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【水都百景録】州府ガイド(4)杭州府

【シリーズ】
【水都百景録】州府ガイド(1)徽州府 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(2)蘇州府 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(3)揚州府 - 壺中天

概要

「上に天堂あり、下に蘇杭あり」。古来、杭州は蘇州と共に地上の楽園と讃えられた。蘇州の美が水路と橋が織りなす水郷の美であるとしたら、杭州のそれは名勝・西湖が作り出す自然美と言えるだろう。

一方で杭州は中国有数の大都市でもあり、浙江省省都にも選ばれている。特に大運河が築かれた隋以降、大運河の南端・海にも近い地の利を生かし、商業や貿易で栄えてきた町でもあった。

ゲーム上のマップも西湖とその周辺の名勝がしっかり再現されている。以下、登場地名はこちらの地図を参照していただきたい。(緑の文字は「西湖十景」)

杭州の成り立ち

銭塘江のゆりかご【~六朝

銭塘江の河口、杭州湾に面した杭州の街。「杭」とは「航」に通じ、船着き場という意味がある。原初の杭州において、その船が行き来したのは西湖ではなく、ましてや大運河でもなくであった。

杭州の起源は秦代に設置された銭唐県(※1)である。しかしこの頃の「銭唐県」は、現在我々がイメージする「杭州」の姿とは大きく異なっていた。

杭州の象徴たる西湖は入り江、杭州市街地となる陸地もいまだ海中にあった。銭唐県の県庁は西湖西側の武林山付近、霊隠寺のあたりに置かれていたそうだ(※2)。

杭州と西湖を作り上げたのは、銭塘江が運ぶ土砂である。銭塘江は別名を浙江、また上流では新安江といい、徽州を育んだ川でもある。

西湖は後漢の頃には形成されていたようで、当時は武林水と呼ばれていた(※3)。この頃はまだ海から分離したばかりの塩水湖であった。河水や雨水が流れ込むことで次第に淡水化し、唐代頃には今のような淡水湖になったそうだ。

ちなみに、銭塘江といえば旧暦八月十八日ころに海水が逆流し、高潮が起こることで有名である。これを「秋涛」「銭江潮」などといい、李白白居易も見物している。

水都百景録には、これに関係する地名として「秋涛坊」「六和坊」が登場する。

六和塔は銭塘江のほとりに建てられた塔で、970年、呉越王が高潮を鎮めるために建造した。灯台として使われたのも事実だが、「修繕を計画中」というのは史実で倭寇に破壊されたことを指すのだろうか?それとも物語中の火事で焼けてしまったのだろうか?

※1)唐代に王朝名を憚って「銭塘」と表記するようになった。
※2)隋唐や南宋も含めて、杭州の政治的中心は大体山の近くに置かれる。海に近い杭州では真水の確保が重要だったためである。この話は是非覚えておいてほしい。
※3)武林山の名前に由来し、武林は杭州の別名でもある。この山はもともと虎林山といい、蘇州の虎丘と同じく白虎の伝説がある。そのため虎林山と言ったのを唐代に建国者李淵の祖父・李虎の名前を憚って武林と改めたので、当時の西湖の本当の名前は「虎林水」だったかもしれない。

最も憶うは 是れ杭州【隋・唐】

我々が現在イメージする「杭州」が成立するのは、あらゆる意味で隋代のことである。

(1)杭州城と「西湖」の誕生

隋の文帝は中国統一後、江南支配の拠点として杭州城を整備した。この地に「杭州」の名が初めて与えられたのも、文帝の589(開皇九)年のことである。

この頃には杭州の陸地化も進んでおり、隋の杭州城は西湖の東、現在の杭州市に当たる場所に築かれた。当時西湖は銭塘湖と呼ばれていたが、街と湖の位置関係が確定したことで、「西湖」と呼ばれるようになっていく()。

城壁は長安のような整然とした四角形ではなく、地形に合わせて南北に長いJ字型をしており(冒頭のゲームマップ参照)、州庁は南の鳳凰山に置かれた。鳳凰山はのちに南宋の宮城が置かれた場所でもあり、その後も杭州の政治的な中心であり続けた。

隋の杭州城は唐代にも受け継がれ、その北西の門が探検に登場する「銭塘門」である。

※)現存する文献で、初めて「西湖」の名が現れるのは実は白居易の詩である(「西湖晩帰 孤山を回望して諸客に贈る」など)。湖の知名度が上がると同時にその名も広まっていったと思われ、蘇軾が詩の中で「西湖」の語を用いているように、北宋の頃には西湖の名が浸透していたようだ。
(2)大運河の開通

杭州の本格的な発展は、大運河の開通以降である。煬帝の610(大業九)年、長江と銭塘江を結ぶ「江南河」が開通。杭州は大運河の南端として長安・洛陽などの首都圏や蘇州・揚州などの江南の主要都市と結ばれることになった。

さらに杭州湾に面した杭州海上貿易の拠点にもなった。揚州ガイドでも触れたように、唐代はイスラーム勢力の登場によってアラブ・ペルシアの商人が東西の海を行き来した。揚州同様、杭州もまた海のシルクロードと中国を結ぶ拠点だったのである。

こうした経済発展により、杭州人口は唐初から中唐にかけて三倍に増加、人口は2~30万に上ったと考えられている。

(3)杭州の六井

しかし、人口が増えると課題も増える。その1つが飲料水の確保である。杭州は海に土砂が堆積して生まれた土地である。そのため地下水は塩辛く、山の湧き水を利用できる山沿いの住民を除いて住民たちは水不足に苦しむことになった。

幸い、この頃には西湖は淡水湖になっていた。そこで杭州刺史(知事)の李泌は781(建中二)年、西湖から竹管で水を引き、飲料水を得るための「六井」を西湖東北に建設した。相国井、西井、方井、白亀池、小方井、金牛井の六つの井戸である。

杭州探検では白居易が井戸を整備した話が描かれているが、白居易は実際、杭州刺史時代にこの「六井」の再整備に尽力している

有名な「白堤」の建造もこうした治水事業の一環である。当時、西湖の水は飲料水だけでなく農地の灌漑用水としても使われ、住民の生命線であった。そのため、白居易は堤防を改修し、西湖の貯水量を増やしたのである。

唐代後期になると西湖は景勝地として知名度も上がり、さかんに詩にも読まれるようになった。西湖の美観は自然の技だけではなく、李泌や白居易ら地方官の善政の賜物でもあった。

白居易自身、杭州に並々ならぬ愛着を持っていた。彼は「憶江南詞」の中で、彼が地方官として過ごした江南や杭州、蘇州への愛情を歌いあげている。その一節、杭州を歌った一首を紹介したい。

江南を憶う 其の二 (唐)白居易 

江南を憶う 最も憶うは是れ杭州
山寺 月中 桂子を尋ね 
郡亭 枕上 潮頭を看る
何れの日にか更に重ねて遊ばん

(意訳)
江南に思いを馳せれば 
杭州の思い出に勝るものはない
霊隠寺に尋ねるは 月より落ちる桂花の実()
郡亭に寝転んで 銭塘江の高潮を見る
また訪れるのはいつの日か

※)ゲームにも登場するように、杭州の市の花は桂花、つまり金木犀である。古来中国では月には木犀の木が生えていると考えられ、杭州の霊隠寺や天竺寺の辺りには月桂の実が地上に落ちてくるという言い伝えがあった。


百万の都【五代~南宋

とはいえ、唐代の杭州は江南一の都会であった揚州や、人口の多い蘇州に比べると一歩見劣りした。その杭州が江南トップクラスの大都市に成長するのは、五代十国から南宋にかけてのことである。

呉越の遺産

唐の滅亡後、五代十国時代には群雄の一つ・呉越(907~978)が杭州に都を置いた。呉越の建国者・銭鏐(せんりゅう)はもともと塩商人で、黄巣の乱の討伐に功を立て、唐朝から杭州刺史および節度使に任命された。そして唐の滅亡後、杭州を拠点に独立国家「呉越」を建国した。

銭鏐は隋唐以来の城壁を改修し、都市を拡張した。隋の杭州城の城壁は全長約19kmであったが、呉越の城壁は40km。約2倍の広さになった。さらに彼は、水源である西湖の環境整備にも乗り出した。当時西湖は陸地化が進んでマコモが生い茂っていたため、一千人の「撩湖兵」を常置し、西湖の草取りに専念させたという。

江南の豊かな土壌や、日本・東南アジアとの海上交易に支えられ、呉越は豊かな国であった。その富を生かして杭州に多くの建物を建設し、雷峰塔や浄慈寺、六和塔など杭州を代表するランドマークの多くは呉越代に築かれている

雷峰塔と浄慈寺(左奥)

呉越国というとあまり身近ではないかもしれないが、杭州に残した遺産はとても多いのである。

臆病皇帝の安息地

呉越が築いた土台の上に、杭州の繁栄を決定づけたのは南宋の建国である。

1127年、宋王朝女真族の金国に都・開封を攻め取られ、皇帝・欽宗と上皇徽宗が北方に連れ去られた。難を逃れた大臣たちは欽宗の弟・康王趙構を即位させる。これが南宋の初代皇帝・高宗である。

高宗は良く言えば平和主義、悪く言えば臆病者の皇帝であった。まず揚州に腰を落ち着けた彼は、金の侵攻がやまないのを見ると長江を渡り杭州に避難。正式に杭州=臨安を都に定めたのは1138(紹興八)年のこと。南京か杭州か迷った末に杭州を選んだのは、「前線から遠く、海に近くて逃げやすかったから」であるそうだ。

元代に中国を訪れたマルコ・ポーロは臨安を「キンザイ」と記しているが、これは南宋の官僚たちが臨安を「行在(あんざい)」、つまり「仮の住まい」と呼んでいたことに由来する。宋人にとって都はあくまで開封、臨安には一時的に身を寄せているにすぎなかったのである。

建国当初、南宋失地回復を目指し軍事行動を起こした。活躍したのが農民出身の将軍・岳飛である。しかしその岳飛も和平派の秦檜と対立して獄死。結局、南宋華北の失地を取り戻すことはなかった()。

杭州には岳飛の墓と、彼を祀る岳王廟がある。国民的英雄として今でも人気のある岳飛の墓には多くの客人が訪れる。一方敷地の一角では、跪いた秦檜の像が置かれ、辱められ続けているのである。

秦檜の選択は誤っていたのだろうか?忠義に照らせばそうかもしれないが、戦にかかる負担がなくなったことで南宋の体制は安定し、江南経済も飛躍的な発展を遂げたのは事実である。

南宋代の臨安は都として、また海や運河を通じた物流の中心として発展し、最盛期には人口が130万人に達したという。人口過密で火災が発生することも多く、被害が数万戸に及ぶこともあったそうだ。

※)ゲームでの「南帰」という名前は、秦檜の言葉と伝えられる「北人北帰、南人南帰(=中国の南北分断を肯定)」からと思われる。ちなみに、岳飛・秦檜問題は「江南百景図」のゲーム展開にも深い爪痕を残しているので、こちらの記事をご覧ください。

xiaoyaoyou.hatenadiary.jp

商都のにぎわい【元~清】

1279年、南宋は元によって滅亡する。しかし幸いにして、臨安はさほど大きな損害は受けなかった。商業や特産品開発を奨励した元朝のもと、臨安改め「杭州」は引き続き商業都市として栄えた。

特に元代は、モンゴルの支配のもとで西アジアから中国に到るユーラシア大陸の東半分が交易ネットワークで結ばれ、杭州は世界中から人と商品が集まる国際都市になった。

杭州にはムスリム商人の居住地があり、ヨーロッパからはマルコ・ポーロも訪れた。彼は杭州を「世界一豪華で富裕な都市」と絶賛し、杭州の記述に『東方見聞録』の多くの紙面を割いている。

明代には戦乱や倭寇の襲撃で損害を被るものの、16世紀には商工業都市として発展。揚州にも置かれた鈔関は杭州にも設置され、明清代を通じて多くの税収を朝廷にもたらした。

この時期の杭州では特に商業が盛んで、明清代の杭州市の人口は20~40万と推定されているが、明代中葉にはその四分の一、清代の康熙代には半分が商人であったという。

商館が立ち並ぶ景観、活気に満ちたBGM。水都百景録の杭州もこうした商都の賑わいを感じさせるつくりになっていると思う。

西湖の美と三堤


西湖を抜きに杭州を語ることはできない。その評判は天下に鳴り響き、揚州の「痩西湖」をはじめ西湖にあやかって名付けられた湖は全国に三十六か所もあるという。西湖の成り立ちと名勝を、ゲームの描写も交えつつご紹介。

三堤と三名人

西湖には河川が運ぶ土砂が流れこみ、定期的に治水工事をしないと泥に埋まってしまう。まずは西湖の整備に尽力した三人と、彼らの築いた堤防について述べたい。

白居易~西湖の美の「発見者」

同じ唐の詩人でも、李白杜甫に比べると白居易の人生は安定していた。29才で進士に及第し、順風満帆な官僚コースを歩んでいた。しかし政争に疲れ果てた彼は、地方への転任を願い出る。そうして822年、杭州刺史(知事)の職を得ることになったのである。

杭州の民は苦しみの中にいた。
唐後期の江南には重税が課され(揚州ガイド参照)、さらに雨が春に集中し、夏の雨量が少ない杭州はしばしば旱魃に見舞われた。

白はこうした状況を把握するや、真摯にその改善に取り組んでいく。堤防を高め、井戸と湖を結ぶ水路を改修し、湖に水門を設けて灌漑路を整備するなど治水工事に尽力した。

こうした白の政策には批判もあった。特に水門については湖水の放出による生態系や菱・蓮栽培への影響、市内の井戸の枯渇など様々な懸念の声が上がったが、白はこれらに理路整然と反論し、説得を重ねて工事を成し遂げた。西湖は貯水量を増し、多くの田畑に水が行き渡るようになったのである。

こうしたいきさつは、断橋右にある「溜水橋」のテキストで読むことができる。

さて、白居易が築いた「白堤」であるが、孤山と断橋を結ぶ今の「白堤(白沙堤)」は白居易の就任以前からあった()もので、起源ははっきりしないらしい。白居易の堤防は「銭塘門の外、石涵橋の近く」にあったと記録が残るが現存はせず、場所を突き止めるのも困難であるそうだ。

白居易は西湖の整備につとめたが、実は西湖は唐代までほとんど無名で、文人墨客にとってもそれは同様だった。例えば李白杭州も訪れているが、銭塘江の高潮を詠んでも西湖についてはスルーしている。西湖の美が発見されたのは、白居易においてであった。

そしてその美は、官僚としての彼の尽力によって現れたものでもあっただろう。「西湖」の名称もまた、彼の詩の中に現れる。様々な意味で、白居易は西湖の父と言っても過言ではないかもしれない。

春の白堤(白沙堤)
※)白居易は「銭塘湖春行」の中で「最も湖東を愛し 行けども足らず 緑楊陰裡 白沙堤(西湖の東が一番好きだ 白沙堤の、緑なす柳の木陰はいくら歩いても飽きない)」と詠んでいる。
蘇軾~蘇堤、三潭、西施の名

杭州を巡るもう一人のキーパーソンと言えば北宋の蘇軾(蘇東坡)である。

蘇軾もまた20代で科挙に及第し、官僚を務めた人物である。彼は地方官として二度杭州に赴任している。一度目は1071(煕寧四)年、宰相の王安石と対立して地方勤務を願い出、杭州の通判(副知事)として赴任した時。

蘇堤が築かれたのは二度目、1089年に知州(知事)として赴任した時である。この頃の西湖は長年治水工事が行われず放置され、半分は泥に埋まって草が生い茂り、雨期になると氾濫が多発し住民を悩ませていた。

そこで蘇軾は20万人の民工を動員して泥を掻き出し、その泥を集めて堤防を作った。これが名高い「蘇堤」である。西湖を縦断し、全長は3kmほど。

蘇堤には柳と桃が交互に植えられ、六つの橋と九つの亭(あずまや)が作られたという。ゲームの蘇堤も橋の数以外、しっかり再現されているので見てみて欲しい。

感謝した杭州の人々は蘇軾に好物の豚肉を送った。蘇軾は逆にお手製の「東坡肉」を作り、民工たちに振る舞いその労をねぎらったという。

西湖を整備するにあたって、蘇軾が作ったものがもう一つある。「三潭印月」の石塔である。

石塔があるのは湖が一番深い所(深潭)で、水位の変化と湖底の土砂の堆積具合を観測するために建てられた。また、この三つの石塔を結ぶ範囲では蓮や菱の栽培を禁止したそうだ。

石塔は灯籠でもあり、中秋節には明かりをともす。実用と美観を兼ねた、蘇軾のもう一つの贈り物である。ただしオリジナルの塔は現存せず、現在のものは明代に再建されたもの。

蘇軾が西湖に残した物は、実はもう一つある。それは美女・西施のイメージである。西湖の名前の由来は単に「町の西にあるから」だったが、時代が下ると春秋時代の美女・西施(西子)と湖が結びつけられ、「西子湖」の別名も生まれた。そのきっかけを作ったのが蘇軾の以下の詩である。

湖上に飲す 初めは晴れ後に雨ふる 其二(宋)蘇軾

水光瀲灔として 晴れて方(まさ)に好し
山色空濛として 雨も亦奇なり
西湖を把(と)って 西子に比せんと欲すれば
淡粧濃抹 總べて相宜し

(意訳)
さざ波の きらめく晴れの美しさ
山並みけぶる 雨景もよい 
西湖を西施に例えてみれば、
どんな化粧もよく似合う

もちろん、歴史上の西施と西湖に関係はない。そもそも春秋時代には西湖すらなかった。しかし伝説の美女のイメージは西湖に一層の風情を与えることになったのである。

現代でも、西湖は西施を通じて美の象徴であり続けている。例えば中国を代表する化粧品ブランド「花西子」は杭州の生まれだが、名前の由来は勿論蘇軾の詩である。

ちなみに蘇軾は白居易のファンであり、彼の号「東坡」というのも白の詩から取ったものである。逆境を楽しみに変えてしまう柔軟で前向きな生き方、酒と茶を愛したこと等、性格的にも似た所のある二人だが、蘇軾自身もそれを自覚し親近感を持っていたようである。杭州滞在中、蘇軾は杭州での白居易の行動をなぞったり彼を詩に読んだり、なにかと白を意識している。

楊孟瑛~忘れられた功労者

ゲームにおいて、西湖の浚渫を指揮する楊孟瑛白居易・蘇軾に比べると知名度は低いが、楊孟瑛抜きに今の西湖の景観はなかった、と言っても過言ではない重要人物である。

彼は四川の出身で、知州として七年杭州の統治に当たった。白居易や蘇軾の尽力も今は昔、西湖は陸地化し、その土地を富裕層が占拠して囲い込み、農地や家を建てていた。その様は「十里の湖光に十里の竹垣、竹垣編んだは富豪の家」と民間で歌われるほどだった。(実績「十里湖光」の元ネタと思われる)

楊孟瑛はこの惨状を見て一念発起。上奏文「開湖条議」を朝廷に提出、1508年には正徳帝の許しを得て西湖の整備に乗り出した。彼は富裕層に退去を通告、一方で民工を集めて浚渫作業に当たらせた。農地を崩し、掻き出した泥で堤防を作り、五カ月の作業を経て西湖をよみがえらせたのである。

富裕層の怒りを買った彼は1509年に杭州から異動となり、翌年官を辞して郷里に帰った。杭州の住民たちは、楊の築いた堤防を「楊公堤」と呼んでその功績をたたえたのだった。

蘇堤からの景色。正面に霞んでいるのが楊公堤。

西湖十景

西湖の美しい風景はいつの時代も人を魅了してきた。中国人は西湖の数ある絶景から、季節や時の移ろいも考慮して十個を選び、風雅な四字熟語をもって名づけた。

「西湖十景」の成立は南宋、皇帝寧宗(在位1194~1224)の治世、宮廷画家が名付けたものと言われる。一番ポピュラーな元祖十景のほか、1985年に「新西湖十景」が選ばれ、2007年にはさらに三代目「西湖十景」が選定されるなど次々新たな「十景」が作られている。

実態に関わらず、とかく数字で括りたがる心性を魯迅は「八景病」や「十景病」と揶揄しているが、杭州はそれだけ名勝に事欠かないということでもあろう。

「元祖十景」のいくつかはゲーム内の名勝としても再現されているのでご紹介しよう。

断橋残雪 雷峰夕照
断橋の雪景色。断橋については後述。 雷峰塔の夕景。雷峰塔については後述。
柳浪聞鶯 曲院風荷
もともとは南宋の二代目・孝宗が養父高宗のために作った御苑。園内の柳は五百本あまりという。 南宋時代には国立の醸造所(麯院)があった。蓮の季節には酒と花の香りが漂い、酒を飲まずとも酔えると評判であった。
平湖秋月 南屏晩鐘
白堤の西端にある観月の名所。詳しくは後ほど。 南屏山のふもとにある浄慈寺の鐘の音は、杭州城内に響き渡ったという。ゲームの杭州府でも、16時から10秒おきに「晩鐘」が鳴る。
蘇堤春暁 三潭印月
宋代、蘇軾が築いた堤防。蘇堤には柳と桃が植えられ、春にはひときわ美しい。 三潭とは湖中に作られた三つの石塔(前述)。ここも月見の名所で、中秋には塔に火がともされた。
双峰挿雲 花港観魚
西湖の西にある北高峰と南高峰に雲がかかる絶景を言う。 もともとは南宋時代の官僚の別荘。花港の名は花家山から流れる川が湖に注ぐことから。鯉のいる池が有名。

※赤字は自分で再現したものや推測によるもので非公式です。花港観魚は区域未開放・三潭印月はマップに存在しないため今のところ再現不可。

杭州の物語

水都百景録には歴史上の人物だけでなく、古典や戯曲のキャラクターも数多く登場する。その中から、杭州を舞台にした物語を取り上げたい。

梁山伯と祝英台


結ばれぬ悲恋の末に蝶と化した梁山伯と祝英台の物語は中国ではよく知られた物語で、「白蛇伝」「牽牛織女」「孟姜女」と合わせて中国四大民間伝承の一つといわれる。西洋では「バタフライ・ラバーズ」の名で知られ、東洋版のロミオとジュリエットに例えられることも。

以下、あらすじの一例を載せておく。

時は東晋紹興の裕福な家の令嬢・祝英台は学問好きで、十分な教育が受けられないのに不満を持っていた。彼女は父を説得し、男装して杭州に学びに行くことに。その途上で梁山伯と知り合って意気投合し、二人は義兄弟の契りを交わす。

二人は杭州の書院で3年の間共に学んだ。英台は山伯に惹かれていくが、彼は「義弟」の正体には気づかない。

やがて実家からの手紙が届き、英台は急遽帰郷することに。山伯は彼女を見送りに、十八里の道のりを同行する。道中、英台はなんとか自分が女だと伝えようとするが、山伯はなおも気づかない。英台は仕方なく「自分によく似た妹がいるから家に来て結婚してほしい」と彼に伝えるのだった。

山伯はその後祝家を訪ね、女性に戻った英台と再会する。梁は彼女に結婚を申し込もうとしたが、英台にはすでに太守(知事)の息子・馬文才との縁談が手配されていた。馬は富家の御曹司、家が貧しい梁山伯には状況を覆す力もない。彼は県令の職を得たが、思いわずらいのすえ病死してしまう。

後日、英台が馬家に嫁ぎに行く途中、強風が起こり進めなくなってしまった。そこに梁の墓があることを知った彼女は墓前に詣でて慟哭した。すると雷が落ちて墓が割れ、英台を呑み込んでしまう。梁山伯と祝英台の魂は蝶と化し、共に飛び立っていった。


梁祝の伝説は唐代には成立していた。初見は梁載言の『十道四蕃志』で、「義婦・祝英台が梁山伯と同じ墓に葬られた」という記述がある。しかしこれ以上の情報はなく、蝶の話も出てこない。それが物語の形を取って現れるのは、唐末の9世紀・張読の志怪小説『宣室志』である。

なお、魂が蝶に化すという発想は梁祝オリジナルではなく、南北朝時代の志怪小説『捜神記』の原書にもそのような話がある。中国では死者の霊魂は蝶となり、愛する者のもとへ帰ってくると考えられていた。蝶と魂を結びつけるのは、ギリシア神話中南米の神話をはじめ、世界中で見られる発想である。

史実と伝説

作中に梁山伯が県令になった話が出てくる。一見無くても問題ないような情報だが、実は東晋時代に県令をつとめた「梁山伯」は実在するらしい。梁の出身地と言われる寧波の鄞(ぎん)県にはこの梁山伯を祀る廟がある。善政をしき、任期半ばで病死した彼を記念したものである。

今は実際の梁県令ではなく「梁・祝物語」の聖地となっており、障害のある恋を成就させる、末永く共にいられる等の霊験を求めて夫婦や恋人が訪れるという。

また、梁・祝が学んだ書院と伝えられる場所はいくつもあり、その候補地の一つが杭州「万松書院」である。万松書院は王陽明が講義したことでも知られる由緒ある書院だが、明代の創建であるため作中の時代とは合わない。

明末清初の文人杭州ともゆかりのある張岱は山東を訪れた際に「梁・祝の書院」があることに驚き呆れているが(東晋は江南の王朝なので書院が北にあるのはおかしい)、時代や地域を問わず、二人の物語が胸を打ち、人々に愛されてきた証でもあるのだろう。

越劇のイメージ

さて、二人の故事は古くから音楽や演劇の題材になっている。祝英台の出身地とされる紹興には越劇という伝統演劇があるが、梁祝物語は越劇の代表的な演目である。ゲームにおける祝・梁・馬の衣装やメイクも古典演劇を意識していると思われる。劇の内容もキャラクター造型や描写に大きな影響を与えていると思うので一場面を紹介したい。

劇のハイライト、帰郷する祝英台を梁山伯が送る「十八相送」と呼ばれる場面である。何とか想いを伝えようとする祝英台のいじらしさと、残酷なまでに鈍感な梁山伯のすれ違いが非常にもどかしい。歌詞を一部抜き出して大まかに訳してみよう。

鳳凰山が見えてきた!
祝「鳳凰山は花が満開だろうなぁ」
梁「芍薬と牡丹はないけどね」
祝「牡丹が好きならうちにおいでよ。良い牡丹があるし、摘むのも簡単だよ」
梁「それはいいね、でも遠いから…」

②ガチョウのつがいが飛んできた!
祝「オスのガチョウの後ろから、メスが兄さんって呼んでるよ」
梁「ガチョウは口を開けてないのに、どうして呼んでると分かるんだい」
祝「君にはメスが微笑んでるのが見えないんだね。梁兄さん、彼女は君を馬鹿なガチョウと笑っているよ」
梁「もう『兄さん』なんて呼ばないでくれ。僕は『馬鹿なガチョウ』なんだから」

③井戸があるぞ!
祝「井戸の底に映る人影が見える?男女二人が笑ってるよ」
「男女だって?僕は男だよ」

図鑑の文章やキャラデザも戯曲の影響を受けているようだ。ぼんやりした表情やガチョウを持たせていることから、梁山伯といえばやはり「鈍いやつ」のイメージなのか。しかし秦良玉や袁可立とならんでステータスは高かったりする。

【おまけ:天賦考察】

祝英台(慟哭) 物語の最後、梁の墓前で慟哭する場面からか。葬儀店で収入増加というのはシュールだが、「泣き女(葬式で泣く業者)」もイメージしているのか?
梁山伯(同行) 杭州への行き帰りに英台に同行した筋書きからと思われる。銅貨を獲得できるのは結納金の意か。
馬文才(散財) 裕福な家の出身という所から。

白蛇伝


杭州と言えば白蛇伝もはずせない。作中には断橋や雷峰塔など西湖の名勝も数多く登場し、より杭州密着型の物語である。こちらも色々なバージョンがあるが、代表的なあらすじは以下である。

時は南宋杭州の薬屋で働く青年・許宣(許仙とも)清明節の墓参りに出かけた。ところが帰り道に雨が降ってきたため、西湖で船を借りることに。すると二人の女性が同じ船に乗ってくる。白娘子(※1)と侍女の小青、実は白蛇と青蛇の精である。

二人が船を下りる時、許宣は自分の傘を差しだした。これが縁となり、白娘子と許宣は夫婦となった。許宣は結婚にあたって自分の店を持とうとしたが、先立つものがない。白娘子は小青に命じて銭塘県の役所から銀を盗ませ、資金を手に入れる(※2)。許宣は薬屋「保安堂」を開業し、夫婦仲睦まじく暮らすのだった。

一方、金山寺の和尚・法海は白娘子の正体を看破し、許宣に端午の節句、雄黄酒を妻に飲ませるように言う。雄黄酒は蛇を含む「五毒(※3)」を除く魔除けの酒。白娘子はたまらず正体を現し、許宣はそれを見てショック死してしまう。

白娘子は夫のために仙界へ行き、南極仙翁の仙草を取りに行く。許は息を吹き返したが、法海は彼を説得し、金山寺に引き留める。白娘子と小青は許を取り戻すため、エビやカニなど水族の仲間を率いて金山寺を水攻めにするが敗れてしまい、断橋に落ち延びる。

そこに金山寺から戻ってきた許宣がやってくる。三人は和解して息子の許士林も生まれるが、白娘子は韋駄天の増援を得た法海によって鉢に封じ込められ、雷峰塔の下に埋められてしまった

成長した士林は科挙に状元及第し、故郷杭州に戻ってきた。そして雷峰塔の下に母が封じられていることを知り、塔を祀る。すると塔の神の許しを得て白娘子が姿を現し、母子は束の間の再会を果たすのだった。

白蛇伝はもともと民間伝承で、琵琶法師のような盲目の講談師(陶真という)が街角で語っていたようである。こうした庶民の物語が文学として刊行されるのは、蘇州ガイドで書いたように明末のこと白蛇伝の物語が初めて小説化されたのは、馮夢龍『警世通言』所収の「白娘子永鎮雷峰塔」である。

ただし、ここに書かれる物語はポピュラーな「白蛇伝」のあらすじとは異なる原始的な形である。許宣は法海の弟子になって出家し、息子も登場しない。小青は青青の名で蛇ではなく青魚の精である。 

妖女から聖女へ

こうした原型が後世さまざまに脚色され、戯曲やドラマで描かれるような世界観を形成していったのである。一番大きな変化としては、白娘子と法海のポジションの逆転だろう。馮夢龍版の段階では、白娘子はあくまで「許宣をたぶらかす妖怪」、法海は「妖怪を退治する善玉」である。

しかし後世、白娘子の方に同情的な声が大きくなり、白娘子は慈悲深く健気なヒロインとなり、許宣は優柔不断さが強調され(劉備三蔵法師系)、法海は恋路を阻む悪者、そして小青が荒事担当で、読者や観客の感情を代弁するようなポジションになった(※4)。

ちなみに、水都百景録の白素貞のビジュアルは台湾のドラマ「新・白娘子傳奇」を元にしている。youtubeでも見られるので気になった方はどうぞ(埋め込みは出来ない仕様みたいです)
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※1)「素貞」という名は、清代の語り物(弾詞)でついた名前であるそうだ。素は白という意味(素人のしろ)。
※2)ゲームにおける小青の能力値及び天賦は、おそらくこれが由来。
※3)蛇、カエル、トカゲ、ムカデ、サソリ。いわゆる「蟲毒」に使う五種である。
※4)西遊記』でいうと猪八戒、『三国志』でいうと張飛のような感じである。こういうポジションは中国では非常に人気がある。小青の人気のほどについては知らないが、ドラマ等を見ていても彼女のストレートな言動行動には確かにスカッとする(特に許宣へのツッコミ)。


保安堂ではないが、杭州には老舗の薬屋がいくつかある。こちらは河坊街(清河坊)の回春堂。

長恨歌

長恨歌は「杭州の物語」ではないが、杭州探検のモチーフのため合わせて書いておきたい。

長恨歌は言わずと知れた、玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋の歌である。806(元和元)年、白居易が35才の時の作品で、楊貴妃の最期の地である馬嵬に近い盩厔(ちゅうちつ)県に赴任した際、インスピレーションを得て書かれたものである。

さて、水都百景録の杭州探検は「結ばれない愛の物語」と言える。それも、楊貴妃玄宗、もしくは梁山伯と祝英台のように強制的に引き離される「悲劇」ではなく、あくまで一つの愛の形として描かれている。

この物語に何故長恨歌の名が与えられているのか。白居易が主役を務めるというだけでなく、やはりオリジナルの「長恨歌」のテーマに即したものがあると筆者は考えている。

「恨」の「艮」は字解では「目と刀」、つまり目元に入れ墨を施すことを意味する。「恨む」は心に入れ墨をする、つまり心に残る感情を表した言葉である。そこから怨みや後悔を表すことになるのだが、長恨歌の「恨」は「怨恨」ではなく「悔恨(心残り)」である。

長恨歌』では、楊貴妃玄宗の出会いから二人の幸せな日々、安禄山の乱による死別、そして玄宗が悲しみのあまり道士に彼女の魂を探させ、道士は仙女となった楊貴妃を蓬莱山で見つける…という筋立てになっている。

仙女となった楊貴妃は、すでに俗界に戻ることはできない。「思いが固ければ、必ずまた会えるでしょう」そう言って、かつて玄宗にたまわった螺鈿の小箱と簪を二つに分け、その片割れを道士に持ち帰らせるのである。

詩の結びにも言う。

天長く 地久しきも 時有りて尽くるも
此の恨み 綿々として絶ゆるの期(とき)無からん

天地が滅んでも思いが消えることはない。杭州探検の白居易と小蛮も、納得してそれぞれの道を行くが、心残りに後ろ髪を引かれることもある。しかしそれは互いへの思いがあるからこそ。長恨歌』に歌われているのは悲劇ではなく「愛情の永遠性」なのである。

ちなみに史実の話をすると、小蛮は白居易の家に養われていた妓女であり、舞が得意だったの本当だが、作中で描かれているような関係性はゲームオリジナルである(杭州に限らず、探検の設定は全てそうだが)。白家にはもう一人歌上手の「樊素」がおり、白居易が樊素の唇を桜桃の実に、小蛮の腰を柳に例えた詩も有名。

ところで白居易の夫人は楊氏というが、常に民衆の目線に立つ白居易が失政や反乱の原因となった楊貴妃に同情的なのは、彼女に重ねていたからだという説もある。

名勝紹介

断橋


湖岸と白堤(白沙堤)を結ぶ橋で、唐代にはすでにあったようである。

名前の由来は色々ある。一つには、孤山(ゲームでは無辺坊)から伸びる白堤がここで途切れるから。または、音が同じ「段橋」が変化したものという説。断橋付近で段という夫婦が酒屋を営み、仙人に助けてもらった恩に報いるため橋を作ったという伝承がある。

白蛇伝」では、白素貞と許宣の出会いの地で、ゲームの断橋には許宣の傘が立てかけてある。

ちなみに、ゲームの断橋の文章は宋・呉文英の詞「憶旧游・送人猶未苦」。

雷峰塔


呉越時代、国王・銭弘俶(在位948~978)が妃の男児出産を祝って建立した。

元末に火事にあって木造部分は焼けてしまい、蘇州の雲岩寺塔同様、煉瓦製の塔身だけが残っていた。しかし1924年にはその塔も倒壊してしまう。

その一因が養蚕にまつわる伝説である。杭州は古くから絹の産地だが、雷峰塔の煉瓦を祀ると蚕が良く育つという伝説があった。そのため煉瓦が持ち去られてバランスが崩れ、ついに崩壊してしまった。

白蛇伝の物語では、僧・法海によって白素貞がこの塔の下に封じ込められる。ちなみにかの魯迅は雷峰塔倒壊の際に「雷峰塔の倒壊を論ず」と文章を寄せているが、要約すると法海ざまあ!でちょっと面白い。

雷峰塔は2002年に再建された。火事は14世紀のことだから、約700年ぶりに当初の姿に戻ったことになる。蘇軾もこんな景色を眺めていたのかもしれない。

望湖亭


白堤の西端、孤山のふもとにある望湖亭は月見の名所で、西湖十景では「平湖秋月」に相当する。唐代の創建で、白居易もたびたび訪れた。

明の万暦年間には大掛かりな修繕が行われ、西湖の龍王を祀る「龍王堂」に作り替えられる。それが清代に御書楼(書庫)となり、新しく湖に張り出したテラス(平月台)が作られて今に至っている。

平湖秋月。中央の楼閣が御書楼。

湖心亭と湖中三島


西湖には四つの島がある。そのうち孤山は橋や堤防で陸地と繋がっているが、その他三つは独立した島で、総称して「湖中三島」と呼ばれた。

その三島が「湖心亭」「三潭印月(※1)」、「阮公墩(※2)」で、それぞれが伝説上の三神山(蓬莱・瀛州・方丈)に例えられた。

右が阮公墩、左が湖心亭、奥が三潭印月。

湖心亭はその名の通り湖の中央にあり、三島の中では一番歴史が古い。宋代頃には湖心寺が建てられたが、明代に取り壊され亭(あずまや)に建て替わった。

ゲームの湖心亭のテキストは明末・張岱の随筆『陶庵夢憶』の「湖心亭看雪」。大雪の杭州、静かな夜に一人湖心亭に漕ぎだした著者を待ち受けていた場面である。

※1)三潭印月は「小瀛州」という別名もあるがその由来は前述のとおり。今の三潭印月の陸地や石塔は明の万暦年間(16世紀後半)に作られたものだそうで、作中の西湖は洪武朝、もしくは楊孟瑛の時代(16世紀前半)だからまだないのだろうか?
※2)清代に浙江巡撫(地方官)をつとめた阮元に由来する。彼が西湖の整備をした際、浚渫した泥を突き固めて作ったという。こちらも年代的にゲーム内には存在しない。

※新名勝(タップで展開)



新名勝

  • 杭州の地域拡張後、新たに「大仏寺」が名勝として追加される。

    場所は西湖の北にある宝石山の南麓で、寺院はこれまでも何度か登場した呉越王・銭弘俶である。ただし大仏は宋代のもの。天然の巨岩を利用して作られ、全身像ではなく半身像である。

    大仏になった岩には始皇帝にまつわる言い伝えもある。始皇帝は船で銭唐県を訪れたが(この時の杭州はまだ海である)、風に阻まれ進めなくなってしまった。そのため、この岩に船を繋いだと言われている。

    寺院は元代に破壊されてしまったが、明代に永楽帝朱棣が再建。「大仏禅寺」の額を賜った。寺院名が正式に「大仏寺」となったのはこの時である。

    大仏寺(南宋『西湖清趣図』)。右下は断橋。昔は木橋だったのだ。

    大仏寺はイチョウの名所としても知られており、杭州の新区域+追加装飾にイチョウがあるのはこれに合わせたものと思われる。


参考文献

(1)花房英樹『白楽天』century books 清水書院 1990
(2)袁珂『中国神話伝説大事典』大修館書店 1999
(3)植木久行『唐詩の風景』講談社 1999
(4)旅名人編集室『杭州紹興 近代中国文化のルーツ』旅名人ブックス37 日経BP企画 2001
(5)石川忠久『漢詩を読む 蘇東坡100選』NHK出版 2001
(6)竹内実『中国長江 歴史の旅』朝日新聞社 2003
(7)川合康三『白楽天岩波書店 2010
(8)加藤徹『中国古典からの発想 漢文・京劇・中国人』中央公論新社 2010
(9)岡本隆司編『中国経済史』 名古屋大学出版会 2013
(10)三山陵『フルカラーで楽しむ 中国年画の小宇宙 庶民の伝統藝術』勉誠出版 
2013
(11)瀬川千秋『中国 虫の奇聞録』大修館書店 2016