※24/2/20 住民追加(蘇州・揚州)。並び順を時代順に改めました。
各都市ゆかりの人物を整理してみたので、開発完了後の配置の参考にどうぞ。他に追加の情報が判明したら、随時追加していきます。
杜甫李白、徐霞客や李時珍などあちこち流浪・周遊している人もいるのですが、一時的な通過点というよりも、その土地がその人の人生と大きく関わったケースをおもに挙げています。(=定住候補者)
あくまで歴史上の話なので、ゲーム内でゆかりの人物はここからつなげていっていただければ!
【応天府(南京)】
別名:金陵、建業、建康、江寧など
(1)嬴政
南京市街を流れる運河を秦淮河というが、それを開いたのが始皇帝。そのために秦の字がついている。
当時金陵には「帝王の気」があると言われていたので、警戒した始皇帝が運河を開き、「気」を抜こうとしたものと言われる。街の名を秣陵(秣は馬の飼葉)と改めたのもこのため。
(2)周瑜
言わずと知れた三国・呉の名将。呉の孫権は秣陵に都を置き、建業と名を改めた。なお出身は安徽省である(徽州とはズレるが)
(3)謝道韞
彼女の生きた東晋の都は建康。彼女の叔父・謝安は建康の秦淮河畔にある烏衣巷に住んでいたので彼女もここにいたと思われる。とすると柳絮のエピソードの舞台も建康か。
彼女の夫は王羲之の子・王凝之だが、彼は会稽(=蘇州を含む郡名)内史をつとめたので蘇州にも縁がある。
(4)杜牧・杜秋娘
杜秋娘は金陵出身。宮中に仕えたのち政争に巻き込まれて故郷に戻った。杜牧は金陵赴任中人づてに彼女の身の上話を聞き、感じ入って「杜秋娘詩」を記した。杜牧も金陵滞在経験があり、有名な「江南の春」も南朝の都であった金陵を歌ったもの。
(5)趙明誠、李清照
趙が江寧(南京の宋代名)知府として赴任。李清照は夫の死後江南を流浪、南宋の都となった杭州にも滞在した。彼女の天賦を考えると、杭州に住まわせる方がよさそうである。
(6)朱元璋、劉伯温、常遇春
明建国時、都に定めた。南京を応天府と名付けたのも朱元璋政権。
(7)馬蓬瀛
1392年から応天府に居住。朱元璋や朱棣がその才を評価し、女官として朝廷に招いた。
(8)朱棣
皇子時代に居住。また、即位後に瑠璃宝塔のある大報恩寺の建立を命じた。
(9)鄭和
永楽帝(朱棣)死後、南京守備太監に任じられ、応天府の守備や宮城の修繕に当たった。
(10)姚広孝
出身は蘇州。詩文をよくし、文芸にすぐれる蘇州の文人集団「北郭十友」の一人に数えられた。洪武帝の馬皇后が亡くなった際、冥福を弔う僧の一員として応天府に入る。その際に朱棣と知り合った。
(11)成梁(蒯祥)
成梁のモデル・蒯祥は北京紫禁城を設計した建築家。出身は蘇州だが、ゲーム内での首都は応天府にあり、建築ガチャの紫禁城風建築も応天府に置く人が多いと思うためリストアップ。知府邸宅に特化した天賦との相性もよい。
(12)湯顕祖
1584年から7年間、地方官として南京に赴任。その間に執筆活動を進めた。また、『牡丹亭還魂記』の杜麗娘は恋人柳夢梅と共に杭州に逃避行する筋書きがある。
(13)利瑪竇
1599年から1601年まで南京に滞在し、徐光啓と初めて知り合ったのもこの地。蘇州滞在経験もある。ちなみに上海に滞在したことはない。
【鶏鳴山】
郭天問(郭守敬)
鶏鳴山の天文器具は元代に郭守敬が作ったもの。イスラーム暦を基に授時暦を制定。
《天文学・宇宙と関係のある人物》
知府邸宅で沈、馬、万、徐の4人組が登場するのもこのつながりです。
・沈括
・劉伯温
天文に通じ、太史令(天文台長)として、授時暦をアレンジした大統暦を編纂。
・馬蓬瀛
明初の著名な天文学者。
・徐光啓
崇禎帝の命で暦の改定に当たり、西洋天文学を取り入れた崇禎暦書を編纂。
・万戸
「世界初の宇宙飛行士」と呼ばれる伝説上の人物。月には「Wan-hoo」と呼ばれる彼にちなんだクレーターがある。
・弥月
彼の元ネタは唐代のエッセイ・逸話集「酉陽雑俎」に登場する月の修繕人で伝説上の人物。白い服や食料関連の天賦もその話に由来。
・霊嬋
おそらく月の女神・嫦娥をモデルにしたキャラクター。名前の由来は不明だが、中秋の名月を詠んだ蘇軾の名作「水調歌頭」の一節「千里共嬋娟」?嬋は月を表す「蟾」と同音でもある(夫を裏切って月に逃げた嫦娥がヒキガエルに化したという伝説から)
【蘇州府】
別名:呉、姑蘇、平江など
(1)范仲淹
北宋の官僚で蘇州出身。孔子廟や学校を建てるなど、蘇州の教育環境の充実に功績を上げた。彼にちなんだ地名も残り、現在の蘇州駅前には范仲淹の巨大な像も建っている。
彼等については確実な史料がなく実際の経歴は不明と言っていいが、通説によれば彼らは師弟関係にあり、共に蘇州を拠点とした朱元璋のライバル・張士誠に幕僚として仕えた。施耐庵は出身も蘇州と伝えられている。
『三国志演義』の赤壁の戦いは朱元璋ともう一人のライバル・陳友諒の「鄱陽湖の戦い」に着想を得たもの、また演義の孔明も劉伯温がモデルと言われる。
(3)沈周、文徴明、唐伯虎、仇英、徐禎卿、祝枝山、文俶、仇珠
「呉門四家」「呉中四才子」というが、呉とは蘇州のこと。蘇州は元々朱元璋と対立した張士誠の拠点で、即位後洪武帝は蘇州を弾圧。そのため反骨精神が息づく土壌となった。
明中期以降は再び繁栄を取り戻し、経済・文化の中心的都市となる。上述の経緯から仕官はせず文芸に専念する文人が多く、彼らの中から沈周を祖とする文人画家グループ「呉派」が生まれていった。
その中には絵を売って生計を立てる職業画家を兼ねる者もおり(唐伯虎、仇英など)、彼らの絵は絹等と並んで蘇州の特産品の一つであった。
(4)袁可立
官僚生活の初期、蘇州で司法官を務めた。厳正な裁きを行って現地でも人気が高く、白居易や文天祥、海瑞らと並んで蘇州の名宦祠(有徳の官僚を記念する施設)に祀られた。
(5)馮夢龍
蘇州で生まれ育ち、この地で出版活動も行った。
(6)薛素素
生まれは蘇州。応天府滞在経験もあり、亡くなったのは杭州。杭州では弓術のパフォーマンスも行った。ゲームでは馮夢龍のファンという設定なので蘇州をメインにしておく。
(7)金聖歎
蘇州出身。『水滸伝』や『西廂記』など通俗文学に光を当てた文学評論家。蘇州は施耐庵、馮夢龍の出身地でもあり通俗文学と縁が深い。明朝との確執を抱え、既成の権威に挑戦的な気風ゆえかもしれない。逆にそれ故に蘇州の文化人は朝廷から警戒され、金も清代に反政府運動の首謀者と見做されて処刑された。
【杭州府】
別名:銭塘、臨安、武林など
(1)白居易
五十代の頃、杭州刺史として赴任。西湖に「白堤」を築いたことで知られるが、孤山と断橋を結ぶ、現在「白堤」と呼ばれている堤防は白居易が作ったものではないらしい。本来の白堤は現存しない。
ちなみに蘇州にも赴任していたことがあり、探検に登場した閶門と虎丘を結ぶ山塘河、山塘街(七里山塘)は彼の創建。
(2)沈括
出身が杭州。官僚生活の初期には揚州にも赴任した。
(3)蘇軾
地方官として赴任。西湖を縦断する堤防「蘇堤」を築く。1元札の図柄としても有名な、西湖に浮かぶ名勝・三潭印月の灯篭も彼の作。
(4)白素貞、許宣、小青
物語の舞台が杭州。断橋は許・白の出会いの地、雷峰塔は素貞が僧・法海(小青の図鑑参照)に封印された場所。
(5)梁山伯、祝英台、馬文才
物語の舞台が杭州。西湖の南には彼らが学んだとされる万松書院がある(水都にも「万松坊」がある)。
(6)李師師、包拯、狄青、展昭、白玉堂、宋慈、范仲淹
宋代キャラ。直接的な縁はないが、杭州が南宋の都であることから開封に見立てて住まわせるのもアリかもしれない(宋慈は南宋の人)。
補足1:李師師はゲーム設定では応天府で花屋を営んでいる。
補足2:『三侠五義』における展昭の妻・丁月華は松江府出身で結婚したのも同地。
【松江府】
別名:滬、申(春申君に由来)など
(1)黄道婆
南宋代の松江府出身。幼い頃婚約者の家に引き取られるが、虐待を受けたため海南島に移住し、紡績技術の改良に努めた。のち故郷に帰ってその技を伝えたという。
烏泥涇で彼女が紡績業を営んだのも史実であり、明代に松江一帯が綿業の一大中心地となる基礎を築いた。
(2)沈度
松江府華亭県出身。なお彼は永楽年間の人で、良く知られたキリンの絵(瑞応麒麟図)は永楽帝が宮廷画家に描かせ、彼に題詩を書かせたもの。永楽チームと合わせて居住させるのもありか。
(3)陸深
松江府上海県出身。浦東の高層ビル群がある「陸家嘴」の名前の由来となった人物。ちなみに董其昌は蘇州への対抗意識から同郷の陸深の書を(当時評価されていた)文徴明より高く評価していたそうだ。
(4)徐光啓
松江府上海県出身。上海市内には彼の名を冠する「徐滙区」や「光啓路」等の地名も残る。江南文化と西洋文化を折衷した上海独自の「海派文化」の祖とも言われている。
(5)董其昌
松江府華亭県出身。1616年の董其昌邸焼き討ち事件(こちら参照)後は蘇州に避難。そのほか、明末に南京礼部尚書として南京朝廷に仕えた(明では南京北京の二か所に朝廷があった)。
松江の文人たちは文化先進地の蘇州に対抗意識を燃やしていたが、明末彼の功績によって松江は蘇州に変わる文芸の中心地となり、次代の画家たちも董に大きな影響を受けた。
【徽州府】
別名:新安、歙州など
彼らの出身地は現在の安徽省北部。とはいえ徽州は安徽省の最南部にあるため、厳密にいうと「徽州」出身ではない。とはいえ同じく北部出身の藍玉が徽州の代表格として実装されているので、以下安徽北部出身者も徽州ゆかりの人物として扱う。安徽省北部は中原の一角なので、他にも曹操や管仲など、古代の有名人を多く輩出しています。
(2)嵆康
安徽省北部の出身。なお彼ゆかりの琴曲「広陵散」の広陵は揚州の別名。安徽北部や揚州一帯に広まっていたため、この名があるという(安徽北部と揚州は結構近いのだ)。
(3)李白
あちこち流浪した人物だが、晩年は当塗(安徽省中部)の県令を勤めていた一族の李陽冰のもとに身を寄せ、『旧唐書』によれば宣城(安徽省南部)で病没したという。墓所も安徽にある。
このほか李白は金陵=南京や揚州も訪れている。
(4)包拯
(5)蘇軾
徽州と言えば新安四宝(文房四宝)だが、蘇軾は大の硯愛好家。湖北省の黄州に流された時、同地に近い徽州を訪れ歙硯を求めた逸話が残っている。高い財務・探検値が商売と、肉節約の天賦が筍煮生産と相性がいい。
(6)朱元璋、藍玉、常遇春
藍玉に限らず、明は朱元璋も含めた安徽北部の出身者が中心となって建てられた。
ちなみに劉伯温は浙江省出身の「外様」のため、朱元璋個人には重用されたが安徽出身の古参集団とは折り合いが悪く、彼の死にもそれが関係していると言われる。
(7)程大位
徽州出身の数学者。黄山の窓口として知られる屯渓の出身で、屯渓には程大位の故居もある。
商家の生まれのため数学に関心を持ち、各地を巡って数学書を収集。伝統数学の集大成とも言える『算法統宗』を著し、日本を含めた同時代の東アジアの数学に影響を与えた。
【揚州府】
別名:江都、広陵など
(1)杜牧
揚州に数年滞在し、幕僚として勤務。その間多くの詩を残したほか、花柳界に遊び、風流才子として知られるようになった。
揚州のキャッチコピーになっている「春風万里 揚州の路」とは彼が揚州の妓女に宛てて詠んだ詩「贈別」の一節。他にも揚州を詠んだ詩をいくつか残している。彼にとって揚州は青春時代の象徴として、酸いにつけても甘いにつけても思い入れがある土地だったようだ。
揚州は唐代における江南一の大都会、かつ交通の要衝であったことからも多くの詩人が訪れている。
李白と揚州といえば孟浩然に手向けた「煙花三月揚州に下る」の詩で有名だが彼自身も揚州を訪れ、鑑真が住職をつとめた大明寺の棲霊塔に登っている。蘇軾も大明寺に関わる詩を残した。
(3)満庭芳(秦観?)
揚州出身の詩人。蘇軾門下で蘇小妹の伝説上の夫。
中国語で調べたところ彼の原型は秦観と言われており確かに共通点もあるが、蘇軾兄妹との関係が全く描写されないため、そう扱ってよいのかは微妙な気もする。(知らないだけ?)
(4)常遇春、藍玉
常遇春は明の建国後揚州に土地を授かり、邸宅(常府)を構えた。揚州のLv.5井戸は四つ目井戸(四眼井)と呼ばれる特殊な形状の井戸だが、揚州には実際に四眼井が残る。常府の厨房の井戸であったそうだ。
ちなみに常遇春の妻もここに住んでいたが、彼女は藍玉の姉。夫婦仲は良好で、常遇春は遠征先でも妻のために美容法を探し求め「武装より化粧がお好き」とからかわれたとか。常府の四眼井は別名「臙脂井」と呼ばれるそうだが、藍氏をはじめ邸宅の女性たちの化粧に使われたのかもしれない。