壺中天

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【水都百景録】我欲と奇想の異才 董其昌伝【中国史】

水都百景録のメインキャラの一人、董其昌の略伝です。うちは水都ブログなので、絵画上の思想・技法について詳しく描くより、性格がイメージできるような内容や人間関係、ゲームとの関係をメインに書きました。

 

 

【概要・経歴】

1555~1636年

明末の書家・画家であり評論家。詩・書・絵画に優れる「三絶」であるほか芸術評論も著し、明末の芸術界に非常に大きな影響を与えた人物。

科挙を突破し高官に登りつめた(最高官職は南京礼部尚書)点は前世代の文徴明らと対照的であり、彼の書画の評判は、高位高官の名望と連動していた部分もあると言われる。

思想的には禅や陽明学の影響を受け、彼の書画や芸術論にもそれらが反映されている。特に人間のありのままを肯定する陽明学左派の思想は彼に大きな影響を与え、形式に囚われない斬新な表現を生んだ反面、私生活では放埓に振る舞い悪評も高かった。彼に対しては毀誉褒貶いずれの評価もあるが、ともかく強烈な個性を持ち、それゆえに影響力の強い人物であった。

 

万暦十七年 翰林院庶吉士

湖広提学副使

福建提学副使

河南参政

(辞職)

泰昌元年 太常少卿等

天啓五年 南京礼部尚書

(辞職)

崇禎七年 太子詹事

 

【1.生い立ち】

1555年、松江府華亭県の小地主の家に生まれる。董其昌の父親は地元で家庭教師をしており、我が子の教育にも熱心だった彼は、歴史書・『資治通鑑』の一節を毎日息子に読み聞かせていたそうだ。

やがて董其昌は土地の名士であった莫如忠(※)や、同郷の画家・顧正誼に師事することになった。『明史』には「天才俊逸、少(わか)くして重名を負う」とあり、幼い頃から才覚を表していたようだ。

(※)莫如忠の子・莫是龍は書画家で、董は是龍を兄のように慕い、彼から画を学んだほか、後述する「南北二宗論」も彼の画論に影響を受けたものだという。

 

【2.科挙と官界遍歴】

1572年、17歳の時に第一次試験の童試を受け首席の成績を収めたが、当時の松江知府は彼の字が下手だったのを嫌って順位を一段落としそれ以降董は悔しさのあまり書の勉強に励んだという。(※1)

1588年には同郷の徐光啓らと共に太平府(現在の安徽省)で二次試験の郷試を受験し突破。翌1589(万暦十七)年には中央試験の会試に通過し、晴れて進士となった。

ちなみに董の生涯の友人である袁可立とは会試の勉強中に知り合ったと言われている。会試に苦戦した董はある時夢で「袁可立という者と共に受験すれば合格できるだろう」とのお告げを受けて彼を探し当て、共に試験を突破したという伝承がある。

とはいえ董の進士及第は郷試合格から間もないことを考えても、これはあくまで伝承、実際は二人とも松江出身の官僚・陸樹声の門下であり、その縁で知り合ったようだ。(※2)

 

進士及第後、董は翰林院庶吉士に選ばれ、地方の教育行政をつかさどる提学副使等の官を歴任。一時は太子朱常洛(のちの泰昌帝)の教師も務めた。

1599年には体調不良と称して辞職、郷里の松江に帰った。ただし当時は政争の激しい時期であり、病はあくまで口実、彼が朝廷を離れた真の理由は身を守るためだと考えられている。その後20年余り、彼は書画の収集や制作に没頭することになる。

かつての教え子であった朱常洛が泰昌帝として帝位につくと、彼は朝廷に呼び戻される。続く天啓朝では南京礼部尚書となるが宦官・魏忠賢の専横を避け1626(天啓六)年に辞職。崇禎帝が即位し魏忠賢を追放すると朝廷に戻り、太子詹事(太子の教育官)等の高官をつとめ1634年に辞職。1636年、82歳で死去した。

(※1)なお、13歳で童試に合格という記述も見かけたのだが、そうなると字が下手で落とされた17歳の試験、徐光啓と受けた試験、最終試験と併せて4回になって数が合わない。17歳の試験は逸話なのだろうか?

※2)董其昌は陸の息子陸彦章の家庭教師として招かれ、一方袁可立は陸家の私塾で学んでいた。董と袁、そして陸彦章の三人は同年(1589年)に進士及第している。

 

【3.芸術家としての董其昌~作風・思想】


董其昌は画、書、詩など各方面に通じる多芸多才な人物で、「芸林百世の師」と称された。彼は自ら書画を収集するだけでなく他の収集家とも交流してその所蔵品にも触れ、「古人をもって師と為す」をモットーに貪欲に先人の作品から学び、そのうえで独自の境地を切り開いていった。以下、彼の絵画と書の特徴を見ていこう。

 

【画家として】

(出典は左が参考文献⑦、右が参考文献②。)

 

董其昌の絵画は、従来の絵画とは異なる斬新・奇抜なものであった。彼独自の画風の特徴として、例えば山の形などに、現実にはあり得ないようなデフォルメを利かせた描写が見られる。まずはその成り立ちについて、絵画史の流れと思想の両面から見ていきたい。

 

(1)絵画史的視点

中国絵画を構成する主な要素に「気(流動)」と「形(固定された形象)」の二種類がある(※1)。例えば宋代の山水画は空気の表現を重んじ、そのため構図には空白を作るのが一般的であった。

一方時代が下ると、元末の王蒙、倪瓚らいわゆる「元末四大家」や、その流れをついで明中期に現れた文徴明ら呉派によって、気の表現にこだわらず形の描写を重んじる傾向が生まれていく。それを集大成したのが董其昌であり、『中国絵画入門』の著者宇佐美氏によれば董其昌は「形」を発見した画家、と位置付けることが出来るという。

 

(2)思想的視点
董其昌が影響を受けた思想としては、一つは李贄李卓吾)に代表される陽明学左派、もう一つは禅宗がある。

陽明学左派は私的な欲望を肯定する急進的な一派で、なかでも伝統的価値観を鋭く批判し「異端の思想家」と呼ばれた李贄「童心論」を唱え、子供の心のように、偽り・飾りのない純真な心が大切であると説いた。董はこの李贄を非常に尊敬しており、彼に交友を認められたことを著書の中で誇らしげに語ってもいる。
董は書・画に関わらず形式にとらわれない斬新な表現を生み出したが、こうした彼の作風には心のままを肯定する陽明学の思想が影響を与えていると考えられている。

 

これらを踏まえて、董は物体を世界との繋がりや実際の姿から切り離し、リアルの制約を受けない自由な「形」を描いていった。実際の自然を描くのではなく自然を大胆に変形・再構成する彼の画風は明末の画家たちに大きな影響を与え、彼らの中から「奇想派」「変形主義」と呼ばれるグループが登場することになる。

 

【書家として】

(画像出典は参考文献④より、一部サイズ調整)

 

董其昌は書家としてもすぐれた才能を持っていた。先述した通り科挙での失敗を機に書の勉強を始め、王羲之顔真卿など古人の書を積極的に学んだ。
董は「天真爛漫は我が師なり」と称し、天真爛漫、すなわち心のままに従い、自己の精神を率直に表現することこそが書法の真髄であるとして技巧・修飾を否定。これは当時大きな影響力を持っていた元の書家・趙孟頫(ちょうもうふ)を意識してのことで、彼は著書『画禅室随筆』(歴代の書画を論じた評論集)の中で趙の書風を作為的・形式主義と批判している。(※2)

上に挙げたのは東京国立博物館が所蔵する「行草書羅漢賛等書巻」の一部で、冒頭は大人しい行書体で描かれているのが次第に崩れ、最後には狂草体と呼ばれる奔放な筆致に変わっていくところに特徴がある(画像はこの部分)。こうした自由な書きぶりには、「天真爛漫」を重んじる彼の精神がよく反映されている。

 

このように、彼の書画は画期的なものであり、批判者も含めて同時代人に大きな影響を与えていった。彼の作品は続く清代でも評価され、文芸を好んだ清の康熙帝乾隆帝は彼の書画を非常に愛した。

 

(※1)気とは中国の伝統思想において、万物の構成要素とされているもの。分子のように粒子が集まっているのではなく流体的なものであり、物の形はその流れのパターンによって決まるという。中国画では古来、流動し移ろう「気」の表現が試みられた。

(※2)ちなみに明末、趙孟頫のスタイルを引き継ぎ影響力を持っていたのが文徴明の書。『画禅室随筆』の議論は、趙孟頫に仮託して文徴明をあてこすったものとも考えられている。

 

【4.董の書画論】

明代には様々な絵画論が生まれ、特に職業画家と文人画家の違いや優劣を論じるものが多かった。生業として、さらに言えば利益のために絵を制作する職業画家に対して、文人画家とは古典など文人の素養を持った画家であり、彼らにとって絵は自己の精神を表現する行為であった。

明代には特に文人画家の優位を説いた絵画論が目立ち、例えば何良俊が説いた「行家・利家論」では、職業画家を「行家」、文人画家を「利家」とし、金銭に拘らず自由な創作が出来るとして利家を優位に置いた。

董其昌もまた、自説「南北二宗論」の中で同様の主張をしている。彼は唐以来の山水画の系譜を整理し、禅宗の宗派名を借りて「北宗画」「南宗画」の二つの流れに分類。さらにそれぞれに宮廷画の流れをくむ職業画家の画、文人画を当てはめて後者の優位を説いた。その主張は以下の図にした通り。

禅宗には「北宗」と「南宗(日本でもおなじみの臨済宗曹洞宗など)」の二つの潮流があり、明代には南宗の方が優勢であった。そのため董は禅宗における南北の優劣を絵のジャンル・画家の地域性と結びつけ、自らが属する文人画を優位に置こうとしたのである。

とはいえ、このような議論の正当性は疑わしい。華北にも文人画家はいるし逆も同様、また明後期、特に15世紀の正徳年間頃から、文人画家の中にも絵を売って生活するものが増えていったためだ(※)実際董其昌も絵を売っており、むしろこういう状況があったからこそ、ことさらに文人画家と職業画家を区別し、さらに文人画家の優位を強調する必要があったものと考えられている。

とはいえ、この南北二宗論は後世の絵の見方に大きな影響を与えていくこととなる。

(※)理由としては、絵以外に収入がない画家が絵を売って糊口をしのいでいたほか、蘇州が商業都市として発展する中で、画家たちが市民の消費スタイルに合わせざるを得なかったこともある。呉派の中では唐寅(唐伯虎)や仇英が職業画家として活躍していたほか、文徴明も絵を売って生活していたようだ。

 

【5.人物像と評価】

董其昌の書画は非常に人気があり、些細なものまで先を争って求められた。贈答用の書画や碑・墓誌に至るまで彼が書いたものでなければ一流でないと言われたほどで、彼の名は朝鮮や琉球使節にまで知られていたという。

董の作品は高値で取引されたが、実のところ彼はゴーストライターも抱えており、模造品を制作することによって儲けていた節もあるようだ。例えば彼の愛妾の一人は代筆をするほか印章も預かっていたとされ、また「四方から(作品を)買い求めに来た客には臨本(模造品)で応じたがほとんど区別がつかなかった」という記録もある(『淞南楽府』)。董は蓄財に熱心だったようであり、作品を売るほか高利貸しや脱税で富を蓄え、書画の収集にあてていたという。

芸術家としての名声とは裏腹に強欲・横暴な人柄は恨みも買いやすく、彼は生涯で二度襲撃を受けている

一つは1604(万暦三十二)年、湖広提学副使(地方行政官)時代のことで、不真面目な勤務態度や学生たちを愚弄したことから現地有力者の怒りを買い、役所を襲撃されて任を解かれることとなった。
二度目は1616(万暦四十四)年、彼が官職を辞し郷里にいた頃の話で、董家の圧政に抗議する民衆の襲撃、いわゆる「民抄董宦」と呼ばれる事件である。この時董其昌邸は焼け、収集した書画もすべて失われてしまった。この事件は水都百景録のゲームストーリーにも大きく関わっているが、これについては前記事で詳しく書いているのでご覧いただきたい。

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良くも悪くも非常に強欲、言い換えればとことん自己に忠実な人物であった。このような放埓なふるまいは陽明学李贄の影響が関係しているのか、生まれつきの性格を正当化するためにこれらの思想を援用していたのかは分からない。(両方かも)

 

【6.人間関係(水都関連)】

・袁可立

代表的な友人であり、同年の進士(詳しくは前述)。片やエゴの強い個性派、片や硬骨な正義漢と性格は正反対だが交友関係は生涯続き、董は彼の詩「観海市」を書にしたためたり、その死後伝記『節寰袁公行状』を書く、自分が7歳年上であるにもかかわらず自らを「弟」と呼んでへりくだる等、様々な形で友情と敬意を示している。

なお袁可立の子袁枢は書画家で董に師事しており、董の死後、その作品は一部袁枢が所蔵することになった。

徐光啓

友人関係というほどではないが、同じ松江府出身者としていくつか接点がある。1588年には共に郷試を受験、また徐光啓の死後建立された牌坊の扁額は董が揮毫した。また、徐光啓の恩師である焦竑は董の友人かつ同年の進士であり、董は焦竑と共に徐光啓と袁可立の交友を取り持ったそうだ。

・湯顕祖

董其昌は翰林学士だった際、前述の焦竑や湯顕祖、李贄らを含む文人サークルに属していた。個人としてどれほど交流があったかは不詳だが、董其昌は湯の息子を国士監生に推挙している。両者には李贄の影響を強く受けているという共通点もある。

・木増

木増は雲南省麗江の豪族。董其昌とはよく詩文のやりとりをしていたそうだ。

・徐霞客

母の死後、墓誌銘を董に依頼した。明末に彼の書が権威を持っていたことがうかがえる。

 

【参考文献】

陳舜臣『中国画人伝』 新潮社 1984

新藤武弘山水画とは何か―中国の自然と芸術』福武書店 1989

③可成屋編『すぐわかる 中国の書 古代~清時代の名筆』東京美術 2006

④鈴木洋保ら編『中国書人名鑑』二玄社 2007

⑤鈴木敬『中国絵画史 下』新装版 吉川弘文館 2011年 

⑥伏見冲敬著 筒井茂徳補『新訂 書の歴史 中国編』二玄社 2012

⑦宇佐美文理『中国絵画入門』岩波新書 2014

【参考url】

東京国立博物館 - 1089ブログ

 

過去の人物伝 董氏とも関係ある二人なのでこちらもどうぞ~

xiaoyaoyou.hatenadiary.jp

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【挿絵全体図】