壺中天

歴史、旅行、ごはん、ゲームなどアジアなことを色々つづります。

【水都百景録】建築事典(作成中)

Twitter#水都建築豆知識タグで発信している建築の元ネタや解説を再録&ブログ用に加筆、元絵があるものはそれも載せてみました。建築には持っているものとそうでないものがあるので、画像はあったりなかったりです。今は雅集で未所持建築の画像が取得できるようになったのでありがたいです。

とりあえずあいうえお順。数が増えてきたら、行ごとに記事を分割すると思います。たいそうな記事名にしちゃいましたが将来的には建築ペディアにしたいのです。随時追記していきますね!

 

あ行

 

イムリーな「彩りの花朝」についてでも。
こちらは旧暦二月十二日の花朝節にちなんだ建築で、この頃は花が咲き始める時期であることから花神の誕生日と考えられた。
建築にも見えるように、この日は外に出て花を愛でたり、女性たちが花樹を飾りつけたりする風習がある。

 

【雲中閣 うんちゅうかく】

モデルは山東省の先端・煙台市の蓬莱閣。もともとここには寺院があったが、宋代に観光地化を目的に楼閣が建てられ整備された。明代には隣接して倭寇を防ぐ蓬莱水城が建設され、対倭寇戦の名将・戚継光(日本版未実装)が駐屯し活躍した。

なお蓬莱は蜃気楼の名所であり、蓬莱山を中心とする三神山の伝説もこの蜃気楼から生まれたものだと考えられている。


【関連住民】
蘇軾山東赴任時に幾つか詩文を寄せ、蓬莱閣をメジャーにした。蓬莱閣には彼を祀る祠堂もある。

袁可立・董其昌:袁可立は登莱巡撫(蓬莱エリアの県知事)として山東赴任中に蜃気楼を目撃し、その体験を「観海市」という詩に詠んだ(海市は蜃気楼のこと)。蓬莱閣には「観海市」を董が書写し、袁が題(前書き)を寄せたものを刻んだ石碑がある。

か行

【魁星祠 かいせいし】

魁星は文章の神で、北斗七星の「柄杓の器」を形作る4星を神格化したもの。科挙受験生に篤く信仰された。魁星は鬼のような姿をし、手には筆、右足で鰲(大亀)を踏み、左足で北斗七星(または斗(ます))を蹴り上げる。これは魁の文字と、大亀は科挙の首席合格を「鰲斗」ということから。

ちなみに魁星信仰は日本にも伝わり、葛飾北斎などが描いている。

 

【帰雁閣 きがんかく】

 モデルは多分武漢黄鶴楼。創建は三国時代。現在の姿とは異なるが、黄鶴楼は何度も建て直されて形が変わっており、作中の建物は宋代の形がモデルと思われる(楼内の模型より)  。


【関連住民】  
李白、蘇軾 黄鶴楼に登り、いくつか詩を残した。 
羅貫中 ちょい強引。周瑜孔明暗殺計画、費禕の昇天等、三国志関連の逸話あり

 

【鬼門 きもん】

冥界に通じる出入り口。『山海経』によれば度朔山という場所に巨大な桃の木があり、北東の枝間に鬼門がある。神荼・鬱塁という二神が守り、これが正月に戸口に貼る魔除けの門神の起源。

鬼門の前にいる獣の像は、唐代の鎮墓獣に似ているのでそれかもしれない。(背中の棘のような毛並みとか)
ちなみに鍾馗の図は単独で飾られることが多く、二人組の門神として描かれる唐の人物としては尉遅敬徳・秦叔宝が有名。魏徴を門神とする例は管見の限りは知らない。


【関連住民】
魏徴、鍾馗 …門神コンビ。
包拯…冥界で裁判官を務めた伝説がある。

 

【固興の鼎 ここうのかなえ】鼎は本来煮焚きの器。祭器(彝器)であるため特別視されるように。特に夏の禹王が作ったとされる「九鼎」は王権の象徴として殷、周と受け継がれた。楚王が周王に九鼎の重さを尋ねた「鼎の軽重を問う」の逸話が有名。

補足すると、古代には中国は九州に分かれていると考えられていた。九鼎が九つあるのはその一つ一つの象徴。だから九鼎を所有=天下を所有ということ。
鼎はやはり特別視されることが多く、足の数である3は神聖な数と考えられていた。例えば丹薬の錬成にも鼎を使用し、建築「丹薬炉(レベル1~4)」をよく見ると鼎が置いてある。


【関連住民】
嬴政 説明に九鼎への言及あり。

 

さ行

【釈迦塔 しゃかとう】

モデルは山西省・仏宮寺の釈迦塔。現存する世界最古・最大の木塔で、創建は遼代。


【関連住民】
朱棣
1423年、モンゴルとの戦いの帰途この地に立ち寄り、塔(と自身の戦功)をたたえて「峻極神工」と揮毫。額は塔の5階に現存する。

 

【城隍廟 じょうこうびょう】

城隍神をまつった寺院。城隍神は都市を管轄する神。中国の神界は現世同様に官僚機構が整備され、城隍神は知府に当たる役職。ゆえに司法もつかさどり、ゲームのイベントで登場した黒無常・白無常はその部下(捕吏)ともされる。ちなみに都市の外は土地神が管轄
これは上海の豫園城隍廟をイメージしたものと思われる。創建は明の永楽年間、庶民に非常に人気のあった寺院で、その敷地は最大で3万3千㎡にも達したという!ゲーム中で豫園一帯の区域を「城隍涇」というように、豫園エリアはそもそも城隍廟を中心に発展してきた区域。

ちなみに豫園は明初の官僚・潘允端が建てた庭園だが、潘家の衰退により庭園の維持が難しくなり、清代には城隍廟の付属庭園になった。

 

【照壁 しょうへき】「影壁」とも。戸口の正面に設置する。役割は、一つは目隠し。二つ目は魔除け。悪霊はまっすぐにしか進めず角が曲がれないという考え方がある。北京の九龍壁など、屋外に置く場合は権威の象徴としての意味もある。
沖縄にはこの風習が伝わった「ひんぷん」がある。

 

【先祖祀りの槐 せんぞまつりのえんじゅ】

洪武帝の移民政策で山西から移住させられる人々がここに集められ出発した(戦乱で荒れた土地を復興させるため)。彼等の子孫は本当の故郷を知らず、この木を故郷と認識していたそうだ。洪武・永楽年間で18回、計百万人が故郷を追われた。

祖先祭祀の聖地というのも事実。ゲームの槐の木に結ばれた赤と黄の紐は実際にあって、祖先と子孫が共にあることを意味しているのだそうだ。 

 

【銭湯 せんとう】

中国で共同浴場が生まれたのは仏教伝来後(インドの気候に由来する風習)で、主に寺院で利用された。宋代になると市井に銭湯が出現し、仕事を終えた労働者などが利用した。あかすりや散髪などのサービスも受けられたそうだ。
『東方見聞録』によれば杭州には三千もの銭湯があったらしい!?

中国の風呂は蒸し風呂ではなく湯船に入るスタイルで、明代の記録によると、江南の風呂は石を組んで作った湯船とドーム状の煉瓦屋根を持っていたそうだ。
清代に蘇州を描いた「姑蘇繁華図」にはそうした銭湯の様子が描かれている。香水浴堂とあるが、香水とは「閼伽」のことで、共同浴場が仏教由来であることの名残。

念のため補足しておくと、長恨歌で有名な華清池の例を挙げるまでもなく入浴という文化自体は中国に古くからあり、前漢に成立した『礼記』にはすでに浴室への言及がある。上流階級は私的な浴室を持っていたが、それが大衆化したのが宋代以降ということ。

 

【巽塔 そんとう】

モデルは浙江省新葉村にある「文昌閣」と「摶運塔(はくうんとう)」。
浙江省安徽省には氏族集団「宗族」が集団で暮らす村があるが、彼らは一族の繁栄のため科挙受験や学問に熱心であった。新葉村もそのような村の一つで、村に住む葉氏一族は科挙で良い成果が出るように祈った。

そこで彼らは風水に基づき巽=東南の方角に塔を建て、運気を補ったという(風水を重んじるのも宗族の特徴。宗族をモデルにした徽商のプロフィールにもこれが反映されている)。「巽塔」の名はそこから。ちなみにこの建物の本体は塔の方で、寺院の方は後からできた付属施設。文昌とは学問の神「文昌帝君」であり、こちらも学問絡み。

 

た行

【大禹治水像 だいうちすいぞう】

禹は夏王朝の始祖とされる王で、堯・舜とともに古代の理想的な帝王とされる。中国全土の治水に活躍し、彼に関する伝承や彼を祀る寺院は中国各地にある。
その神話から道教では「水官大帝」という神になり、その誕生日が像が配布された下元節

 

【同郷会館 どうきょうかいかん】

同じ地域の出身者が、相互扶助のため都市に作る施設。「同郷会館」といった場合は同郷人のための施設だが、同業者のための会館(西洋のギルドホールのようなもの)も存在。

ゲームの同郷会館には舞台が見えるが、実際会館では団結力を強めるため舞台や寺院が置かれた。
海外進出する際にも会館が建てられ、華僑の多い東南アジアの港町や、日本でも横浜等に会館がある。こういうものがあるおかげで、身一つで新天地にやって来ても、会館に駆け込めば野垂れ死ぬことはない。中国人の強みは相互扶助ネットワーク・共同体づくりの巧みさ。逆に言えば、どこに行っても仲間内で固まってしまうということでもある。その所産が世界各地のチャイナタウン。

 

【滕天楼 とうてんろう】

モデルは江西省滕王閣。唐初、太祖李淵の子・滕王李元嬰によって建てられた中国四大名楼のひとつ。唐初の王勃など多くの詩人が詩に詠んだ名楼。

【関連住民】
朱元璋:江西を拠点にしていたらライバル・陳友諒を破った戦勝記念の宴を催す。
蘇軾:彼の揮毫した額がある。
湯顕祖、麗娘:湯は江西出身。ここで「牡丹亭」を上演した。
白居易:「鍾陵餞送」で滕王閣で開催された自身の送別の宴を詠む。歌舞の地ともされていたそうなので小蛮にもぴったり。
 ・馮夢龍:著作『警世通言』に滕王閣が舞台となる物語を収録 
董其昌:詩文を寄せる

な行

 

は行

芭蕉の木 ばしょうのき】

芭蕉に当たる雨は白居易「夜雨」や杜牧「雨」などに詠まれる定番の組み合わせで、葉に落ちる雨音は旅の寂しさを深めるものと思われていたらしい。テキストは単にうるさくないように、というだけでなく旅人の孤独をやわらげてあげたい店主の優しさなのです。

 

【八仙灯 はっせんとう】

春節の締めくくりの祭り、元宵節に飾られる大型の灯籠。「鰲山」とあるが、鰲とは蓬莱山など三神山を背負う伝説上の巨大な亀のこと。このような巨大な灯籠は鰲山灯と称された。八仙は道教の伝説でお馴染み、呂洞賓を筆頭とする八人の仙人。吉祥画によく描かれる七福神のような存在。

よく見ると8人以上いるし僧侶や仏らしき人形もあり、下段左端に鍾離権(八仙メンバー)っぽいのがいるくらいで意外と八仙らしき人物が見当たらなかったりする。鍾離権の隣は杖っぽいの持ってるけど李鉄拐じゃなさそうだしなぁ。若いから笛を持った韓湘子?


【関連住民】
仇英 八仙灯の元絵「南都繁会図」の作者。

元絵はこちら。隣は朝元宝閣ですね。

 

【飛雲楼 ひうんろう】

山西省運城市の飛雲楼。中国を代表する木造建築で、釈迦塔と並び「南楼北塔」と称される。唐の李世民の創建といわれ、今の建物は明中期に建てられたもの。「外は三層、中は五層」という説明も実際に基づく。

 

【望海楼】

モデルは多分南京(応天府)の閲江楼。閲江・望海でもじりになってる気がする。朱元璋が建造を命じるが、諸事情により頓挫。完成したのはなんと2001年!


【関連住民】
朱元璋 ちなみに閲江楼のある獅子山は朱元璋がライバル陳友諒を破った場所。

 

【鳳台 ほうだい】

応天府に鳳台里とあるが、その辺りには鳳凰の飛来(南朝・宋代の出来事)を記念する鳳台があり、その山は鳳台山と呼ばれていた。
李白が建康を訪れた際、南朝の栄枯盛衰を鳳台に託しつつ唐の現状を憂う詩を詠んでいる(鳳凰は有徳の天子の御世に現れるとされていた)。

【関連住民】
李白 鳳凰台の詩を詠んだ。

 

【泖塔 ぼうとう】

現在は上海市西部・青浦区の、泖河中の小島に建つ。唐代に仏塔として建てられ、周囲には寺院も造られたが今は塔しか残っていない。 当初は泖河の河口に位置し、説明文にあるように航海の目印となり、夜は灯をともして船を導いたというが海岸線の変化により役目を終えた。

泖塔の現在の位置はこちら(赤丸)。唐代にはここが海岸線で、宋代には灯台としての役目を終え、明代には今の上海中心地に当たるエリアに県城が置かれているので、この辺りの陸地化がどんどん進んでいったことが分かる。地理的に考えると色々面白い建築。

…ん?待て待て、上海の龍華寺は孫権が建てた寺だから、上海中心部の陸地化はもっと早くて、南部がせり出していったってことなのかな?歴史地図でちゃんと確認したいなぁ。

 

【関連住民】

董其昌 

彼の揮毫した額がある。他にも徽宗朱熹など大物が額を寄せている。

徐霞客 

泖塔を訪れ、「層波に輝映するも亦た沢国の一勝なり」と賞賛した。(『徐霞客遊記』より。重なる波に輝き映えるその姿もまた、水郷の一つの名勝だ…というような意味だと思う)

ま行

【孟母の旧宅 もうぼのきゅうたく】

教育ママエピソード「孟母断機」「孟母三遷」で有名な、儒学の思想家・孟子の母の家(というか孟子の家?)。織り機と切れた布があるのは作りかけの織物を途中で切って、息子が学問を途中で投げ出すのを諫めた孟母断機の逸話より。


【関連住民】
宋仁孔子) しいていうならって感じ。

や行

 

ら行

 

わ行