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【水都百景録】州府ガイド(3)揚州府

【シリーズ】
【水都百景録】州府ガイド(1)徽州府 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(2)蘇州府 - 壺中天

概要

揚州は作中に登場する町の中で唯一長江の北岸にあり、川を基準に考えると「江南」ではなく「淮南」の町である。

地図を見ると分かるように、海に近く、川や湖に囲まれた揚州は古くから水運や製塩によって富を蓄え、中国有数の経済都市として栄えた。またその富を背景に娯楽産業が発達し、風流才子や美女の行き交う華やかな歓楽地でもあった。

ゲーム上の揚州のマップは明代時点での城壁を再現している。中が仕切られているのは手前側の城壁が明代に増築されたためで、文昌閣のある奥が隋唐以来の旧城壁である。方角はマップ右上が北になる。

揚州のあゆみ

争覇の丘【春秋~南北朝

蘇州と同じく、揚州の起源もまた春秋時代の呉国にさかのぼる。
紀元前486年、呉王・夫差が戦に備えるため長江と淮河を結ぶ運河の「邗(かん)溝」を築き、同時に「邗城」を築いた()。場所は現在の揚州市街地の西北、「蜀岡」と呼ばれる小高い丘の上である。

湖沼や河川が多い江蘇省北部は古来水害が多発し「洪水回廊」の異名をとるほどであった。そのため町は安全な高地に築かれ、揚州はこの蜀岡を中心に発展していく。ちなみに揚州の別名を広陵というが、これも「広い丘」という意味である。

揚州一帯はしばしば南北の境界となり、さらに南部の政治的な中心・南京にも近かった。そのため揚州は王朝分立の時代には軍事的要衝となり、特に南北朝時代には前線基地としてたびたび戦禍を被った。

揚州には唐代にも都督府や節度使が置かれたが、統一王朝である隋唐代の揚州は軍事的要衝というよりもむしろ、水運を通じた商業都市として繁栄するようになる。その繁栄の基を築いたのは、もちろん大運河である。

(※)正確には春秋時代の諸侯国の一つに邗国があり、呉は邗を滅ぼした後、その跡地に街を建てた。邗城の支配者は呉⇒越⇒楚と代わり、楚王が邗城を広陵と名付けた。

放蕩天子の南柯夢【隋】

隋代になると、揚州は「江都」と名付けられ都城が整備された。さらに華北と江南を結ぶ大運河が築かれ、揚州はその長江との合流地点になった。

大運河の開通後、皇帝・煬帝は揚州に離宮を築き、豪華絢爛な龍船を浮かべて三度巡幸をおこなった()。すっかり揚州を気に入った彼は、遷都も考えていたようだ。

南宋・李嵩「天中水戯図」

しかし度重なる土木工事や遠征による負担がたたり、華北で反乱が多発すると煬帝は揚州に避難。自暴自棄になって歓楽にふけり、ついには殺害されるに至った。

煬帝は今でも彼の愛した揚州近く、小さな陵墓の下に眠っている。次の唐代、揚州は彼の遺産である大運河の恵みで空前の繁栄を迎えるのだが、泉下の煬帝は自慢顔だっただろうか、それとも悔しがっただろうか。

※)揚州の市花はゲームにも登場する瓊花だが、こんな逸話がある。煬帝はある日夢で見知らぬ花を見た。花の絵を描かせて情報を募ったところ、揚州の瓊花であると分かった。煬帝は瓊花見たさに揚州まで大運河を開いたが、彼が到着した時、すでに花は枯れ果てていた。人々は瓊花を「心ある花」と讃えたそうだ。ちなみに瓊花は紫陽花に似た中国特産の植物で、日本では揚州ゆかりの唐招提寺で見ることができる。

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どうせ死ぬなら揚州で【唐】

揚州が史上最も輝きを放ったのは唐代のことである。
より正確に言えば、8世紀後半、安史の乱後に急速な発展がみられた。詩人で言えば白居易や杜牧らの世代である。

この時期の揚州は「揚一益二()」と謳われ、近現代の上海や明清代の蘇州に相当する中国最大の経済都市として大いに繁栄した。

こうした繁栄をもたらした要因は、
①大運河を通じた水運の発達、②塩の専売制、そして③海上貿易の隆盛である。この3点について詳しく見ていきたい。

※)長安・洛陽を別格として、一番の町は揚州、その次が益州成都)…ということ。
大運河と漕運

もともと、陸路に比べて水上輸送は格段に効率が良い。重い荷を大量に運べるし、費用も安く済む。そこに大運河という大動脈が生まれて沿線の都市の重要性が増すのは自然なことで、蘇州や杭州など江南の都市の多くは大運河と共に成長した町である。

特に揚州は長江と大運河が結ばれる水路の要衝であり、唐代には物資の集積地として全国から船が集まった。しかし大運河を行き来したのは商人だけではない。この道は、華北へと税糧を運ぶ漕運船が往来する道でもあった

漕運とは、政府が徴税・買い付けた穀物を運搬する制度のことを指す。ゲームでは交易シミュレーションのようなシステムだが、物語で描かれているように、本来は税糧の運搬である。

唐代まで、長安や洛陽の食糧は華北東部の穀物でまかなわれていたが、安史の乱後、戦乱による華北の荒廃と藩鎮(地方軍閥)の割拠によって従来のような北方からの穀物供給が難しくなった。

そこで唐朝は江南に目を付けた。課税によって江南の豊富な穀物を徴収し、都に運ぶことにしたのである()。しかし問題は、従来に比べて輸送距離が伸びて費用もかかることだった。そこで唐朝は漕運と塩の専売制(後述)を結びつけ、塩の収入によって漕運の費用をまかなった

こうして、塩の集積地かつ大運河への入り口であった揚州には塩鉄転運使が置かれ、漕運と塩政を司った。塩鉄転運使は戸部や度支(たくし)とともに「三司」と呼ばれ、王朝の財政を支える要職となったのである。

※)韓愈によれば、802年頃の税収は9割がた江南に依存していたそうだ。なかでも重税を掛けられていたのが人口の多かった蘇州で、「人(たみ)は徒(いたずら)に多くとも未だ富まず」と、刺史(知事)として蘇州に赴任した白居易は嘆いている。
天下の両淮塩

揚州の繁栄と切っても切り離せないものがである。
塩は生活必需品のうえ、生産地が限られ管理しやすいことからたびたび政府の専売品となった。

安史の乱後、財政難に陥った唐朝は758年に塩の専売制を導入。製塩地を管理下に置いて指定された商人にのみ塩の販売を認め、それと引き換えに塩税を徴収するようになった。結果塩の値段が2~30倍に吊り上げられ、その収入は朝廷の財源の半分を占めるようになった。

塩の産地は山西、四川など各地にあったが、中でも最大の産出量を誇ったのが淮河河口の「両淮地区」であった()。海水を利用して作られた淮塩は産出が多いだけでなく上質なことでも知られ、朝廷の塩の収入のうち4割は淮塩によるものだったという。

そしてこの両淮塩の集積地、取引の場となったのが揚州であった。

揚州にやってきた塩商人は政府が卸す塩を買って塩税を納め、指定の地域で塩を販売する。それを終えると、彼らは現地の商品を仕入れて揚州に帰ってくる。揚州は塩の販売を通じた物流の一大拠点であった。

※)両淮の製塩の中心地となった場所が、その名も「塩城(鹽城)」。冒頭の地図にも揚州北東に載っているので見てみて欲しい。
国際都市・揚州

海とのつながりは、塩だけでなくもう一つの利益をもたらした。海上貿易である。

唐と言えば内陸のシルクロードの印象が強いが、商業を重んじたイスラーム勢力の登場により、ユーラシア東部で海上交易が活発になった時代でもあった。海を通じてムスリム商人が広州や泉州などの中国南部の港を訪れ、これらの港町には貿易を管理する市舶司が設置された

福建・泉州清浄寺(モスク)。揚州にもモスクがある。

揚州は直接海に面してはいないが、長江を遡る外国船がよく訪れた。そのため揚州にも市舶司が置かれ、大食(アラブ)・波斯(ペルシア)・新羅などの外国商人が何千人と来航し(※1)、長安にも負けず劣らず国際色豊かな町だったのである(※2)。

※1)しかし760年頃、武将の田神功によって揚州のムスリム商人が多数殺害され、彼等との交易拠点は以降南方の広州や泉州(福建)に移った。
※2)揚州は「カンツー(江都の音訳)」の名で海外まで知られていた。ちなみに長江は西洋語では「Yangtze(揚子江)」と呼ばれてきたが、「揚子江」とは揚州あたりを流れる長江の地元での呼び名である。

『唐会要』に「広陵は南北の大衝に当たり、百貨集まる所」とあるように、唐代には海外の珍品、国内の特産品、塩田の塩、そして都に運ぶ穀物などあらゆる物資や商品が揚州に集まり、大運河や河川を通じて運ばれた。

隋の遺産・大運河、安史の乱後の塩政と漕運改革によって、揚州は王朝の生命線を握るほどの大経済都市に発展したのである。

揚州十里の珠簾

ヒトとカネが集まる所には、娯楽の需要も生まれる。揚州にはこうした需要を満たすための場所も数多くあった。

唐代の揚州城は二つのエリアに分かれており、蜀岡の上は宮殿や官庁街が集まる「子城」、丘のすそ野に広がる市街地は住宅や商店、歓楽街が集まる「羅城」で、後者が今の揚州市の原型である。杜牧の詩に「霞に映ず 両重の城」とあるのはこの二重構造を指している。

そして羅城には大運河の一部である合瀆渠が南北に貫流し、「官河」と呼ばれた(※1)。官河は水運都市である揚州の流通を支えた動脈であり、官河沿いの約5㎞(=十里)は、杜牧が「春風十里 揚州の路」と詠んだ一大繁華街であった

このエリアには数えきれないほどの妓楼が軒を連ね、夜ともなれば一帯には紅い灯籠が煌々と点り、着飾った美女たちが欄干に姿を現し客を誘った。淮南節度使の幕僚として揚州に3年間赴任した杜牧も夜な夜なこの楽園に繰り出した。

「二十四橋 明月の夜」(杜牧「揚州の韓綽判官に寄す」)
「天下三分す 明月の夜 二分無頼(いとし)きは是れ揚州(※2)」(徐凝「揚州を憶う」)

等々、唐代の詩人たちはさまざまに揚州の夜を讃えている。歓楽と情愛に満ちた夜の揚州は、多くの文人を引きつけたようだ。

こうした揚州賛歌の一つとして、最後に唐の張祜の詩を紹介したい。

「淮南を縦遊す」(唐)張祜
十里の長街 市井連なり
月明らかにして 橋上 神仙を見る 
人生只だ合(まさ)に揚州に死すべし 
禅智寺 山光 墓田に好(よろ)し 

(意訳)
官河沿いの十里には盛り場が軒を連ね、
月夜の橋には 仙女と見まごう遊女たち
死ぬなら揚州が良いものだ、墓なら禅智寺も山光寺もある

煬帝が歓楽を尽くした退廃的な江都の幻影。「死ぬなら揚州がいい」と歌われた唐代の繁華。
隋唐代の揚州は、世人の愛情と憧憬を一心に集めた地上の楽園であった。

※)ちなみにこの官河がのちの「汶河」である。明代には学校など教育施設が多く建てられたことから文wen⇒汶wen河と呼ばれるようになった(詳しくは文昌閣の段で)。今の揚州でもメインストリートといえば汶河路である。今も昔も揚州は運河と共にあるのだ。
※2)天下に降り注ぐ月光のうち、3分の2がこの揚州に集まっている…という意味。

開花ふたたび【宋~清】

最盛期を過ぎたとはいえ、宋代以降も交通の要地・製塩地として揚州の重要性が薄れることはなかった。

特に明代には塩引(販売許可証)を通じた塩販売の民間委託が進み、塩の集積地である揚州には塩引を求めて商人が集まった。特に塩引入手の条件が銀納に切り替わった15世紀以降、塩産地に近い揚州に移り住む商人が増加し(※1)、その多くは徽商であった

行商中の徽商が現れるのは揚州だけだが、こういう事情があるからだ。

17世紀に清軍が進入すると、明末、江南各地では清の支配に対する頑強な抵抗が起こった。揚州でも漕運総督・史可法の指揮のもと激しい攻防戦が展開した。開城後、揚州城内では清軍による十日間の大虐殺が展開し、「揚州十日」として語り継がれている。

この戦乱によって揚州や塩業も壊滅的な打撃を受けたが、清朝も最大級の塩産地である揚州を荒れるに任せてはおけず、その復興を後押しするようになった。

その結果揚州にはふたたび塩商人が集まり、その庇護のもとに壮大な邸宅や庭園が築かれた。文芸活動も盛んで、例えば清初には「揚州八怪」と呼ばれる画家グループが活動したが、彼らの活躍もパトロンである塩商あってのことだったのである。

揚州は塩商人の富を背景に、再び華の時代を迎えた。18世紀には天下の税収の四分の一を揚州の塩商人が納めていたという。

※1)従来は塩引発行の条件が前線への兵糧納入だったため、辺境で農地を経営した商人が多かった。しかしその必要がなくなると揚州に移る商人が増えた。専売制のもとでは塩の生産地ごとに塩区が設けられ、塩区ごとに塩を販売できる「行塩地」も決まっていたが、最大の塩産地である揚州の両淮塩区は行塩地も一番広く、活動しやすかったのである。

大運河史話

杭州から北京を結ぶ南北の幹線・大運河。全長1,794kmの世界最大規模の運河にして、今でも現役の「生きた世界遺産」である(※1)。

揚州、そして江南に繁栄をもたらした大運河の歴史を紐解いてみよう。

(※)世界の主要な運河と比較すると、スエズ運河173km(19世紀)、パナマ運河81km(20世紀)、エリー運河585km(19世紀)。大運河は建造年代においても規模においても圧倒的である。現在も大運河で輸送される貨物は年間1億トンを超えるという。

運河の成り立ち

中国の水運は、昔から弱点を抱えていた。それは黄河、長江をはじめ東西に流れる川がほとんどで、南北の物資輸送が困難なことである。

陸路はコストも時間もかかり、十分な航海・造船技術がない時代には海路もハードルが高い。そのため春秋・戦国の頃から人工の運河が各地に築かれ、記事の冒頭で述べた夫差の邗溝もその一つである。

これらの運河を一つにつなげようという発想はあったが、あまりに途方もない話で企画倒れに終わるのが常だった。しかしそれを実現させた男が現れる。いうまでもなく、隋の煬帝である。

隋堤 垂楊三百里

589年、三国時代以来350年続いた分裂に終止符を打ち、中国は隋によって再統一された。隋は統一を推進するため、また戦乱による華北の疲弊と江南の発展を考慮し、運河による南北の連結を目指した。

2代皇帝の煬帝は邗溝など既存の運河を改修したうえで新しい運河を築き、こうして黄河、長江、淮河など五つの河川とその流域が運河によって結ばれることになった。

大運河は確かに、労役に駆り出された民衆にとっては悪夢であった。しかしマクロな視点で見ると、その恩恵は極めて大きなものであった。

北の河川とその流域が結ばれただけでなく、灌漑用水となって農地を潤したり、水の許容量が増えたことで洪水の防止につながったり、様々な面で流域の発展を促したのである。

京杭運河の誕生


しかし隋唐代の運河は次第に老朽化し、さらに12世紀以降は南宋・金による南北の分断によって機能を失っていた。

そのため元が中国を再統一すると、フビライ・ハンの命で運河の改修工事が行われることになった。その指揮を執ったのが科学者の郭守敬である。彼は天文だけでなく水利や数学にも造詣が深かった。

改修が必要だった理由は、運河の老朽化だけではない。隋唐代は都が長安であったため、大運河の路線も長安に集約するようになっていた(※1)。しかし元の都は大都(北京)であり、そのままだと迂回することになって効率が悪い。

郭守敬は隋唐代の運河を改修しつつ新航路を開削。さらに水量を調節する閘門を設置にして大型船の航行を可能にし、運搬効率を上昇させた。

運河の完成は1293年。これが今でいう「京杭運河(※2)」である。こうして、従来くの字型に折れ曲がっていた大運河の路線が直線型に変化。北京までの距離が約900km短縮された。

この新路線が、同じく北京に都をおいた明・清代そして現代にも継承されていく。もちろん、ゲームの大運河の航路も郭守敬が築いた京杭運河のものである。

※1)正確には、大運河が通じていたのは洛陽まで。洛陽から長安までは陸路で物資を運搬した。
※2)北京と杭州をつなぐことからこの名前が付いた。

運河か海か


しかし京杭運河には問題もあった。山東半島辺り(※1)で標高が高くなり、当時の技術では高所の運河に安定した水の供給が出来なかったのである。そのため、元は結局大運河を放棄し、蘇州下流の劉家港を通じた海運によって漕運を行った

効率ならば海路の方が良い。海運重視の方針は明朝にも受け継がれたが、結局それは挫折した。原因は倭寇である。そのため永楽帝は漕運を大運河に一本化。武官の漕運総兵と文官の漕運総督が代々業務を担当することになった(※2)。

ちなみに万暦年間(16世紀後半)、マテオ・リッチが北京に行く際に大運河を通っているが、運河を行く漕運船が一万にも上ること、混雑のあまり水門で何日も待たされる場合があること、運河では風で航行できないため牽夫が船を牽くことなど、当時の運河の様子を仔細に書き残している。

※1)ゲームでいうと徐州~臨清航路のあたり。
※2)正確には、漕運総督の設置は1451(景泰二)年。事務仕事が増えたため文官が新設されたのである。漕運総兵は「運軍」12万を統括し、漕運船を護衛、漕運総督は水門の管理や穀物の徴収に当たった。

揚州の女性たち

揚州美女の来歴

「贈りて別る」(唐)杜牧
娉娉嫋嫋たり 十三餘り  
豆蔻の梢頭 二月の初め  
春風十里 揚州の路
珠簾を捲き上ぐるも總て如かず

(意訳)
たおやかな13の乙女、君は2月に咲き初める薄紅の豆蔻の花のよう。
春風が揚州十里の色町に吹きわたり、珠の簾を巻き上げたとしても
君に及ぶ女性(ひと)などいやしない

ゲームの揚州のキャッチフレーズにもなっているこの詩は、揚州を去る杜牧が妓女に贈ったものである。彼のほかにも、多くの詩人が揚州女性の美しさを詩にしたためている。

揚州は、我が国の秋田のように美人が多いと評判の所である。歴史上にも、漢の成帝に寵愛された趙飛燕()や煬帝が愛した呉絳仙(後述)、『紅楼夢』の林黛玉のモデルと言われる悲劇の才媛・馮小青など揚州生まれの美女がたびたび登場する。

何故揚州に美女が多いのか?一説によると、煬帝の死後、後宮の女性たちが揚州に居つき、その遺伝子が受け継がれたためであるそうだ。ただし、より現実的な理由としては、豊かな揚州の生活・文化水準の高さが美容の発達や教育の充実を可能にし、才色に優れた女性たちを輩出したものと思われる。

さらに言えば、男女の別が厳しかった王朝時代は良家の妻女は基本的に表に出られず、才を持っていても世に知られる機会や手段がなかった。しかし夫や家族が有名人だったり、役者や妓女など元々人前に出る職業の女性であれば話は別だった。

こうした女性の分母が大きければ、有名人も多くなる。名だたる美女が多いというのもまた、「歓楽都市」揚州ならではの現象と言えるのだろう。

※)中国には「楊肥燕痩」という言葉がある。グラマラスな「楊貴妃型」とスレンダーな「趙飛燕型」の2タイプの美人を指し、『紅楼夢』の二大ヒロイン・薛宝釵と林黛玉もそれぞれに当てはまる。杭州探検の小蛮と十里もちょうど飛燕・楊貴妃タイプである。

揚州痩馬

とはいえ、こうした女性たちのバックグラウンドは必ずしも明るいものではなかった。揚州美女は「特産品」として作り上げられたものでもあったのだ。

揚州には「痩馬」と呼ばれた女性たちがいた。貧しい家から売られてきた少女たちのことである。戦乱、災害、貧困。事情は様々だったろう。そして揚州にはこうした娘たちを買い取って育て上げ、妓女や妾として売り出す「美女産業」が発達していたのである。

明・謝肇淛の『五雑組』には、これについて以下のように記されている(※1)。

維揚(揚州)は天地の真ん中にあって川沢が美しく、そのため女子には美しいものが多い(※2)。
性質もおだやかであり、物腰もしとやかである。(中略)しかし揚州の人はこれを奇貨とするのを習いとし、各地に売るのである。童女にはとりわけよい衣裳を着せ、書算琴棋のたぐいを教えて値段をつりあげようとする。これを「痩馬」という。

揚州美人は町の「特産品」であり、その仕入れ」「生産」「流通」を担う専門業者がそれぞれいた。少女たちは技芸や教養を徹底的に仕込まれ、富裕層や知識人のお相手にも遜色ない一流の「商品」に仕立て上げられていったのである。

華やかな化粧とファッション、洗練された歌舞音曲。揚州の妓女たちは男性に愛されただけでなく、流行の最先端を行く存在として女性たちの憧憬の的にもなった。しかし珠簾の裏側に、涙の落ちる日もあったことだろう。

※1)参考文献(6)より引用
※2)山が多いと男性が強くなり、水が多いと女性が美しくなるという考え方があった。『紅楼夢』の賈宝玉の台詞にも「女の子は水で、男は泥で出来ている」とあり、しばしば女性は水と結びつけられた(陰属性だから?)。

蘇州臙脂 揚州粉

これまで述べてきた事情から、揚州では早くから化粧技術や美容産業が発達した。例えば銅鏡は揚州の特産として唐代から知られていたし、先に挙げた呉絳仙など化粧上手の女性たちも多かった(※1)。

仇英「摹天藾閣宋人画冊」

水都百景録の揚州では特産品として香粉を生産できるが、これは香りつきのおしろいのことである。

中国におけるおしろいの歴史は古い。はっきりした起源は不明だが、戦国時代にはすでにおしろいと眉墨で化粧した女性がいたそうだ(※2)。

おしろいの原料は、最初は穀物、のちに鉛粉(胡粉)が主流になった。ゲームでは香粉の原料としてが用いられるが、おしろいに加工される穀物には色々な種類があったようである。

南北朝時代の農業技術書『斉民要術』に記されるおしろいの材料を見てみよう。([]内は原書注、()内は筆者注)(※3)

粱米(もち米)が最上、粟米がこれに次ぐ。[必ずどちらか一種類の純米を用いるべきで、混ぜ合わせてはいけない](中略)いずれか一種を純用し、他種(の米)を混用してはいけない。[(粟)米、糯米、小麦、黍米 米などを混ぜて作ったものは、好い品でない]

もち米も粟も粘性があるため肌持ちが良く、そのため最上とされたのだろう。『斉民要術』には香粉についての記述もあり、おしろいの箱に丁子(クローブ)を入れて香り付けをする方法について書かれている。

明末の崇禎年間(1628)、揚州では中国初の香粉店「戴春林」が開業※4)。明清を通じて、宮廷女性の御用品として愛された。

揚州の香粉の香り付けに使われたのは、ゲームで描かれている通り薔薇や木犀などの生花である。揚州には昔から花を育てる伝統があったそうだが、外から花を買い付けることもあり、戴春林と並ぶ香粉の老舗「謝馥春」のサイトには、「買い付け地の木犀の花の4分の1を消費した」という話も載っている。

明清代には「蘇州臙脂 揚州粉(紅なら蘇州、白粉なら揚州)」という言葉が民間に流布していた。揚州の香粉のブランドは天下に響き渡っていたのである。

※1)彼女は眉化粧に巧みで、煬帝がこれを気に入ったため宮女たちは皆彼女の真似をした。煬帝後宮の女性たちに「螺子黛」というペルシア産の高級な眉墨を支給したそうだ。李時珍の『本草綱目』にもペルシア産の「青黛」について記載があり、ペルシアの眉墨は明代にも輸入されていたようである。
※2)『戦国策』楚策より。紀元前3世紀、懐王の時代のこと。殷や周で使われていたと書いている文献もあるが、典拠ははっきりしない。
※3)参考文献(4)より引用
※4)ちなみに戴春林の看板の文字は董其昌が書いたそうだ。「董の筆でなければ一流ではない」と言われた時代のこと、それだけで大きな宣伝効果があったことだろう。

名勝案内

文昌閣


揚州のランドマークと言えば文昌閣である。

明代万暦十三(1585)年、両淮巡塩御史(※1)の蔡時鼎が建造し、その10年後、火災に遭って再建された。三層構造で高さは24メートル。

ゲーム中の姿のように、かつては汶河(かつての官河)を横切る文津橋の上に建っていたが、20世紀、開発によって橋と汶河が埋め立てられたため現在は陸上にある。

文昌閣はもともと揚州府学(※2)の一部であった。明の統治理念として儒学を重んじた洪武帝四書五経を学ばせるため、全国に学校を設立した。揚州府学もその一つである。

文昌閣は学問の神・文昌帝君を祀る施設である(※3)。旧時の府学・県学は孔子廟なども併設され、学問に関わる祭祀もおこなう複合施設だった。文昌閣でも二月三日の文昌帝君の誕生日や科挙のシーズンには府学の職員や学生たちがやってきて祭祀を執り行い、学業成就を祈った。

しかし火災で焼失してからは火の元を断つため祭祀は禁止され、寺院ではなくあくまで楼閣として、景色や詩吟を楽しむ場所になったのだそうだ。

府学の建築は時代とともに次々取り壊されてしまい、文昌閣が唯一の生き残りである。

※1)揚州が管轄する両淮塩区の監察官。
※2)公立学校のこと。行政区分ごとに設けられ、府には府学、県には県学がある。今の日本でいうと県立大学のようなもの。
※3)このほか、文昌閣の名には「文=学問を昌=盛んにする」という意味も込められていたそうだ。

鈔関


税関のこと。宋代以降、商業の活性化によって商業税の制度が整えられた。明代にもこれが継承され、物資の集まる所に税の徴収所を置いたほか、交通の要衝にも関を設けて税を徴収した。

なお鈔関の「鈔」とは紙幣のこと。明初の中国は貴金属不足に陥っていたため、洪武帝は貨幣の使用を禁止し「大明宝鈔」と呼ばれる紙幣を発行した。

しかしなにぶん貴金属不足のご時世、金銀との交換で価値が保証できない不安定な紙幣だったため、税を紙幣で納めさせて流通量を調整し、それによって価値の安定を図ったのである。

というわけで当初の鈔関は政府の金融政策の一環として作られたものだったが、15世紀末には価値の下落や銀の流入で大明宝鈔が放棄され、鈔関も徴税施設としての役割がメインになった。

鈔関は大運河と長江に沿う形で、全国に7箇所設けられた。江南では揚州、蘇州(滸墅関)、杭州(北新関)に設置されている。

揚州の名井

水都百景録の揚州では井戸が専用デザインのほか、州府のレベル上げにも多くの井戸が要求されるなど井戸の存在感が強い

実際、水資源に恵まれた揚州は井戸の多い街で、1949年の統計によると、揚州には1449の井戸があるそうだ。作られた年代や用途も様々で、現役で使われているという。

レベル5井戸は四つ目井戸(四眼井)と呼ばれる独特な形状で、一度に大勢が使えるよう、一つの井戸にくみ出し口を4つ設けたものである。

揚州の四眼井は実在するが、場所は「常府巷」。常遇春の屋敷跡である。四眼井は常府の厨房の井戸で、屋敷内には人が多く食事量も水の消費量も多いためこのような形になったと言われている。

なお、揚州市内に残る四眼井とゲーム中のデザインは異なり、六角形の形は靖江市にある四眼井をモチーフにしているものと思われる。

ちなみに、揚州には劉伯温が掘ったと伝えられる「青龍泉井」もある。伝説によると、揚州は龍の眠る地であり、劉伯温はこの龍が明を脅かすのを恐れて頭の場所に関所を、尾の部分に井戸を掘って龍を地中に封じ込めたという。

参考文献

(1)佐伯富『中國史研究』第一 東洋史研究会 1969
(2)マッテーオ・リッチ著、川名公平・矢沢利彦訳『中国キリスト教布教史1』岩波書店 1982
(3)植木久行『唐詩の風景』講談社 1999
(4)張競『美女とは何か 日中美人の文化史』 晶文社 2001
(5)旅名人編集室『蘇州・南京と江蘇省』旅名人ブックス34 日経BP企画 2001
(6)大木康『中国遊里空間 明清秦淮妓女の世界』青土社 2002
(7)松浦知久・植木久行編訳『杜牧詩選』岩波文庫 2004
(8)上田信『海と帝国 明清時代』中国の歴史09 講談社 2005 
(9)中島楽章『徽州商人と明清中国』山川出版社 2009
(10)岡本隆司編『中国経済史』 名古屋大学出版会 2013
(11)「CKRM中国紀行 Vol.6」アジア太平洋観光社 2017
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