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【水都百景録】州府ガイド(2)蘇州府

【シリーズ】
【水都百景録】州府ガイド(1)徽州府 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(3)揚州府 - 壺中天

概要

「楓橋夜泊」や「蘇州夜曲」で日本人にもなじみ深い蘇州は現在の江蘇省、太湖に面した江南デルタの中心都市のひとつである。

優雅な文芸都市のイメージがある一方で、近代にその地位を上海に譲るまで「江南第一の経済都市」として名をはせた大都会であった。

応天府=南京や杭州と異なり統一王朝の都になったことはなく、政治拠点というより経済・文化的都市として発展してきた蘇州。中国史学の大家・宮崎市定は、その立ち位置を江戸時代の大阪に例えている。

一方、蘇州はその経済力とプライドゆえに政権との確執を抱えていた地域でもあり、そうした反骨精神が独自の文化的風土をはぐくんできた。「水都百景録」の主役である文徴明唐寅(唐伯虎)のような朝廷と結びつかない文化人が登場したのも、こうした背景があってのことである。

蘇州のあゆみ

不易の水都

蘇州は江南の諸都市の中でもとりわけ長い歴史を持ち、起源は春秋時代の2500年前に遡る。街の基礎を築いたのは列国の一つ、呉国であった。

もともと呉国の本拠地は無錫付近にあったが、呉王・諸樊が現在の蘇州に拠点を移動。紀元前514年、その子・闔閭が城壁や濠を築かせ、本格的な整備を進めた。この都市計画を指揮したのが楚から亡命してきた大臣の伍子胥であり、唯一現存する城門・盤門には彼を祀る祠堂がある。

蘇州城南西の盤門。今の建物は元末14世紀のもの。

闔閭が城壁を築いた背景には宿敵・()の存在があった。呉越戦争は『史記』の名場面としてわが国でも親しまれ、「臥薪嘗胆」「呉越同舟」などの故事成語も生んでいる。孫武伍子胥、夫差、西施・・・戦火と権謀術数とが交錯する中、英雄と美女が数多の物語を織りなしたのが古代の蘇州であった。

以後蘇州一帯は「呉」と称され三国志孫呉のように、江南を拠点に建てられた国は多く呉国を称し、明の建国者・洪武帝朱元璋も最初の建国時は呉王を名乗っている。

蘇州の西にある姑蘇山の名前にちなんだ「蘇州」の名が初めて用いられるのは隋唐代のこと。 宋・元代には「平江」の名が用いられ、明代に設置された「蘇州府」の名称が定着して今に至った。

春秋時代に築かれた蘇州城(闔閭大城)は運河に囲まれ、水陸それぞれ八つの門を備えていた。支配者の交代によって何度か損害を受けているが、宋代の蘇州の見取り図「平江図」に見られるように、基本的な形や範囲は現在まで変わっていない。西安や北京の城壁(=都市)が王朝ごとに位置を変えているのを考えれば驚くべきことである。

ゲームのマップは明代の蘇州で一番栄えていた閶門を中心に、城壁とその周辺の名所が再現されている。 とはいえ本来なら古城の西にある楓橋・寒山寺が北に置かれているなど、少々アレンジされているようだ。

※) なお、越の首都会稽は現在の紹興

文明の周縁から

呉の建国神話が語るように(※1)、古代、江南一帯は中原の国々から見て未開の地であった。しかし時代とともに経済力を蓄え、その地位を高めていく。 蘇州の地位も江南の発展とおおむね連動しているため、その演変を見ていこう。

歴史が古いだけあって、蘇州は「周縁」の中でも有数の都市として知られていたようだ。司馬遷は『史記』の貨殖列伝で「夫れ呉は(中略)海塩の饒(豊かなこと)、章山の銅、三江・五湖の利有りて、亦た江東の一都会なり」と書いている。

後漢末に孫呉が建国されたことから、当時の江南には独立国家を運用するだけの地力もあった。しかし魏呉蜀の国力比が6:3:1と言われるように、この時期の江南は耕地も人口も限られ、華北を圧倒するほどの地域ではなかったのである。

無錫三国城の呉王宮

江南の開発が本格化するのは4世紀頃のこと。華北に進出した遊牧民に追われた晋王朝が建康に都を定め、 東晋として再スタートを切った。それに伴い華北から人口が流入し、開発が進んでいく。南朝の支配を通じて江南の経済力は無視できないものとなり、隋の煬帝がわざわざ大運河を建設して南北を結んだのもその証と言えよう。

大運河が築かれ水運が盛んになったことで、水路の流域には物資の集積地として都市が発達していく。蘇州もその恩恵にあずかったが、唐代の江南で最も栄えた町は、大運河と長江の結び目である揚州であった。

※1)『史記』「呉太伯世家」によると、周の古公亶父には三人の子があった。古公は末子の季歴を後継者と望み、長兄の太伯、次兄の虞仲は父の意をくんで「蛮地」に移住。髪を切り、入れ墨をした異民族の装いをして政界復帰の意がないことを示したという。この太伯が呉の建国者とされている。ちなみに季歴の子供が姫昌すなわち文王、その子が殷を討った武王である。

蘇州の躍進

蘇州が本格的な発展を遂げるのは南宋の頃と言われている(※1)。

唐末から五代にかけて、強大な中央権力の不在によって従来のような都市の行動制限・商業規制(※2)が崩壊。さらにこの時期には中国各地に独立勢力が割拠し、南唐の文房四宝など特産品が発達。これらを背景に宋代には全国的に商業が活性化し、市場町である鎮も新たに成立した。

12世紀、女真人に追われた宋が南遷すると(南宋の建国)、江南の開発がさらに進み、蘇州は都・臨安(杭州)の補給基地として重要な役割を果たすことになった。蘇州には各地から運ばれた税や物資が集められ、臨安に運ばれたのである。

蘇州には物資の中継地として人が集まり、大運河に近い閶門付近に繁華街が形成されたのも、南宋の頃からであった。

閶門の繁華街(清代・姑蘇繁華図)

13世紀、ユーラシアの通商路を掌握したモンゴル人は元を建国、南宋を滅ぼし中国を統一した。元はユーラシア各地をつなぐ海上ネットワークと首都・大都(北京)の連結を目指し、また大運河の利用が困難であったことから(詳しくは揚州ガイド参照)華北への物資輸送も海路が中心となった。

この時江南から華北への積出港として繁栄したのが、蘇州の下流にある劉家港(※3)であった。蘇州は劉家港との結びつきによって繁栄し、宋から元にかけて「平江路(蘇州を含む行政区分)」の戸数は1.5倍に増加した。

この時期の蘇州については、かのマルコ・ポーロも『東方見聞録』にて「この都市の住民が全て武人だったら、たやすく世界を征服出来るだろう」と驚嘆を込めて書いている。

こうして「辺境」に過ぎなかった蘇州は水運を利用して、中国経済になくてはならない大都市に成長していったのである。

※1)参考文献(2)より
※2)具体的には、都市内を壁に囲まれた区画に分けて通行を制限する坊制、商業地区の制限(自由に店を開くことが出来ず、商売の場が限定されていた)、夜間の外出を禁じる「犯夜の禁」など。
※3)劉家港は鄭和の艦隊の出発地でもあり、明清代にも重要な海港であった。ちなみに、蘇州が上海に次ぐ「第二位」に陥落した背景にも、太平天国の乱による蘇州の荒廃のほかに劉家港が土砂で埋まり、大型船が停泊できなくなったことが関係しているので、劉家港との関係はとても重要だった。

洪武帝の弾圧

蘇州の経済力が増すにつれて、同地の戦略的な重要性も増していった。14世紀、朱元璋と同時期に元朝に反旗を翻した群雄の一人・張士誠は江南デルタを中心に建国したが、その首都に選ばれたのが蘇州であった。しかし、このことが蘇州の命運を陰らせることになる。


1362年の中国(ワールド・ヒストリカル・アトラスより)

穀倉地帯かつ広大な塩産地を有する江南を支配し、張士誠の呉国は圧倒的な経済力を誇った。しかし張自身は保守的で野心に欠ける人物で、群雄の陳友諒から朱元璋挟撃を提案された時にもこれを断っている。

呉国では君臣共に奢侈に溺れ、国内の風紀も弛緩していたが、裏を返せば自由な風土があったということである。蘇州には戦乱を避けて避難してきた豪商や知識人が集まっていたが、張士誠は彼らの支持を取り付けるために便宜を図り、産業や文芸を保護した。結果蘇州では活発な文化・経済活動が展開したのである。

張士誠と結びついた商人の代表例が「江南一の富豪」と言われた沈万三であった。彼は張と姻戚関係を結び、有力な支援者となった。

1366年、朱元璋は将軍の徐達・常遇春を蘇州攻略に向かわせた。しかし沈万三ら豪商の支援もあり包囲戦は長期化、9カ月にも及んだ。やがて蘇州を陥落させた朱元璋は同地に苛烈な報復を加えるのだった。

1.住民の強制移住

朱元璋蘇州と松江一帯の富豪を彼の故郷である鳳陽(安徽省北部)に移住させ(※1)、また戦乱で荒廃した江蘇省安徽省北部の復興のため、蘇州住民を各地に強制移住させた。彼等は大運河に通じる閶門から出発し、開拓地に送り込まれていった。

この事件の名残は様々な形で残っている。安徽北部に伝わる「鳳陽花鼓」という民間芸能は、強制移住させられた元蘇州住民が、芸で物乞いをしながら故郷の墓に詣でたことに起源があるという(※2)。

2.重税

前述のように朱元璋は蘇州や松江の地主を移住させ、彼らの土地を没収。それらを官田とし、重い税負担を貸した。蘇州、松江を中心とした江南デルタの官田からの税収は全国の五分の一に上ったという。

3.知識人弾圧

蘇州では張士誠のもとで文芸活動も活発であった。その中心となったのが、のちに永楽帝の懐刀として仕える姚広孝(道衍)や詩人として名高い高啓ら「北郭十友」である。こうした蘇州の知識人も弾圧の対象となり、例えば高啓は謀反の疑いを掛けられた友人の魏観(蘇州知府)に連座して処刑されている。

明清を通じて朝廷は蘇州の思想・言論活動に目を光らせ続け、清初に蘇州の文芸評論家・金聖嘆が処刑されたのもその一例だと考えられている。

以上である。
このような厳しい弾圧には禍根を断つというだけでなく、農民出身で質実な性質の朱元璋が、蘇州の都会派で文化的な雰囲気を嫌ったためとも考えられている。

以降、蘇州と朝廷の関係は緊張をはらむものとなった。これについて、イエズス会士のマテオ・リッチが記録を残しているので引用してみよう。(カッコ内は筆者注)

かつてここ(蘇州)は、現在この国を治める王家の初代王(洪武帝)に服従することを望まなかった有力な貴族(張士誠)の国家の首都であった。そのため、たいへんな重税を払っており、それはこの地の収穫の半分に相当する。それゆえ、チーナの省のなかには、二省を合わせても、このスーチェオ(蘇州)地方ひとつほどにも国王に税を納めていないところもあるほどだ。したがって、厳しく監視され、常に反乱がおきるのではないかと懸念されている。(※3)

リッチが明を訪れたのは万暦年間(16世紀後半)。朱元璋の張士誠討伐から200年近く経ち、蘇州も復興を遂げていた。そんな時期にあっても、蘇州と朝廷の間には外来の客人の目にもわかるほどの緊張関係が持続していたのである。

そして、こうした蘇州の反骨精神が仕官せず書画に専念する文人たちを生み、その中から文徴明ら呉派も生まれていったのである。

※1)沈万三は鳳陽に移住させられてはいないようだが、財産を没収され、雲南に流され没落した。
※2)未所持のため詳細は知らないが、「花鼓の上奏」のキャラクターはこれに関わる人物なのだろうか?ちなみに鳳陽花鼓にはほかにも、水害で財産を失った住民が芸を披露して物乞いをしたのが起源という説もある。
※3)参考文献(1)より

蘇州の復興

洪武帝に痛めつけられた蘇州が復活し、中国最大の商工業都市に成長したのは15世紀、明代中期のことである。その背景としては以下が挙げられる。

1.交易ネットワークの拡大と銀の流入

15世紀は海上交易の時代であった。ユーラシアの交易ネットワークにスペインやポルトガル人が新たに参入、さらに新大陸も含めた地球の全域が海路によって結ばれ一つの商業圏となった。アジア市場で人気の商品といえば生糸や陶磁器などの中国商品であり、代価として大量の銀が中国に流入した()。

銀はモンゴルの世界支配を機に世界的な通貨として流通していたが、14世紀には寒冷化や黒死病の流行で通商が停滞。中国は銀不足に陥り、これが元朝滅亡の一因となった。そのために明初、洪武帝は現物経済を推し進め、貴金属の使用も禁じていた。銅銭や紙幣など貨幣はあったが、発行量は少なく、貴金属の蓄積がないため信用も低く、商売をしようにもまともな通貨が存在しない状態であった。

そこに海外から大量の銀がもたらされ、中国内では商業が活性化。銅銭に代わって主要な貨幣として銀が用いられるようになり、税制も現物納から銀納に変更された(高校世界史でお馴染みだった「一条鞭法」である)。

2.徽商の活動

徽州ガイドで述べた通り、徽商の台頭には銀需要の高まりが関係している。蘇州復興の時期は徽商の台頭時期と重なり、彼らもそこに大きな役割を果たしているのだ。

商業の活性化は工業の発展と連動している。そこで活躍するのが、原材料や商品を運ぶ商人である。時代の潮流を捉えた徽商たちはその組織力や学識を武器に全国に進出し、江南では蘇州がその活動拠点となった。

徽商は流通を担うことで蘇州の商工業を支え、中国一の経済都市に押し上げたのである。

※)交易が活性化し銀の需要が増加したことで、スペイン人が支配する中南米ポトシ銀山サカテカス銀山・日本でも石見銀山の開発が進み、大量の銀が出回ることとなった。

工業都市・蘇州

本節では明代の江南の工業化と蘇州の産業について述べていきたい。

「魚米の郷」から工業都市

蘇州を含む江南デルタは温暖湿潤な気候に恵まれ、「魚米の郷」と呼ばれてきた。とりわけ宋代には新田開発や稲の品種改良により生産量が飛躍的に増加()。中国を支える穀倉地帯となった。いわゆる「蘇湖熟すれば天下足る」である。

しかし明代になると状況が変化する。地殻変動で江南デルタの地質が変化し保水力が落ちてしまった。そうすると、水を蓄えられず稲作を放棄する地域が増加。代わりに桑や綿花など商品作物の栽培が進み、江南デルタは穀倉から工業地域に転身することになった。

そして、食糧不足に陥った江南デルタの諸都市は食糧を他地域、特に長江中流域に頼るようになった。こうして、明代中期には長江下流の江南デルタ=商工業、長江中流域=農業という分業体制が出来上がったのである。

※)都に運ばれる米の量は、唐代に200石だったのが宋代には650石に増加したという。

絹産業と「蘇州織造」

蘇州の工業製品と言えば、真っ先に挙がるのは絹製品だ。今でも、蘇州のツアーに参加すると必ずシルク店に連れていかれる。

しかし意外なことに、蘇州を含めた江南の絹製品が市場で優位を占めるのは、明代に入ってからである(※1)。それまでも絹の生産自体は行われていたが、農民が副業として生産する程度だった。先に述べた事情で、明代には状況が一変。専門の職人によって、都市で組織的・大規模な生糸・絹織物生産が行われるようになったのである。

これらの工場は都市の東半分に集まり、明末の蘇州では絹織物業者の数が3万戸に上ったという。製糸や加工業者、絹製品を扱う商人を含めれば、住民のかなりの数が絹産業に関わっていたと考えられる(※2)。絹産業は明清を通じて、蘇州の基幹産業としてその繁栄を支えた(※3)。

蘇州には官制の絹織物工場も設けられ、主に宮廷の御用品を生産した。これがゲームに登場する「蘇州織造」である。なお、「蘇州織造局」の名称が用いられたのは清代(※4)で、実際の明代の名称は「蘇州織染局」といった(※5)。

織染局には173台の織機が設置され、700名あまりが働いていた。労働者は「匠籍」(職人の戸籍)に登録された職人が輪番で担当する一種の労役制をとっていたが、生産が追い付かなくなったため明末には生産の民間委託が進んだ。

蘇州織造の説明文には建築テキストでお馴染みの女商人・春花が登場するが、彼女も政府の委託を受けて蘇州織造の生産を請け負っているのかもしれない。

※1)それまでの絹産業の中心地というと、四川省が挙げられる。成都には錦江、錦里など絹織物関連の地名が残るし、「蜀錦」は諸葛亮の北伐の財源でもあった。ちなみに明代の蜀錦は庶民にはとても手が出ない超高級品で、だからこそ蘇州製品が絹織物市場に割って入れたのだそうだ。
※2)正確にはもう一つ、綿産業という柱があったが、長くなるので綿業については松江府ガイドに譲ることにする。
※3)明代の蘇州の人口について正確な統計はないが、参考文献(3)によれば1747(乾隆十二)年の人口は約9万8千人という試算がある。
※4)なお、機関名としては「織造局」で、「織造」というとその長官のことを指す。清代には蘇州・杭州・南京(江寧)の三つの織造局があり、『紅楼夢』の作者である曹雪芹の一族は、曽祖父の代から三代にわたって織造を務めたことで知られる。
※5)松江府の「塩事司」も実際は「塩運司」というので、あえて別の名前を使って架空の明代を強調する方針なのかもしれない。

蘇州が結ぶ中国経済

蘇州で取引されたのは蘇州産の製品だけではない。水運の中心である蘇州には州府内の農村や鎮から運ばれた商品が集まり、さらに徽商や晋商(山西商人)をはじめとする各地域の商人を通じて国内外のありとあらゆるものが蘇州に集まり、取引された。

外国人商人も含め、全国の商人や商品が蘇州を通じて繋がり、当時の中国には蘇州を結び目とする超地域的な商業ネットワークが成立していた。マテオ・リッチの言を借りれば「人間の必要とするものはことごとく揃っている」街、それが明清代の蘇州だったのである。

反骨の文芸都市

明代の経済繁栄、および政権との確執は、蘇州に新しいタイプの知識人を生み出していった。水都百景録にも登場する、これらの人物について見ていこう。

文雅の矜持~呉中の才子たち

前述したように、洪武帝による蘇州弾圧により、蘇州では反権力的な気風がはぐくまれた。その影響で、蘇州が復興を遂げた明中期以降、科挙受験や仕官をせず文筆活動で名声を得る文人たちが登場した。その代表が、いわゆる「呉中の四才子(※1)」や、沈周に始まるとされる文人集団「呉派」である。

ゲームにも登場するように、明代中期の蘇州は文徴明、唐伯虎ら史上名高い文化人を数多く輩出した。呉派というのは彼等の拠点・蘇州にちなんだ名称であり、そのリーダー格が文徴明であった。

温厚篤実な人柄かつ社交を愛した彼は個性的な蘇州文人たちを結びつける要の存在であり、ゲームにおいても各時代の個性派が集まる「江南水都百景」の守護者としてぴったりな人選と言えよう。

彼等の特徴は、仕官せず在野で文芸に専念したことだった。これまでも蘇東坡(蘇軾)のように書画をたしなむ文人はもちろんいた。しかし彼らの本業は官僚であり、文芸活動はあくまで趣味の領域であった。そして彼らの文芸活動を支えていたのは、官僚としての経済力だったのである。

言い換えれば、経済力があれば官僚にならなくても文芸活動は出来る。明代半ば以降の蘇州にはそうした生き方を可能にするだけの条件が揃っていたのである。

第一に、商業による富の蓄積第二に、芸術の商品化と市場の形成(※2)。そこに蘇州の反骨の気風が加わり生まれたのが、彼ら呉中の才子たちであった。こうした彼らの生き方は「市隠」と表現される。山ではなく、町で暮らす隠者という意味である。

とはいえ、彼らを単なる反権威的な集団のように見るのは早計である。沈周(※3)のように徹頭徹尾科挙と距離を置いている人物は意外と珍しいのだ。

文徴明や祝枝山は度重なる落第にもかかわらず科挙を受け続けたし、唐伯虎の人気も「解元(※4)」の名声による部分もあった。あくまで「それ以外の道でも名を成せる」ようにはなったが、科挙官僚コースは相変わらず無視のできない「王道」だったのである。

※1)文徴明、唐寅(唐伯虎)、祝允明(祝枝山)、徐禎卿の4名である。ちなみに沈周、文徴明、唐伯虎、仇英は「明四家(呉門四家)」。
※2)書画など美術品は従来物々交換でやり取りされていたが、明代には値段が付けられ商品として流通するようになった徽州ガイド参照)。呉門四家の中でも唐伯虎と仇英は絵を売って生計を立てていた職業画家であり、作業時に銅貨を獲得できる彼らの天賦はこうした史実を反映したものである。なお、後世董其昌は職業画家と文人画家(呉派も含む)を区別して後者を優位に置いたが、呉派の画家たちも経済都市・蘇州の恩恵から生まれた存在である以上、こうした区別は本来出来ないのである。
※3)彼は洪武帝に破滅させられた沈万三の同族なので、とりわけ宮仕えに対しては慎重な家風だった。
※4)解元は科挙の2段階目「郷試」の首席合格者。郷試は各地で開催され、倍率も異なっていた。とりわけ知的水準が高く人材豊富な応天府(南京)の郷試は激戦区であり、徐光啓のようにわざわざ北京に越境受験しに行く者もいるほどであった。唐伯虎は最難関の応天府郷試の解元ということで、名声の度合いも半端ではなかったのである。(ちなみに陸深も南京解元)


三笑縁~唐伯虎というジョーカー

こうした人物の中でも、後世特に人気を集めたのが「唐解元」こと唐伯虎である。粋で奔放な彼の生き方は多くの民間伝承や文学作品を生むことになった。ここでは彼の物語について見ていこう。

蘇州探検の原型となった物語 「三笑縁」 唐伯虎と「秋香」こと林奴児の恋物語

杜牧と張好好のように風流才子と佳人の恋、というのは古くから好まれたテーマであるが、逆に陳腐な設定ともいえる。「三笑縁」 が特に人気を集めたのはそれが理由ではない。 この物語がなぜ人気を博したのかというと、その秘密は「価値の逆転」にある。

馮夢龍が翻案した「唐解元一笑姻縁(※1)」に従ってあらすじを追ってみよう。


風流才子と名高い唐伯虎はある日閶門付近で舟遊びをし、書画を求めに来る客の相手をしていた。すると豪華な船がやってきた。すれ違いざま、船に乗っていた青い服の女性と目が合う。彼女の微笑みに、唐はすっかり一目ぼれ。その船が無錫に住む華学士(内閣大学士=宰相)の船であることを知り、すぐさま船を追いかける(※2)。

無錫に着くと、今度は華夫人の行列に出くわす。そこに例の女性を見つけ、唐は彼女が夫人の侍女だと知る。彼は華家への潜入を決行。ぼろ服を買って貧乏書生に身をやつし、唐寅に字面の似た「康宣」の偽名を名乗り、華家に売り込みに行くのだった。

首尾よく雇われた唐伯虎は華学士から「華安」の名を賜り、子息の家庭教師になった。やがて華学士の知遇を得た唐は秘書にまで出世。意中の女性・秋香を射止め、めでたく結ばれるのだった。

以上である。
設定は凝っているが、秋香は正直トロフィーワイフ的な描かれ方のみで、二人が結ばれる過程については意外とあっさりしたものである。

この物語のポイントは、「解元」の唐伯虎が「家庭教師」 となって「侍女」 を求める、という点であった。

主人公、唐伯虎は仕官は叶わなかったとはいえ、中国の中でも最高倍率の南京郷試を解元で突破したエリートである。一方の「家庭教師」は解元が知識人の成功例であるとすれば失敗例、知識人が落ちぶれて行きつく先である。

物語の中でも、華学士が雇い入れの際に「身価」を問う場面がある。これは、自らの身を主人に売る、その買戻しの代価のこと。当時の雇用契約は自分の身を相手に売る、一種の人身売買のようなものであった。唐伯虎は恋を成就させるため、自由身分を自ら放棄したことになる。

もちろん、ヒロインの秋香もそうやって雇われた奴隷同然の身。エリート中のエリートが恋に道を踏み外し、「最底辺の人生」に突っ走るからこの話は面白い。同じ遊び人でも、主人公が祝枝山だったらこの話の魅力は半減してしまうのだ。

ちなみに、この物語の主人公は本来唐伯虎ではなかった。「文人がしもべに身をやつして侍女と結ばれる」というのは、本来陳元超という別の人物の逸話であったのが、後世になって唐伯虎が主人公に入れ替わったのである(※3)。

なぜ彼が主役に抜擢されたのか。それは、本節の冒頭で述べたような唐伯虎の奔放不羈で常識にとらわれない生き方が、文人たちの理想や自意識の投影先として好まれたからであった。作品の書き手はあえて唐伯虎に「普通ではない」行動をさせ、読み手は我が身を重ねて憂さを晴らし、喝采を送ったのであろう(※4)。

そう考えると、唐伯虎は陽気な振る舞いと巧みな芸で周囲を楽しませ、唯一面と向かった政権批判が許された宮廷道化師、ジョーカーのような存在と言えるかもしれない。

三笑縁の物語もまた、反骨の経済都市・蘇州ならではの物語であった。

唐伯虎の生涯や「唐解元一笑姻縁」については、こちらのブログ様が詳しく書いておられるので興味のある方は是非ご覧ください。
diary.sousokou.jp

映画もあります(「唐伯虎点秋香」1993年)。「少林サッカー」のチャウ・シンチー作品だけあって、武侠アクション・ギャグ満載の濃ゆい味付けなので好き嫌いはあると思う。
www.youtube.com
冒頭5分の、祝枝山を(物理的に)振り回しながら絵を描くシーンは必見!

※1)「三笑縁」というのは、作中でヒロイン秋香が唐伯虎に三度微笑みかけるのを指すが、バージョンによって差異がある。馮夢龍の小説はこの物語の古い型であり、微笑むのは一回のみ。後世筋書きや設定が複雑化し、秋香が三度微笑むようになったり、華学士が太師になったり、息子に名前がついたりと色々変化が起こっている。
※2)林奴児の天賦が釣具店特効というのは不思議だが、彼女と唐伯虎が船で出会ったことに由来している?三笑縁も色々なバージョンがあるので関係する話があるのかもしれない。
※3)ちなみに林奴児や華太師は実在人物だが、唐とは活躍年代がズレている(林は1450年、唐は1470年、華太師のモデル・華察は1497年生まれ)。林奴児は沈周(1427年生まれ)に絵を学んだことがあるというので、やはり一世代前の人物であるようだ。
※4)ちなみに「唐解元一笑姻縁」は馮夢龍の短編集『警世通言』に収められているが、目次では「唐解元出奇玩世(奇を出し世を玩(もてあそ)ぶ)」となっているそうで、やはり世の中の常識をおちょくってみせるのがこの物語の主題なのだろう。

通俗文学の浮上と庶民幻想~馮夢龍

蘇州の経済発展は、思想・言論活動の活発化をももたらした。『三笑縁』の唐伯虎が自由の象徴として好まれたというのなら、当時の蘇州にはそういう思想的風土があったのだ。

思想活動には、文字媒体が不可欠である。印刷技術は中国四大発明の一つでもあり、宋代には登場していた。とはいえ印刷には版木の制作や人件費で費用がかさむため、出版は富裕層の「特権」であった。

明代には商工業による富の蓄積を背景に、蘇州、杭州など江南で出版業が盛んになった。そして明末の蘇州で編集者として活躍し、出版業をリードしたのが馮夢龍であった。

彼もまた科挙に苦戦した人物であり、生計を立てるため執筆活動や出版業に従事した。これも文徴明らとはまた異なる、在野知識人の新しい生き方であった。

民間における書物の出版自体は当時珍しいことではなく、例えば福建省の建陽は、宋代から科挙参考書の出版で知られていた。しかし明末の「新しさ」は、小説や民謡などの通俗文学が評価され、出版が進んだことであった。

中国の文化には二つの世界が存在する。
1つは所謂ハイ・カルチャー。史書や詩など文言(いわゆる「漢文」)で書かれたもので、士大夫によって担われる「正統な文化」であった。
もう1つはポップ・カルチャー。街角で演じられる講談や演劇、または白話(口語)小説など。文化の担い手たる士大夫から見れば「低級な文化」であった。

従来二つの世界が交わることはなく、後者は貶められてきた。「小説」という名称自体にも「取るに足らないもの」という侮蔑のニュアンスが含まれている。

しかし明末になると、後者のいわゆる通俗文学の地位が上昇する。それと大きく関わっているのが、思想界の巨人にして異端児・李贄李卓吾である。大胆な価値観の転換を試みた彼の思想(※1)は明末の思想界に一大センセーションを巻き起こし、多くの支持者が現れた(※2)。

儒学の硬直した倫理観を鋭く攻撃した彼は、ありのままの心の働きを重んじる「童心説」を唱え、李を奉じる知識人たちはその「童心」を庶民の心の中に見出したのである。それはあくまで理想の投影で、庶民の実態とは異なっていただろう。とはいえ庶民世界を鏡として、知識人の間で価値観の見直しが図られたことには大きな意義があった。

李卓吾の熱心なファンであった馮夢龍も民謡を収集したり、白話小説の出版に関わった。「三笑縁」の原型が収められた『警世通言』のほか、有名な水滸伝』や『金瓶梅』もその一つである。いわゆる『四大奇書※3)』も、従来は劇場で演じられる講談(語り物)の台本であったものが、知識人の介在によってはじめて「文学作品」に昇華されたのである。

明末清初の蘇州の文芸評論家・金聖嘆もまた、このような潮流から生まれた人物である。李卓吾は「童心を持つ作品」として『西廂記』や『水滸伝』を評価したが、金聖嘆もそれを継承し、この二作のほか『荘子』や屈原の『離騒』、杜甫の詩などを「才子の書」として評価し、その地位を高めた。

既成の価値観の見直しや転換が起こった明末の思想界は、江南の富を背景に活発化した出版業を追い風とし、文学史上に新たな局面を描き出していったのである。

※1)例えば男女平等を説いたり、歴史人物でも「不忠者」として評価が低かった曹操や馮道(五代十国時代、五王朝に仕えた政治家)を高評価するなど。
※2)水都百景録の明末勢にも、李卓吾と交流した人物や熱心なファンが非常に多い。前者は湯顕祖・利瑪竇、後者は董其昌・馮夢龍など。董其昌と李卓吾・童心説についてはこちらの記事をどうぞ。
※3)ここでは清代に成立した『紅楼夢』を除いて『水滸伝』、『三国志演義』、『西遊記』、『金瓶梅』。正確にいうと『金瓶梅』は講談由来ではないが、『水滸伝』の二次創作なので間違いとも言えないのかもしれない。

名勝紹介

ゲームに登場する名勝や、探検の舞台についてご紹介。

東園

蘇州と言えば見事な文人庭園で知られ、「江南の庭園は天下に甲たり、蘇州の庭園は江南に甲たり」という言葉もあるほどだ。蘇州には拙政園、獅子林など多くの庭園があるが、東園のモデルは現在の「留園」。というより、留園の旧名が東園といった。

明代中期の嘉靖年間(1522~66)、官僚の徐泰時が東園・西園の二つの庭園を造営。清代には劉恕の手に渡り、彼の名にちなんで「劉園」と呼ばれたのが、のちに同音の「留園」となった。一説には、清末に閶門付近が戦火に見舞われた際、難を逃れた(=姿を留めた)からだという。

実績の「玲瓏たる石」というのは、留園にある太湖石の名峰「冠雲峰」。高さ約6m、重さ5トンの堂々たる名石で、『水滸伝』でもおなじみ徽宗の「花石綱」の遺物だと言われている。

花石綱というのは、徽宗開封に大庭園「艮嶽」を造営するため、全国から石や草木を集めさせたもので悪政の象徴とされる。建築説明文に「石は朱勔に従わず、主の傍にあるべし」とあるが、「朱勔」はこの花石綱を推し進めた大臣の名。冠雲峰が開封に運ばれず、蘇州に残ったことを指している。

寒山寺と楓橋

寒山蘇州市街地の北西3.5kmの所にあり、他の観光地からは少々離れている。

寺院の創建は仏教の栄えた南朝・梁代(6C)。当初は妙利普明塔院という名であったが、奇行で知られる唐代の僧・寒山が住職となったことで寒山寺と呼ばれるようになった。何度か火災に遭っており、現在の建物は清代に再建されたもの。文徴明や唐寅が書いた碑文の欠片が残っているそうだ。

この一帯を詠んだ唐の詩人・張継の「楓橋夜泊」は中国のみならず日本でも有名である。

月落ち烏啼いて霜 天に満つ  
江楓 漁火 愁眠に対す
姑蘇城外の寒山
夜半の鐘声 客船に到る

寒山寺一帯には楓橋古鎮がある。街の名は運河にかかる橋の名に由来しているが、夜間に封鎖されたため「封feng橋」と言ったのを、張継の「楓橋夜泊」にちなんで楓feng橋と改めたのだそうだ。

静謐な詩のイメージとは裏腹に、楓橋一帯は古来交通の要衝として賑わった場所である。陸上では公道の一部として宿駅が設置され、水上では大運河の蘇州方面(東)・杭州方面(南)への分岐点にあたるため多くの船が集まった。特に明清代の楓橋は食糧の一大集積地として大いに繁栄した。 

前項でも述べた通り、明代以降の江南デルタは商工業が発達した代わりに食糧生産を他地域に頼らざるを得なくなった。その食糧が楓橋に集められて蘇州市内や江南各地に運ばれ、また蘇州一帯の年貢米もここから大運河を通じて北京へと運ばれていった。米穀や豆類を楓橋で積み下ろす船は数千にも上ったという。


楓橋古鎮に再現された米問屋と宿駅(奥)。

虎丘


蘇州市北西に位置する虎丘は、蘇州の始祖ともいうべき呉王・闔閭の墓所である。虎丘という名は、呉王夫差が父王・闔閭を埋葬した3日後に白虎が現れ墓の上にうずくまっていたという伝説に基づくもので(※1)、本来の名前は海涌山という(※2)。

虎丘には南北朝時代に寺院が建てられ、北宋の961年に塔が完成。寺院は宋代に雲岩寺と改称されたので、虎丘の塔は雲岩寺塔と通称される。塔は400年前頃から地盤沈下で傾き始め、現在は北西に15度傾いている。祝枝山が塔上で詩会を催したというが、その時はどうだったのだろうか?

現在の塔の姿はゲーム内のものと大きく異なるが、火事で焼けてしまい、煉瓦製の塔身だけが残っているため。本来は屋根のある作中に近い姿であったと思われる。なお、ゲームの「雲岩寺塔」のデザインモデルは蘇州盤門景区にある瑞光塔ではないかと思われる(赤い欄干や台座が似ている)。

※1)記事のヘッダーに使わせていただいている画像は公式配布の壁紙をトリミングしたものなのですが、白虎=唐伯虎、紅葉=秋香(林奴児)を重ねるだけでなく白虎=虎丘伝説+紅葉の葉=楓橋という蘇州の名勝をも織り込んでいる非常に秀逸なイラストだと思う。
※2)蘇州探検で「海涌狸」が虎丘のステージに登場するのはこのためである。

閶門と山塘街


蘇州の城門のうち特に商人が集まり栄えていたのが、蘇州探検にも登場する閶門だ。大運河に近い閶門は交通の要所として南宋代から人が集まり、周辺は商店が軒を連ねる大商業地域となった。唐伯虎も閶門付近の商家の出身である。

この閶門から虎丘に伸びる運河が山塘河。川沿いが山塘街(七狸山塘)で、つまり蘇州探検は物語の進行と共に山塘河を西に進んでいく形になっている。この周辺は古い街並みを保存するため現在では観光地としても人気である。

ちなみに山塘河を開き、山塘街の基を築いたのは唐代に蘇州刺史として赴任した白居易であり、山塘街には彼を祀る「白公祠」がある。

また前述したように、朱元璋は蘇州攻略後、多くの移民を北部に送り出した。1374年には閶門付近の埠頭から移民を乗せた船が出発し、大運河や長江を通じて北部へ向かった。

彼等の子孫には「祖先は蘇州の閶門から来た」という記憶が継承され、今では閶門付近に子孫たちが祖先の手がかりを探るための施設として「朝宗閣(尋根亭)」が建てられている()。内部には移住者の姓氏、目的地、人数等の記録が陳列されているそうだ。

朝宗閣と埠頭

※ちなみに、同様のエピソードを持つのが建築「先祖祀りの槐」の原型となった山西省の「洪洞大槐樹」である。朱元璋は戦乱で荒れた華北の地力を回復するため、山西省から大量の住民を強制移住させた。洪武年間から永楽年間にかけて18回の組織的な移民が行われ、総勢百万に上ったという。彼等の出発地となったのが槐の木で、移民の子孫たちはこの木を故郷と考えるようになっていったそうだ。山西の住民が選ばれたのは、おそらく山西が農業に向かない土地柄のため。同じ理由で、同地は徽商と並ぶ大商人集団・山西商人を生み出した。

参考文献

(1)マッテーオ・リッチ著、川名公平・矢沢利彦訳『中国キリスト教布教史1』岩波書店 1982
(2)大木康『明末のはぐれ知識人 馮夢龍と蘇州文化』 講談社選書メチエ 1995
(3)王衛平『明清時期江南城市史研究:以蘇州為中心』人民出版社 1999
(4)旅名人編集室『蘇州・南京と江蘇省』旅名人ブックス34 日経BP企画 2001
(5)中砂明徳『江南 中国文雅の源流』講談社選書メチエ 2002
(6)張海英『明清江南商品流通与市場体系』華東師範大学出版社 2002
(7)中国古鎮遊編集部編『中国・江南 日本人の知らない秘密の街 幻影の村34』ダイヤモンド社 2006 
(8)高士宗明『写真で歩く中国江南の街並み 水郷の都市と古鎮』彩流社 2007
(9)岡本隆司編『中国経済史』 名古屋大学出版会 2013
(10)岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』東洋経済 2019