師である。彼のもとで「坤輿万国全図」を見たことがリッチを尋ねるきっかけになった。
※2)参考文献(1)より引用。リッチ最晩年の記録である。これらの文章はリッチの死後その手稿を別人が書き起こしたものなので、オリジナルとは文体も異なる(例えば、リッチ本人が書いた文章はイタリア語なので南京や日本は『ナンキーノ』『ジャッポーネ』になる)
※3)葬儀店のテキストに二人が出てくるのは偶然だろうか?それとも…

開港前夜の繁栄【清】

広々とした黄浦江や海岸線の中間にある地の利を活かし、清代の上海は港町として一層の発展を遂げていった。

特に19世紀にはこれまで最大の港であった劉家港や大運河が土砂で塞がってしまい、その役目を引き継いだ上海には国内外から商船と貨物船が集まり、貿易と漕運の拠点として空前の繁栄を迎えることになったのである。


上海の発展というと、アヘン戦争後に開港地として選ばれてから…とイメージされがちだが、そもそも開港地に選ばれたのも、こうした実績と繁栄あってこそだったのである。

しかし一歩間違えば、海港・上海の生命も呉淞江の土砂に埋もれて終わっていたかもしれない。上海発展の基礎はやはり明代、葉宗行らの浚渫工事によって築かれたと言えるのだろう。

綿業の聖地として

上海および松江府に繁栄をもたらしたのは海運だけではない。もう一つ、綿産業という強みがあった。関連する人物と共に、松江綿業の歴史を見てみよう。

松江綿業の起源【黄道婆】

シルクロードの名が語るように、中国では古くから絹織物が発達してきた。しかし絹は主に贅沢品や輸出品で、日用品として用いられたのは麻布であった。13世紀頃になると、中国ではこれに代わって綿織物が普及するようになる。

綿花は原産地のインドから、宋~元代に築かれた交易ネットワークを通じて中国に伝わった。ルートは海・陸二通りあり、海路では福建省広東省、陸路では陝西省に伝わって栽培が始まった。綿製品は日常生活に浸透し、明清以降は「布」といえば綿布を指すほどポピュラーな存在となっていた。

そして綿布の全国的な需要を満たしたのが江南の、さらに言えば松江府の綿布である。松江府で綿業が盛んになった背景としては2点があげられる。

(1)黄道婆と標布

一つは、黄道の存在である。松江の烏泥涇生まれの彼女は童養媳として婚家に引き取られたが(※1)、嫁ぎ先で虐待を受けたために南の果て・海南島へ移住。30年にわたって滞在した。

綿花が南海を通じて伝わったのは、先に述べたとおりである。彼女は綿業先進地の海南島で紡績や織物技術を身に着け、のちに郷里の烏泥涇に戻ってそれを伝えた。彼女は松江綿業の祖とも言える存在である。

ちなみにゲームに登場する「標布」は、上海・浦東地区の古鎮「三林塘」の特産品である。三林塘は福建からの移住者が開いた街と言われ、上海で最も早くから綿花が栽培された場所の一つであった。

元代には黄道婆の影響を受けて紡績・織物業が発展。三林塘の標布は北京を含む華北にも流通し、松江綿布の名を天下に知らしめた。

(2)微高地の綿花栽培

さらに、松江は綿花の栽培にも適していた。松江を含む江南デルタの東部には、河川が運んだ土砂を海潮が押し返すことで形成された微高地が広がっていた。この辺りの土は水はけがよく塩分も含み、稲作には適さない。そのため綿花が栽培されるようになったのである。

明末、徐光啓は元代から蓄積された綿花栽培のノウハウを集大成し、『農政全書』に収録した。そこには彼自身の研究成果も収められ(※2)、彼は綿花豊作のための秘訣を「精揀核、早下種、深根短干、稀料肥壅(種をよく選ぶ、早い時期に植える、間作をする、肥料を加える)」と端的にまとめている。

また、『農政全書』には「改良農地」でおなじみ稲と綿花の輪作についても書かれているので引用してみよう(※3)。

高地の綿と稲が作れる田んぼでは、綿を2年、稲を1年植えることで地中の草の根が枯れ、土の養分が増し、虫もいなくなる。

3年もすればまた虫が出てくるが、綿を収穫した後に水田の周りに岸壁を作って、冬の間は水が溜まるに任せ、春になったら水を抜いて乾かし、そうして綿の種を植えれば虫はいなくなる。

『農政全書』は邦訳がないので大雑把な拙訳だが、綿⇒稲⇒綿の順番で輪作をすると効果的に生産が出来る。しかし輪作の効果が持続するのは大体3年までで、その時が来たら1度リセットする…ということだと思う。

※1)旧時、農家で見られた風習。子供の将来の結婚相手として、幼い娘を引き取ること。口減らしや労働力確保の手段でもあった。ところで「桐花の奥」に出てくる黄道婆の亡きご主人とはこの家の人なのだろうか?
※2)上海での服喪中、彼は上海に農園を築いて甘藷・綿花の栽培や輪作の実験を進めていた。
※3)参考文献(6)の引用文を訳したもの。

綿業と農家の事情

蘇州ガイドで触れたように、明代中期以降、絹織物は都市の工場で組織的な生産が進んだ。それに対して綿織物は主に農村の副業として家内生産されていた所に特徴がある。

特に1433(宣徳八)年、租税に代えて綿布での納税を認める制度(※1)が導入されてから松江の農家では男手は農作業、女手は紡績や綿織物に従事する「男耕女織」と呼ばれる分業体制が成立することになった。

とはいえ穀物は、地主に小作料を納めればほとんど手元には残らない(※2)。家計を支えていたのは、専ら女性たちによる綿糸や綿布の生産であった。

徐光啓の家も「男耕女織」で生計を立てる典型的な松江農家であった。夫人の呉氏は人の三倍綿花が紡げ、家計の心配はなかったという記録も残る。前述した徐家の苦境や松江農家の状況を思えば、彼女の存在は有難かったことだろう。建築「綿花店」のテキストに徐夫妻が登場するのも、こうした背景を踏まえると納得である。

※1)明代前期はモンゴルとの戦が続いたため、軍需品として綿布の需要が高まっていた。ただ、現物納入では品質にばらつきがあるので、16世紀には綿布を銀に換算して納めさせる仕組みに切り替わった。
※2)だいたい2か月ほどの生活費にしかならなかったという。

徽商がつなぐ綿産業

農民は朝になると品物を市場町の「鎮」に運んでいくが、松江の綿製品は一から十まで一つの農家が作っていたわけではない。綿花栽培・紡績・織布等、それぞれの工程が別々の農家によって担われていた。

そうなると、各工程を結びつける仲介者が必要になる。明代の松江において、その役割を担ったのはやはり徽商であった。彼らは流通路沿いの鎮に問屋を構え、農民からの商品買い付けや行商人への販売を一手に担った。

徽商は松江の綿業に大きく関わり、15世紀には「松江の富はほとんど徽商に持ち去られている」と言われるほどだった。

塩政と徽州黄氏【塩屋】

実は徽州府の実装前から、徽商はすでに登場している。それが松江府に登場する塩屋である。

塩屋とは何者か。塩の専売制度についてはこれまで徽州・揚州でたびたび触れてきたが、本記事ではその「システム」について、詳しく触れておきたい。ゲームの松江府では塩屋のほか、塩券、塩事司など塩の専売制にかかわる具体的なアイテムや施設が登場するためである。

塩の専売制度が導入された経緯については揚州ガイドで述べたとおり。特に宋代には塩の引換券+販売許可証である「塩引」を通じた販売委託制度が確立し、明代にも引き継がれた。ゲームで塩屋に渡す塩券とはこのことである。

この制度がゲームでどのように書かれているか見ていこう。

ゲーム中で、塩屋は様々な依頼を果たしてくれる。これは史実における①「兵糧・銀の納入」に相当する。そしてその見返りとして、彼らは塩と引き換えられる②「塩券」を得る。

一見すると「塩を売ってないのに塩屋?」となるが、彼らが塩を売るのは、労役(プレイヤーの依頼)を果たし、③塩券と塩を交換してからなのである(だから、塩が手に入らないと収入源を失い破産してしまう)。

さて、ゲームでは都合上プレイヤー(知府)が塩券を発行するが、現実世界の塩屋は塩の専売を扱う「塩運司」(ゲームでは「塩事司」)という役所に行き、そこで担当役人に発行してもらった。塩屋が依頼を終えると、塩事司の前にいるのはこのためである。

ところでゲームでは黄崇徳をはじめとする塩屋の三兄弟が登場するが、黄崇徳と徽州の黄氏は実在する。せっかくなので、その経歴を簡単に紹介しよう。

黄崇徳は徽州の出身で1469年生まれ。母親はゲームにも登場する汪氏の女性である。まずは山東で商売をして資金を稼ぎ、江南に移って塩の商売に乗り出した。

彼はただ商売一筋の人間ではなかった。学問の郷・徽州で高度な教育を受けた彼は『塩鉄論』など古代の政治書や法律にも通じ、彼の助言が政策に反映されることもあった。やがて彼はその手腕と学識を買われ、塩商人のまとめ役となったという。

とはいえ、彼はあくまで成功例である。塩商人には誰でもなれるわけではなく、政府規定の兵糧や銀の納付を果たしてその資格が与えられる。「塩屋」とは、富裕な商人の特権身分であった。

徽商の全員が黄のような名声と富を手にしたわけではない。事業に失敗し、落ちぶれた商人たち。彼らもまた、松江府の町に登場する。

……街を襲う脅威として。

倭寇の海


松江府固有のNPCである塩屋と倭寇は、どちらも徽商と深い関係がある。徽商には「塩屋」として富と名声を得る者もいれば、一獲千金を狙って海上での密貿易に乗り出した者もいた。彼等は「倭寇」になったのである。

倭寇は13世紀から16世紀にかけて出没し、時期によって「前期倭寇」「後期倭寇に分けられる。その特徴は以下の通り。

14世紀~ 前期倭寇 北方(朝鮮~華北~福建) 日本人主体
16世紀~ 後期倭寇 南方(江南~福建中心) 日中葡混合

このうち前期倭寇の活動範囲は朝鮮半島や中国北部の沿岸など北部が中心だったため、ここでは江南と関係の深い後期倭寇について主に取り上げたい

倭寇が呼んだ倭寇

倭寇とは何か。一般的には(特に中国では)「日本人の海賊」とイメージされる。前期倭寇に関していうなら、それは正しい。

前期倭寇は、元の滅亡や南北朝の戦乱で統制がゆるんだ隙をついて、海上に活路を見出したならず者集団であった。しかし後期倭寇はもう少し複雑な事情を抱えている。彼らの出現には明の貿易政策が関わっているのだ。

1368年、洪武帝が明を建国。宋・元は商業・貿易への規制が緩かった時代で、海上では活発な通商活動が行われた。しかし明では現物経済の推進や前期倭寇を取り締まるため貿易を規制。民間の貿易を禁止して国家同士の朝貢貿易のみ認める方針を取った(=海禁)。

鄭和の艦隊を派遣した永楽帝は対外進出に積極的だったが、それもあくまで朝貢を促すためのキャンペーンで自由貿易を認めたわけではない(※1)。明のこうしたスタンスは代々引き継がれていく。

これに対抗して現れたのが「後期倭寇である。純粋な海賊であった前期倭寇に比べて、こちらは海禁に対抗する「密貿易商人」としての性格が強い。日本、中国、果てはポルトガルと出自が様々なのも、海禁の影響が幅広く及んでいたためである。

需要が高い中国商品を売って儲けたい。銀を手に入れたい(※2)。彼らは様々な理由で密貿易に乗り出していった(※3)。

※1)とくに軍事力で政権を奪取した永楽帝は、自身の正統性を確保するため周辺諸国の支持を得ようとした。沿海の諸国に朝貢を呼び掛けた鄭和の遠征もその一環である。
※2)貿易(合法)で中南米や日本から大量の銀が流れ込んだ明代中期、中国では商売するにも納税するにも銀が必要だった。しかし国内の銀山は枯渇しており、銀の入手手段は貿易しかなかったのである。
※3)ちなみに徐光啓は論文「海防迂説」にて後期倭寇のこうした性質を見抜き、被害を防止するためには貿易を解禁すべきであると主張した。

後期倭寇と王直【汪五峰】

後期倭寇頭目として名を馳せたのが徽州出身の王直である。

彼は徽商であったが事業に失敗。1540年頃から広州に渡って密貿易に従事するようになった。1545年には初めて日本に渡り、中国人・日本人を傘下に納めて大勢力を築き上げる。

王直ら密貿易商人たちは杭州東南の双嶼島を拠点にしていたが、1548年、密貿易の取り締まりに本腰を入れた明軍の攻撃により壊滅。拠点も幹部も失った王直は日本の五島・松浦に拠点を移し、西日本の大名と結んで日本との密貿易をつづけた。

しかし明の強硬策は裏目に出た。双嶼島の壊滅以降、江南の沿岸で倭寇による海賊・略奪行為が頻発するようになる。これが上海をも襲った「嘉靖の大倭寇」である。これは報復というよりは、統制が取れなくなった結果のようである。

明軍と倭寇の戦いは続き、1559年の王直の処刑を境に江南での倭寇は収束に向かっていった。また、翌1560年には貿易制限も撤廃されたが、日本に対する渡航は相変わらず禁止された。明政府や住民たちの日本への恐怖や警戒心は、王直の死後も持続し続けることになる。

倭寇の被害は実際応天府まで及んでいた。

ところで水都百景録(江南百景図)の「汪五峰」は王直をモデルにしたキャラクターだが、造型はかなり独創的である。大陸版の人物紹介を読むと、鄭和の昔馴染みという設定のようで、一周年探検でも鄭と共に倭寇討伐をするシーンが描かれている。

売国奴」と批判もされるデリケートな人物であるためあえて実際の王直と乖離した設定にしているとも考えられるが、そこまでするならなぜ王直を登場させたのか筆者には不思議である。

さて、汪五峰は頭巾をかぶっているが、彼の髪型を気にしたことがあるだろうか。

ゲームの彼は分からないが、実際の王直は月代を剃り、髷を結っていた。それは彼に限った話ではない。中国の倭寇図に登場する倭寇たちは全員日本人のように見えるが、「中国人倭寇を描いていない」わけではないのである。

中国人にとって、髪型や服装を改めることは非常に重要な意味を持つ。
中国には有名な「華夷思想」があるが、文明人である「華」と野蛮人である「夷」の区別はどこにあるのか。実は血統は問題にされていない。漢民族と括られる人々もルーツを辿ればさまざまである。

漢民族とは、血筋ではなく文化の共有によって形成される集団である。その条件は、中華の服を着て、漢字を使い、儒教の礼に従って行動すること等である。

だから外国人でも上記の慣習に従えば「華」となるし(清の皇帝やマテオ・リッチのように)、漢族であってもそこから外れれば「夷」となる。蘇州ガイドで述べた呉の建国伝説の中で、江南に移住した兄王子たちが異民族の格好をしたことや、清初の辮髪令に激しい抵抗が起こったのもそういう事情を反映している。

倭寇」たちも日本人の装いをすることで、明への敵対と訣別を表明したのである。

倭寇の残り火【戚継光】

倭寇の取り締まりに活躍したのが、惜しくも日本版には登場しなかった戚継光である(※1)。大陸版の彼の天賦は倉城防衛戦の時間短縮で、バリバリの倭寇特効キャラである。

王直の死後、江南の倭寇は収束したが、さらに南の福建方面ではまだ倭寇の襲撃が続いていた。戚継光は福建に派遣されてその掃討に当たり、倭寇から「戚虎」として恐れられた。

彼は正規軍の頼りなさに見切りをつけ、私設軍隊の「戚家軍」を創設。また、彼は日本刀の威力を評価し、日本刀を模した「倭刀」を軍に導入。倭刀は明末から清代にかけて、官軍の装備として採用されている。こうした練度の高さや柔軟さが、彼の強さの源であった。

倭寇の使った刀(泉州海外交通史博物館)

戚継光はなぜ日本版「水都百景録」に登場しないのか?中国では倭寇と明の戦いを抗日戦争の一環として扱うこともあるため、おそらくは日本側への配慮と思われるが、前述したように、後期倭寇の実態はあくまで明の海禁に反発する勢力が集まった無国籍集団である。

…と日本人は考えるが、中国の倭寇観をどう見るべきなのか。偏狭なナショナリズムとみなすことも可能だが、16世紀末から17世紀にかけては朝鮮侵攻や薩摩藩琉球占領等日本による軍事行動が多発し、沿海ではそれに伴う日本船の出没もあった。

倭寇の記憶が生々しい中国側はこうした状況にかなり神経質になっており(※2)、リッチも初めて応天府を訪れた際にそのことについて書き留めている(※3)。

倭寇という言葉は、前期倭寇から明末の朝鮮・琉球侵攻に至るまで、日本人による軍事行動全般を象徴しているように思える。中国の倭寇観もこうした肌感覚抜きに論じることはできないだろう。

もしくは華夷思想の論理に則って、月代を剃った時点で彼らは「中国人」ではなくなったのかもしれない。倭寇を巡る評価の問題は、中国人の世界観を探るよすがとしてなかなか面白いと思う。

※1)隣の女性は同時実装の「王如一」だが、戚継光の夫人が王氏なのでたぶん奥方である。「真の勇者とは妻を恐れぬ者だ」と言った(らしい)戚継光の奥方である…。
※2)ちなみにこの頃、蘇州推官(司法官)をつとめていた袁可立が日本刀の持ち込みを摘発している。日本品の持ち込みも強く警戒されていた。
※3)リッチは1598年に南京入りした。当時は日朝戦争の最中、街には不安感が満ちていたと彼は書いている。さらに日本のスパイが捕らえられた直後で、外国人の彼は城内に入れず、船に宿泊せざるをえなかった。

美術界の新局面【董其昌】

明代において、江南の美術(書画)界の中心にあったのはやはり蘇州であった。しかし明末、董其昌の登場によって美術史は転換期を迎え、蘇州に代わり松江が文苑の主導権を握ることになった(※1)。

董其昌率いる松江派の特徴は、作品自体というよりも、その芸術論によって影響力を持った点にある。董の最大の功績は絵画史の系譜を整理して位置づけを与え、「価値観を作り出した」ことにあると言えよう。董の作品人気もまた、それに付随するものであった。

董其昌の提唱した絵画論が「南北二宗論」である。詳しくはこちらの記事に書いているが、中国画の系譜を文人画(南宗)宮廷画・職業画(北宗)の二系統に分け、前者を優位に置いたものである。

こうした考え方自体は董以前から松江の文人の中で唱えられ、彼のオリジナルではないが、膨大な美術品を収集・鑑賞し、確かな見識を備えていた董其昌の説は特に説得力を持った。内容については批判も多いが、当時の美術界に大いに影響を及ぼしたのは確かである。

さて、董其昌も含めて松江派にはなんとなく俗っぽい印象が付きまとう。政権から距離を置き、脱俗的な文徴明らと異なり董其昌は朝廷の高官であるし、美術品を売買したり、購入資金を稼ぐために高利貸しや(自作の)贋作作りに手を染めたりと中々に節操がない(※2)。

しかしこれには、明末の文人や美術界を巡る状況も関係している。当時は書画も「文人の雅なたしなみ」という枠を超えて間口が広がり、大衆化されていたのである。

その鍵はやはり徽商である。15世紀以降、江南を舞台に活動した徽商たちは書画や骨董を商品化。美術市場が成立する。その結果、需要の増加にともない大量のコピー品が制作・流通した。董其昌もまた、そういう状況を利用して自らのブランドを確立していった。

彼は確かに人格的には問題があり、民衆に家を襲撃・焼き討ちされ、膨大な収蔵品を失ったのも史実である。しかしこの醜聞も、彼の名声にはほとんど影響を及ぼさなかったという。良くも悪くも強烈な個性をもって、董其昌は文苑の頂点に君臨したのである。

なお、董其昌個人・董氏邸炎上事件についてはすでに記事を書いているので興味のある方はご覧ください。
xiaoyaoyou.hatenadiary.jp
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※1)松江の文人たちは、蘇州に対抗意識を持っていたようだ。董其昌もそれは同様で、彼は文徴明の書法を批判し、同郷の陸深の書を上位に置いている
※2)董其昌の悪友・陳継儒が董の還暦祝いに贈った文章によれば「書画で董公自身の手によるものは十に一つもない。これで生計を立てている贋作者の作品は北京に伝播し、外夷にまで流布している」そうだ。(参考文献(3)より引用)もちろん誉め言葉である。

名勝案内

豫園


豫園は明代後期の文人・潘允端が父のために作った庭園で、1559(嘉靖38)年から20年かけて造営された。豫yuとは愉yuと同じ音で、「安楽に暮らす」という意味がある。

しかし潘家の没落後には荒廃し、そのまま放置されていた。清代の18世紀後半になると町の名士や商人たちが資金を持ち寄り、豫園を買い取って復興させた。彼等は庭園を城隍廟に寄付。豫園は城隍廟の付属庭園になった。

豫園は私有庭園から公共空間となり、園内には区画ごとに同業組合の事務所が設けられた()。こうして、庭園と商業地区が一体となった豫園エリアの特殊な景観が出来上がったのである。

現在の豫園との対照図(分かるぶんだけ)。荷花池と九曲橋は現在豫園の敷地の外にあるが、創建当初は庭園内にあった。デフォルメはされているが、明代の豫園がしっかり再現されている。

※)中国では伝統的に同業団体が発達した。豫園内に施設を持った商工業者の同業団体は20ほどあり、内訳は綿花、綿布、靴、大豆など上海らしい顔ぶれである。乞食の同業団体もあった!(徽州ガイドで書いた物乞いくんの「丐幇」)

上海城隍廟

ゲームにおいて、豫園がある区域は「城隍涇」であり、また松江府では装飾で城隍廟を建てることもできる。豫園との関係も含めて、城隍廟について触れておこう。


城隍廟とは、都市の守護神を祀る寺院である。中国の伝統的な世界観では、神々や死者の世界は地上の鏡写しのようになっており、天帝を頂点とした官僚機構が存在する。そして、県や府の行政をつかさどる知府に当たる神が城隍神で、城壁を持つ都市の中には必ずこの神が祀られて住民の崇敬を集めた(※1)。

ちなみにその下役が土地神である(村長的存在)。土地神や城隍神には死んだ人間が就任することもあり(※2)、ゲームの建築テキストには「秦裕伯」の名前が出てくるが、これが上海の城隍神である(※3)。

なお、城隍神信仰が盛んになったのは明初、洪武帝の方針によるものである。洪武帝は各県城・府城に城隍廟を建てさせ、城隍神と地方官の対応関係を強調することで、地方官の権威付けをしようとしたものと考えられている。

※1)城隍とは本来城壁(城)と濠(隍)のことだが、建物自体ではなく町やそこに住む人々も含めた町の総体を指す言葉になった。
※2)たとえば、蘇州の城隍神は冒頭に出てきた春申君である(范仲淹と言われることも)。
※3)彼は元末明初の実在人物。明に仕えるよう言われたが、母の喪中且つ元朝に仕えた者としてこれを拒否したという。明朝廷は彼を忠孝の士と讃え神に封じた。朝廷が城隍神を選ぶというのも妙な話だが、当時の城隍神信仰と朝廷の結びつきが見て取れる。

ゲームとは関係ない記事だが、冥府の官僚制や城隍神・土地神についてはこちらで書いているので興味のある方はどうぞ。
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龍華寺


創建は三国時代、呉の孫権が母親のために建立したと言われる。上海鎮・上海県が設置される以前から存在した古刹で、ゲームの松江府の固有建築の中では一番歴史が古い。

徐光啓は少年時代に龍華寺付属の書院に通っており、授業が終わるといつも塔の上に登っていたそうだ。塔には鳩が巣を作っており、光啓少年はある時鳩を捕まえようとして、足を滑らせ落下した(が無事だった)という、とんでもない伝説もある(龍華塔の高さは40mある)。

南翔双塔


南翔鎮は上海中心地の北西にある歴史ある古鎮(冒頭地図参照)。起源は南朝・梁に遡り(6世紀)、明代には物資の集積地として栄えた。

南翔という町の名前は梁の武帝が建てた南翔寺に由来するが、この双塔は南翔寺の仏塔である。ただし創建年代は新しく、五代・呉越時代のもの。寺院自体は焼けてしまい、塔だけが残っている。

泖塔


現在の泖塔は上海市西部・青浦区の、泖河中の小島に建っている。唐代に仏塔として建てられ、周囲には寺院も造られたが今は塔しか残っていない。

建築テキストにあるようにかつては航海の目印となり、夜は灯をともして船を導いたというが地形の変化により宋代には役目を終えた。明代には董其昌が額を揮毫したほか、徐霞客が訪れている。

参考文献

(1)マッテーオ・リッチ著、川名公平・矢沢利彦訳『中国キリスト教布教史2』岩波書店 1982
(2)高橋孝助・編『上海史 巨大都市の形成と人々の営み』 東方書店 1995
(3)中砂明徳『江南 中国文雅の源流』講談社選書メチエ 2002 
(4)徐英槐『中国山水画史略』浙江大学出版社 2003
(5)上田信『海と帝国 明清時代』中国の歴史09 講談社 2005 
(6)陳衛平・李春勇『徐光啓評伝』南京大学出版社 2006
(7)中島楽章『徽州商人と明清中国』 山川出版社 2009
(8)宮田道昭『上海歴史探訪 近代上海の交友録と都市社会』2012
(9)岡本隆司編『中国経済史』名古屋大学出版会 2013