壺中天

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【水都百景録】州府ガイド(1)徽州府


新しいシリーズです。州府ガイドとはいっても、ゲーム内の州府情報や攻略ではなく、ゲーム内での描写を通じて州府の風土や社会の特徴・明代中国における位置づけ等をまとめた記事になります。基本は実際の中国各地の歴史、地理、文化の解説なので、プレイしていない方でもお読みいただける内容です。

まずは徽州から。今更徽州?って言われそうですが、温めてたのをようやく形にできたので…。これから順次書いていきます。

【シリーズ】
【水都百景録】州府ガイド(3)揚州 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(2)蘇州 - 壺中天

概要

「徽州府」は現在の安徽省南部・黄山に相当し、観光地として有名な名峰・黄山のおひざ元。地形的には杭州湾に注ぐ新安江に面した徽州盆地に位置している。

ゲームのマップは黄山市歙県の徽州古城がモデルで、八脚牌坊や漁梁の堤もここにある。もともと一帯は山林に覆われており、「山越」と呼ばれたベトナム系の人々が居住していた(三国志の呉の宿敵としても有名)。

徽州盆地には時代とともに華北からの漢族移民が増加し、山林を開発し居住地を広げていった。しかし他地域に比べれば耕地が少ないことには変わりなく、徽州の住民たちは商売など移動産業に従事するようになっていく。その代表が、明清代に中国全土をまたにかけた「徽商(新安商人)」である。

徽商(新安商人)

徽商の台頭は明代の15世紀後半頃
中国では時代と共に、江南の開発や大運河の開削、手工業の発展等を背景に国内の商品流通が活発化。そうした機を捉え、商人の組織的な活動が盛んになっていく。「徽商」というのも単に「徽州の商人」という意味だけでなく、そういった商人組織(商幇という)の名称である。

※)幇というと上海の青幇などヤクザのイメージもあるが、本来は同業団体のこと。探検で物乞いくんが「丐幇だから独り占めはしない」と言っているが乞食(乞丐)にも同業団体があって色々ルールがあるのだ。

塩と川

山深いイメージとは裏腹に、徽州は新安江(銭塘江)によって江南デルタと繋がる水運の要である。

徽州商人自体は明以前から活動しており、特に南宋代、臨安(杭州)が王朝の都になると新安江を通じて徽州の山林資源(木材など)が盛んに取引された。ただしこの頃の徽商の活動範囲はあくまで新安江周辺にとどまり、それが全国規模に広がったのは明代のことになる。そのきっかけを作ったのは明朝の塩政であった。

生活必需品で生産地の限られる塩は唐代から朝廷の専売品として重要な財源の一つであり(※1)、唐代には生産と販売をすべて政府が管理していたが、宋代からは民間商人に条件付きで販売を委託するようになり、これが有力な商人集団が登場する背景となった。

基本的には「条件を満たすことで塩の販売許可証(塩引=ゲームでいう塩券)を支給され、生産地で塩を買い付け・販売できる」という仕組みである。

その「条件」が、モンゴルとの戦いに明け暮れた明初は「前線への兵糧納入」だったため山西商人(晋商)など北部の商人に有利であったが、15世紀末になると既存システムの歪みや銀本位経済の浸透を背景に納入品が兵糧から銀に切り替わり、製塩地に近い徽州の商人が台頭するようになった(※2)

さらに明清代には経済の中心地である江南を起点として伸びる3本の主要な水上交易路があり(※3)

華北ルート(長江をたどり、揚州から大運河を北上し北京に至る※4
②長江ルート(長江をさかのぼり四川に至る)
③広東ルート(内陸の川をたどり、海上交易の中心地広東へ至る)

徽州はこのいずれにもアクセスがしやすい好立地にあったのである。

以上のような背景から、徽州商人は地元の流通を担う地方商人の枠を飛び越え、全国の流通を掌握する大商人集団として成長。15世紀末から清代の19世紀にかけて、北方の山西商人と並び称される2大商人集団として活躍することになるのだった。


水運と塩の取引で台頭した徽州商人。水都百景録の松江以降は松江(塩屋=徽商の活動地)⇒徽州(徽商の故郷)⇒揚州(徽商の経済基盤)】と全部徽商を通じて繋がっている。徽州は江南なのか?とツッコんだこともあるが、こうした流れを踏まえると不可欠な州府だし、街の選定も単なる知名度だけでなく社会・経済的な連関性も踏まえて為されているのが分かる。すごい。

※1)『塩鉄論』で知られるように塩の専売自体は前漢から実施されているが、正式に制度化されたのは唐代のこと。
※2)ちなみに徽商発展の母体となったのが、揚州が管轄し、最大の産出量を誇った「両淮塩区」。徽商が揚州にプレイヤーを導くという流れはこうした背景を踏まえている。清代になると揚州に移住する徽商も増え、塩商人の元締め(総商)や文人パトロンとなり、揚州に経済的・文化的繁栄をもたらした。なお塩を巡る制度については松江の州府ガイドにて詳しく解説予定。
※3)参考文献(2)より
※4)徽州は新安江で杭州と結ばれているので、揚州より杭州から大運河に接続する方が近い。

徽商の活動

明の中華再統一にあたり、洪武帝は南北の経済的統一を進めるため現物主義を採用、貨幣の使用制限や商業規制を行った。しかし時代と共に、それも通用しなくなってくる。

15世紀に入ると永楽帝の北京遷都によって、生産力で劣る華北に物資を集約させる必要が生じた。また自然環境の変化から江南では稲作が衰退し蘇州の絹産業、松江の綿産業など手工業が発達。工業地帯と農業地帯の分業化が進み、王朝の重心や産業構造の変化に伴って長距離商業の需要が高まっていったのである。(※1

こういった状況もまた、徽商の活躍を後押しすることになった。彼らの活動内容はおもに以下の通り。

①行商によって各地域の需要と供給を満たす
市場町(鎮)で問屋を営み、農民と商人を仲介
③典当業(質屋)の経営

①徽商の活動範囲と商品
当時徽商が扱っていた主な商品と関係する地域について、大まかに図示したものです。

このほか、北方での特産品交易(毛皮・人参等)や海外での密貿易(倭寇)等にも参入しており、東西南北、国内外を問わず広い範囲で活動していた。

②鎮での役割について
鎮というのは行政府のある都市とは異なり、商人が集まって自然に成立した市場町のこと。商業規制がゆるんだ宋代から各地で生まれ、例えば「江南の水郷古鎮」として知られる朱家角、烏鎮、周荘などはこうした成り立ちの町である。当時はこうした「鎮」が流通路の途上に点在し、絹・綿など工業製品の集積地となっていた。


徽商はこの鎮に問屋を構え、現地の農民から買い付けた品を外来の商人(客商)に販売していた。なお、農民から買い付けるのは米ではなく絹や綿布。当時の農民は多くが小作人だったが、稲作だけでは生活していけないため副業をするのが常であった。

「徽商無くして鎮成らず」という言葉もあり、各地の農村、市場町、都市をつなぐ徽商はまさに経済の結び目としてなくてはならない存在であったと言えよう。

③典当業(質屋)について
徽商は商業活動で蓄積した富を利用して金融業も営むようになった。豊富な資金がある分金利を低く抑えることができ、高い競争力を誇っていたという。
(なお北方の山西商人も同様の展開を見せており、銀行的な金融機関・票号を経営していた)

※1)高校世界史でお馴染みだった「宋『江浙熟すれば天下足る』⇒明『湖広熟すれば天下足る』」というのも、こうした産業構造の変化を表した言葉である。

文芸の発展と徽商

明後期になると蘇州を中心に文芸が発達した。当時の蘇州は中国最大の経済都市でもあり、文芸の大衆化によって美術品もまた市民の消費活動の中に組み込まれていた(※1)。徽商はこうした美術品を購入し流通網に乗せることで、芸術市場を活性化させる役割も果たしていた。蘇州が流行の発信地とすれば、徽商はそれを伝えるメディアの役割を果たしていたわけである。

とはいえ彼らはあくまで商人、審美眼・鑑識眼に優れていたわけでは必ずしもなく、逆に彼等がそれと知らずに贋作や模造品を市場に流し混乱を招くこともあったようだ(※2)。

※1)そもそも、書画に「商品」として初めて値段をつけたのは徽商であったらしい(参考文献(6)より)
※2)逆に文人の方もそれを助長していた感もあり、董其昌・陳継儒(松江を代表する曲者文人コンビである)が所蔵品を贋作と見抜かれるや、徽商に売って知らん顔していた逸話もある。当時はそれに限らず書画の大衆化にともなって贋作が横溢し、例えば沈周の新作が午前中に出ると、午後には模造品が回っていたそうだ。

宗族

水都百景録の徽州では四家の徽商一族が重要な役割を演じているが、実際、徽商の活動は血縁のネットワークによって支えられていた。それだけでなく、ゲームの彼らについての描写には中国特有の氏族集団「宗族」の文化が色濃く反映されている。以下、宗族について見ていこう。

宗族とは

中国南部(浙江、福建、広東など)では宋代以降、儒教的秩序に基づく父系氏族集団「宗族が形成された。

宗族は複数の世代・世帯を含み、集団で居住・生活していた。今でも地方に行くと一つの村の住民がまるごと一つの氏族…ということも珍しくない(諸葛八卦村や孫権の子孫が住む龍門鎮など)。

明から清にかけて、宗族は大土地所有を通じて富を蓄え、地方社会に大きな影響力を持つようになる。徽州は特に宗族の影響力が強い土地柄であった。

安徽省:汪家の村、宏村)

宗族は単なる大家族集団ではなく、同郷出身者が集う同郷会館と同じように相互扶助ネットワークの一環として機能してきた。広大で人口の多い中国では政府の恩恵が末端まで行き届かないため、伝統的にこういう組織が民間で発達したのである()。徽商の活躍もまた、宗族の血縁ネットワークや、各地の同郷会館を通じた地縁ネットワークの賜物であった。

※)だから中国人の帰属意識は国家より同族や同郷集団にあり、近代では統一的な国民意識の養成に結構苦労することになる。今でも例えば、同じ中国マフィアでも出身地の異なる集団は決して手を組まないそうだ。

姓と結婚

父系氏族集団というのは、父方の祖先を共有する同姓の集団」ということ。極論を言えば同じ姓の人は遡れば同じ祖先に行きつく。なので、中国の伝統では祖先を同じくする(とされる)同姓の男女は結婚が認められない

これは現代でも踏襲されており、ゲーム内でも徽州の民家に入居してくる男性住民はすべて徽商一族と同じ「汪、奚、李、葉」の姓を持っているが、女性は必ずこれ以外の姓に設定されている。これは上記の法則によるもの。ランダムな結婚イベントが発生する以上、こうした調整が必要なのである。

また、父系重視で女性は結婚しても父方の姓を名乗るため、そういう意味でも中国は伝統的に「夫婦同姓」である。

その割に、宗族内における女性は他家に嫁ぐ=いなくなるものと考えられていたため基本的に扱いが悪く、族譜(後述)に記載されなかったり、未婚で亡くなった場合も一族の墓には葬られず、庭に埋葬して済ませることもあったそうだ。

少々話がそれるが、中国の怪談には、映画「霊幻道士」のように幽霊娘が生者を誘惑する話がよく出てくる。これも「女性は嫁ぎ先に帰属する」=「伴侶がいないと一人前になれない」という当時の考え方が背景にあるので、彼女らも結構深刻なものを抱えているのである。

生者と死者の婚礼を行う「冥婚」の風習も、こうした女性たちの救済措置だった。逆に言うと、未婚のまま幽霊になれば自由に恋が出来るということにもなるので、例えば湯顕祖『牡丹亭還魂記』は主人公柳夢梅が幽霊として現れた杜麗娘と恋に落ち、最終的には生き返った彼女と結ばれ大団円…と一見荒唐無稽な筋書きだが、「幽霊娘の自由恋愛」を逆手に取った設定と考えられるのかもしれない。

宗族内の文化

宗族を繋ぐ要であり拠点となるのが、祖先を祀る「宗祠」(宗廟ともいう。ゲームでいう「祖廟」)である。宗祠は一族の存在証明のような施設であり、ゲームで徽商一族の経営が祖廟の建設から始まるのもそのためである。

(宏村の汪氏宗祠)

宗祠では先祖の位牌を祭り、祖先祭祀の儀式を執り行う()。祖先祭祀は宗族の義務とされ、彼らはこうした行事を通じて同族としてのアイデンティティを確認し合い、大規模な集団をまとめていったのである。

※)ちなみに、都市の娯楽建築「祠堂」も一族を祀る施設で、中国語名はまさしく「宗祠」。よく見ると位牌が祀られている。鶏鳴山(角宿・下)の祠堂を建てる任務に「家譜を調べる」という説明が割り当てられているのもそのため。

その他、宗族に関する文化について紹介しておく。

①宗法

宗族内の規則で、儀礼の手順、親族間の礼儀などを定める。なお、宗族の族長は最上位世代の最年長者かつ、条件は男子で、長男で、母が正妻である者。族長は祭祀の主催や問題解決を担当した。

②世代の扱い

前述のように宗族には複数の世代・世帯が同居しているが、宗族内では世帯よりも世代が重視され、血縁上は従兄弟の関係にあっても世代が同じ者は「兄弟」という認識であり、同世代の者は名前に共通の部首を使う、また祠堂の位牌も世代ごとに並べられる等、独特な文化があった。

こうした文化をよく伝えるのが古典小説『紅楼夢である。本作には作品の舞台である賈家の人物が多数登場するが、名前で世代が分かるようになっている。例えば、

主人公の賈宝玉の世代=賈珠、賈環、賈璉
父親の賈政の世代=賈赦、賈敬、賈敏

というような具合。世代ごとの距離感なんかも読むと実感できるものがあるのだが、具体例を挙げられないので割愛…。

③族譜

同族とはいえ、世代が進めば血の繋がりが薄れてしまう。そのため、宗族は一族の系譜「族譜」を編纂した。

族譜は宗族に所属する者の名前や業績を示した家系図的な書物のことで、大抵は(時には伝説上の)祖先から書き始められている。前述の理由で女性は記録されていなかったが、現在は記されるようになったようだ。

④財産の扱い

ゲームには特殊な通貨として「一族の資金」が登場するが、現金や土地を含めた宗族の財産(族産)は実際に一族の共有であった。ゲームでいうと一族の資金+祖廟の勢力範囲が「族産」ということになるだろうか。主に祭祀や科挙のための教育資金として用いられた。

徽州・徽商と学問

水都百景録の徽州の地名は「状元巷」や「格物巷」など科挙や学問にちなんだものが多い()。実際に徽州は学問の里でもあり、高級官僚も多数輩出している。学問の里で培われた学識と精神。それもまた徽商の強みの一つであった。

宗族と教育

王朝時代、男子にとって人生最大の目標といえば何より科挙に及第することである。特に徽州は以前から学問を重視する土地柄であり、各一族の村落には必ず宗祠と書院が建てられ、徽商が私塾を建てることもあった。

科挙合格者は「郷紳」と呼ばれ、その富と名声、人脈によって地方社会に大きな影響力を持つ。そしてその恩恵は個人だけでなく一族全体にも降り注ぐ。さらに科挙合格者を多く輩出する家に対しては、官職の授与や武装の認可等の特権が朝廷から与えられることもあった。

そのため、徽州の一族は合格者を出すために熱心な子弟の教育に励んだ。家塾を建てて優秀な教師を招くだけでなく、模試を実施したという記録も残っている。

(宏村・南湖書院の孔子廟

※1)その他、朱子の本籍地ということも関係していると思われる。

先儒後商

こうした風土で育った徽商たちは「先儒後商」と言われるように高い倫理観と学識を備えていた。それは信用の構築や高官との交渉など、実務でも大いに役立った。

徽州人材の価値については外界にも知られており、洪武帝朱元璋は南京で建国を宣言したのち、徽州を次の攻略目標に定めた。軍事・経済的な理由だけでなく、儒教的価値観を建国理念として重んじた朱元璋の需要を満たす人材や教育システムを徽州に求めたためだと言われている。

学問と建築

徽州一帯にはこうした「学問の里」の名残をとどめる建築が今でも残っている。

建築「巽塔」の原型・「搏運塔と文昌閣」のある新葉村。行政区分では浙江省だが、地理的には徽州と近く文化を共有している。

新葉村は葉氏一族の村(ゲームに登場する徽州葉氏とは異なる)。宗族の村落では風水を重んじるが、この搏運塔も風水に基づき、科挙の良運を願って建てられたものである(文昌閣は学問の神・文昌帝君を祀る)。

また、徽州の景観を特徴づけるのが牌坊である。

牌坊は通常町や村の入り口か中心部に建てられる。単なる装飾のためでなく、功績のあった人物を表彰する「記念碑」として建てる場合もあり、徽州には後者の牌坊が多い。

儒教的価値観を重んじた明では特に「忠」「孝」「貞」など儒教的徳目の実践にすぐれた人物を顕彰する牌坊が建設され、それが徽州の儒教的風土と合致した結果である。

こうした牌坊は朝廷からの表彰と許可を得て建設するものであり、それを表す「恩栄」や「勅建」の文字が刻まれている。こうして建てられた牌坊は一族にとっての名誉であり、族内の結束を強めるシンボルにもなったのである。

「大理石の牌坊」の原型である棠樾村の牌坊がとくに有名。

文房四宝

徽州の名産品と言えば「文房四宝」。文房とは書斎のことで、文人が使用する四つの道具「筆、墨、紙、硯」を指す。文人たちはこれらを単なる消耗品としてでなく芸術品として愛し、ときには熱狂ゆえの醜聞も生じるほどだった。

現在の安徽省が文房四宝の聖地になったのは五代十国南唐(937~975)の支配の賜物であった。

現在の江蘇省安徽省一帯を支配した南唐は塩の販売で富を蓄え、帝室の李家も芸術を愛する気質であった。こうした背景のもと、南唐では国家事業として文房四宝の生産・ブランド化が進んだ。特に文芸の才に優れた「後主」李煜の治世に生産環境が整い、墨務官・硯務官等専門の官職や工房も設置された。

南宋代には徽州知府の謝壁によって「汪伯立の筆、澄心堂紙、李廷桂墨、歙硯」の四つが「新安四宝」に認定され、朝廷への献上品となった。以下、「四宝」の成り立ちを見ていきたい。

筆と「汪家」

ゲームの「汪筆」の由来は宋代の筆職人・汪伯立。彼の作る筆は名品と評判で、皇帝にも献上された。汪伯立は文房四宝を売る「四宝堂」の創始者としても知られる。
なお、倭寇として有名な王直(汪直)ももともと徽商で、事業に失敗して倭寇になった事情がある。水都百景録には王直をモデルにした「汪五峰」が登場するが、彼の実家はおそらく徽州の汪家と思われる。

墨と「奚家」

「李廷桂墨」の李廷桂はもともと奚姓で墨工の一族。もともと唐代の製墨の中心地易州に住んでいたが、唐末の動乱を逃れ父の奚超らとともに徽州に移住。

彼の作る墨は名墨の評判高く、後主は彼を墨務官として製墨にあたらせ重用した。李姓となったのも南唐の姓を賜ったため。李墨の評判の程は、黄金は得られても李家の墨は得られず、といわれたほど()。

安徽の墨は宋代に歙州が徽州府と改名したことから徽墨と呼ばれるようになり、名墨の代名詞となった。明代の墨は特に質が高かったようだ。ちなみに安徽は黄山松など製墨に適した松が豊富で、墨づくりにはよい環境であった。

※ゲームでも住民の入居台詞に採用されているので注目。

紙と「李家」

澄心堂紙の名は南唐の初代君主李昪(べん)が建てた書斎の名に由来する。単なる紙ではなく、文様を施したり染色するなどの手を加えた加工紙であったようだ。

こちらも後主李煜がさかんに作らせたもので、宋代には欧陽脩など文人たちがこれを尊び贈答品にもしたが、亡国の象徴として使用は憚られたそうだ。

ゲームの李家は、南唐の帝室の姓から来ているものと思われる。

硯と「葉家」

安徽の歙硯は広東の端渓、山西の澄泥硯などとともに中国四名硯に数えられる。唐の開元年間、歙州(のちの徽州)の猟師、葉氏が偶然見つけた石で硯を作ったところ県令や州牧の目に止まって評判になったのが起源だとか。

これまた南唐の後主・李煜が歙州の硯を「天下一」と評し、硯務官を置いて石の収集や硯の制作に当たらせることになったことから硯業が発展し、唐以来の名硯・端渓と肩を並べるブランドになったそうだ。

硯を愛する文人は多いが、中でも有名なのが北宋の蘇軾(蘇東坡)である。
中国画には「四愛図」という「文人たちの○○好き」をテーマにした画題がある。四人の組み合わせは色々あるが、その中に「東坡愛硯」というテーマも含まれるほど、硯と蘇軾の縁は深い。(他の組み合わせは「陶淵明と菊」、「王羲之と鵞鳥(または蘭)」「米芾と石」「周敦頤と蓮」など)

どれくらい好きかと言えば家宝と交換したり枕にして寝たり友人(米芾)から借りパクするくらいなのだが、そんな硯マニアの蘇軾も歙硯は賞賛しており、こんな逸話もある。

蘇軾が黄州(湖北省)に左遷された時、歙硯を求めに近くの徽州まで来たがいいものに出会えずがっかり。それを聞いた弟の蘇轍が歙硯を高値で買い取る布告を出し、すると杭州の蘇堤を築いた民工の一人が歙硯を献上したのだそうだ。人の和を感じる逸話である。

なおこの民工南唐時代に硯務官をつとめた一族の出身であったらしく、南唐の滅亡で零落したのだろうか、とかいろいろ考えてしまう。


このように、安徽の文房四宝は恵まれた地形や植生と、文雅を愛する南唐支配の賜物として生まれたものであった。

名勝案内

ゲームに登場する名勝についてご紹介。

八脚牌坊(許国石坊)


明代万暦年間・1584年の創建で、現在の歙県徽州古城にある。城門を入ってすぐのところにあり、ゲームの立地もこれを反映している。

雲南の反乱平定に功のあった高官・許国を讃えたもので、彼が武英殿大学士に封じられたことから「大学士坊」ともいう。ちなみに牌坊の文字は董其昌の手による。

ちなみに八脚牌坊は本来皇族にしか建設が認められず、許可なく建てれば当然大逆であった。これについてはこんな逸話がある。

許国は雲南平定の功により、万暦帝から牌坊建設の許可と、建設のため4カ月の休暇を認められた。しかし郷里では許の功績をたたえるには通常の四脚牌坊では不十分という意見が持ち上がり、許国は一計を案じることにした。彼はわざと休暇を8カ月に引き伸ばし朝廷に復帰。万暦帝は彼に皮肉を言った。「4か月の休暇のはずが8カ月とは。これでは八脚牌坊も造った方がよいのではないか?」これを聞いた許国はしてやったり、「お許しを頂き感謝いたします、実は八脚牌坊を建てたのです!」と答えた。意表を突かれた帝は言葉もなく、八脚牌坊は公認のものとなったという。

という話なんだけど…こ、これはちょっと危険な賭け過ぎないか?鷹揚そうな万暦帝だから何とかなった感があるぞ?豫園の三爪龍の話にもちょっと通じる気がするけど、大人しく折れずに機知を働かせる辺り、下の者も色々したたかだったのだな。

漁梁の堤(漁梁壩)


歙県、徽州古城の東に漁梁古鎮がある。新安江の水運の拠点として古くから栄えた村で、歴史は古く隋・唐時代に遡る。20世紀に杭州と屯渓(黄山の窓口)を結ぶ高速道路が開通するまでは、屯渓ではなくこの漁梁が地域の中心であったという。

漁梁とは漁具の「簗」のこと。村の形が魚に似ていることからこの名がついたという。漁梁の堤は唐代に起源をもつ河堰で、水流を調整することで船の安全かつスムーズな往来を可能にし、徽州の水運の要となった。最盛期には300隻もの船が停泊していたとか!

ゲームで再現されているように徽商のほとんどはこの魚梁の堤から行商に旅立ち、それゆえに「徽商の源」という別名でも呼ばれていたそうだ。

長慶寺


宋代に起源のある古刹で徽州古城の南、新安江の対岸にある。現在は塔しか残っていない。

最後に

徽州は商人を輩出して全国の流通を支えただけでなく、文房四宝は歴代の文人たちに愛され、その文筆活動を支えていた。経済面でも文化面でも、中国史上非常に重要な役割を果たしてきた地域といえよう。

参考文献

(1)岡本隆司編『中国経済史』2013 名古屋大学出版会
(2)中島楽章『徽州商人と明清中国』2009 山川出版社
(3)中砂明徳『江南 中国文雅の源流』2002 講談社選書メチエ
(4)宇野雪村『文房四宝』1980 平凡社カラー新書 - 124
(5)北畠雙耳『文房四宝入門』2006 里文出版
(6)旅名人編集室『黄山らくらく散歩』旅名人ブックス91 日経BP企画 2007
(7)大木康『明末のはぐれ知識人 馮夢龍と蘇州文化』 講談社選書メチエ 1995

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