壺中天

歴史、旅行、ごはん、ゲームなどアジアなことを色々つづります。

志怪小説、SNS、囚人9番

最近志怪小説を読むのが好きなのですが、中でもお気に入りの作品である紀昀『閲微草堂筆記』で心に残った文章があるのでまずは引用したいと思います。

「(前略)貴ぶべきものが自分の内部にそなわっていれば、外に現れたものは問題にならないからだ。
もし、外に現れたものによって軽重を定めなければいけないとすると、人が自分を尊敬するのを待って自分の名誉が得られ、人が自分を尊敬しなければ、自分は侮辱されたことになる。
それでは下男や下女までがすべて自分の栄辱を左右することになるわけで、あまりにも自己そのものを軽く見た考え方ではあるまいか」

紀昀・作 前野直彬・訳『中国古典文学大系 42 閲微草堂筆記』平凡社 1971

紀昀先生は清代に乾隆帝に気に入られ、『四庫全書』の編集長を務めた大物学者さん。各話に添えられたコメントに垣間見える人柄や考え方に結構共感できるところがあって、そういう意味で『閲微草堂筆記』は怪談本という以上に大好きな本なんですよね。

学者なのに怪談本書いちゃった恥ずかしー!みたいな葛藤も持ってたりして、そういう感情が本から読み取れるのも面白い。

……で、何でこれを取り上げたかというと、ひさびさにSNS病み期が来たからです。

ここ数日、気がふさいで眩暈もするし食欲もなかった。悪天候が続いていたのでそのせいもあったと思うけど、最近人に誘われて新しいSNSを初めて、それが結構心身に影響してると思う。

その方を責めているんじゃないです。自分の事情でしかないし、やってみて初めて気づいたことだし、そもそも向こうは自分がこんなクソザコメンタルであることは知らない

おめーずっとTwitterやってるだろって、確かにそうです。でも外部ツールでトレンド数字一切非表示、通知も20+のままにして見ない、RTも非表示にしてストレス源を徹底的に排除して、それが可能なPCからしか見ていません。だから失礼な話ですが、自分が書いたことに誰がどんなリアクションしているのかは全く知らない。そこまでして初めて使うことが出来ていた。

こんな過剰な防衛線敷いてまで何故やっているのかというと、同じジャンルの人が一番多い場所がそこで、自分が調べた情報や作ったものの需要と供給が一番一致する場所だからで、あくまで伝達の手段として使っていました。

同好の士を求めて、なんて使い方は割とすぐ辞めました。例えば同じゲームをプレイしていても楽しみ方、モチベーション、どこまでお金を出すか、等々それぞれのスタイルがあって、自分とそれが合わないものは圧力やノイズになってしまう。

実際、ある時点から周囲の投稿を見るのが負担になってしまっていた。それはもう、去年の初め頃からだったと思う。発信は熱心にしていたけど、あくまで背後にある歴史や文化に関することだし。後はキャラ萌え。

ちなみにこれは誰誰が悪いという個人攻撃ではなく、性格的に誰が相手でもどの界隈にいても同じことになると思う。だからもう割り切って、外界との接触は断っていた。お高く留まるわけではなく、ただ脆弱なメンタルを守るために。結果インプット・アウトプットに専念することが出来て快適に使えている。

ただ今回仲良くなった方が活動拠点を移したというので別のSNSに誘われてアカウントを作ったのだけど、数日やってかなりストレスを感じてしまった。それこそ軽い食欲不振や呼吸困難に見舞われるほどで、「リアクションや人間関係などの数字が可視されること」がこんなにも負荷になるのかと自分でも驚いている。これまで如何にツールで守られてきたのか、ということにも。

何故それが苦しいのか。作り上げたはずの自己を簡単に侵食されて、誰かの顔色を窺うようになってしまうから。自分に確固たる自信がある人は、こうはならないと思うんだけど、自分という人間はいつまでたっても劣等感の塊だから、自分の中で良かれと積み上げてきた価値観や考え方がすぐに揺さぶられてしまう。

実生活での人間関係でそういうことは感じない。なぜなら、意見の相違価値観の相違があっても、人間関係の構築期間が先にあって、関係性が出来ていれば許容範囲も広くなるし、対面であればお互い気も使うからから、それを不快に感じたことはあまりない。対してネット上ではそういうワンクッションがなくよく知らない相手の異なる価値観異なる思想、一方的な評価にダイレクトに触れなければならない。

好評価であれ悪評価であれ、それが可視化されるのは自分にとっては非常に辛い。リアクションが多くても少なくても、人の顔色を窺ってしまう(特にどうでもいい投稿がやたら評価されたり、その逆が起こると自分の方が信じられなくなる)。

「自分が欲すること」ではなくて「誰かが欲すること」ばかり考えるようになって、誰かの主観をそのまま自己評価にしてしまう。それこそ、冒頭で引用した紀昀先生の言葉のように。

媒体によって感じ方は違ってブログだと全然気にならないんですけどね。スター頂くと素直にありがとうございますって思えるのに。なんでだろう…。

こういうメンタリティでいければいいんだけど、そうはなれない性格みたいです。

常に他者の意見・価値観・評価に晒され続け、数字で序列化されるSNSなんてツールがよくも日常の一部レベルで普及していると思う。もちろん平気な人、楽しめる人はいいんだけど、私はやっぱり無理そうです。

Twitterも、今使ってるおだやかTwitterが使えなくなったら耐えられなくなって離れると思う。今でさえ、以前は表示されなかったお勧めユーザーが貫通して表示されるようになってキツイのに。

今回初めたものについては、初心に返れば自分が誘いに乗ったのは縁をつなぐこと自体が目的なので、むしろ自分では何も発信せず相手の投稿だけ見るようにすればいいのかな、とは思う。または鍵アカウントさえ作れるようになれば…

でも今はアクセスしようとするだけで息が苦しくなるので、しばらく触れないようにしようと思います。お世話になった方々本当にすみません。

仕事も結構大変なので、つぶれてしまわないようメンタルに優しい対応を心掛けたい。自分の世界、自分の価値観を守って静かに生きていこうと思う。