前回:中国シルクロード3 熱湯砂丘クライマー
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敦煌周辺の見どころたち
シルクロードの要衝たる敦煌は歴史文化遺産の宝庫で、市街地に近い莫高窟・鳴沙山のほかにも玉門関、陽関、楡林窟など郊外にたくさんの遺跡が点在する。
ただし、これらの見どころは公共交通機関でのアクセスが出来ず、現地ツアーやチャーター車を利用する必要がある。
なので今回は、中国の現地ツアーを扱っている旅行代理店を通じて事前に日本語ガイド付きツアーを申し込んでいた。
なお参加者は自分ひとり。定員割れではなく、初めから1人用にアレンジしていただいた。ツアー料金は車のチャーター代・ガイド代含めた定額で、それを参加人数で割った額が一人当たりのツアー料、ということになる。
だから当然高額(4万円くらい)になったが、お金を払っても自分のペースで旅がしたい性格だから仕方がない。
頭数が揃っている場合や見知らぬ人と参加しても気にしないよという人には、敦煌市内には旅行代理店もたくさんある(日本語可のところも含む)しホテルで手配を受け付けている所もあるので、そこでニーズに合うツアーを探してみるのもいいと思います。
それはさておき、
本日の見学地は①ヤルダン地質公園、②玉門関、③漢代長城、④河倉城、⑤陽関の5つ。
沙漠道中
待ち合わせ時間の7:30に合わせてチェックアウトを済ませ、ロビーでガイドさんと合流した。ガイドの孔さんは女性のベテランガイドさんで、「頼れるお母さん」といった雰囲気。
もちろん日本語も堪能。異国は楽しいけど、なんだかんだ気を張っているので日本語で会話できるのは気楽だ。今回は孔さんのほかドライバーの周さん(寡黙な仕事人)、そして研修生の龐さん(チベット族の若い女性、日本語は話せない)の4人で回ることになっていた。
外に出て、車に乗り込む。今日は市内中心にある別のホテルを予約していて、帰りはそこで下ろしてしてもらうので敦煌山荘とは残念ながらここでお別れ。ここはまた来たいなぁ。
車は市街地を出、左手に鳴沙山を望みつつ西へ走る。豊潤なオアシス都市である敦煌を一歩出ると、そこは一面不毛の荒野だ。
孔さんが河西四郡(敦煌、酒泉、張掖、武威)のあらましについて教えてくれた。敦煌の別名は「沙州(※1)」といい、鳴沙山があるからというだけでなく、広大な市内(九州より少し小さいくらい!※2)のほとんどが砂漠のためこの名がついたのだそうだ。
さらに敦煌は祁連山脈と北山山脈にはさまれた盆地なので、特に降水量が少ないとのこと。確かに張掖は飛行機の上から見ても広大な緑地だったけど、敦煌は郊外に出ればすぐ沙漠だもんな。
※1)張掖は甘州、酒泉は粛州、武威は涼州。 |
※2)莫高窟で買ったガイドブックによれば、市内の面積は約3.1万㎢(九州は3.6万㎢)。そのうち緑地面積は4.5%しかないのだとか! |
鳴沙山が途切れたあたりで、党河水庫(ダム)が見えた。貴重な灌漑用水である党河=祁連山脈の雪解け水をこのダムに溜めている。その傍には涅槃仏のような山があり、ちょうどそこだけ朝日が当たって荘厳に光っていた。
この辺りまで来ると、車の左右には砂色の地平線が広がっているだけ。一切の生を拒絶するかのように、無味乾燥で苛烈な光景。シルクロードの旅人や商人たちは、よくもこんなところを行き来しようと思ったものだと思う。
それでも時折、水と緑を見かける。野生動物の保護区もあり、運よく馬の姿が見られた。朝は車が少ないし、水を飲みに移動するからたまに見ることができるらしい。
一度玉門関で停まってチケットを買い、その先にあるヤルダン地質公園まで向かう。孔さんいわく、暑くなりすぎないうちに行った方がいいから、ということだった。
ヤルダン地質公園
敦煌郊外ツアーを組むにあたって、どうしても行きたかったのがヤルダン地質公園。
場所は敦煌の北西約180km(東京~長野くらい)で、郊外の見どころの中では一番遠く、ここを含めるか否かでツアー代が変わってくる。その差額を払ってまでも行きたかった場所だった。
ヤルダンというのは地名ではなく地形の名前で、テュルク語の「yar=崖」という言葉に由来するそうだ。テュルク=トルコ系民族が活躍した中央アジアにみられるほか、ユーラシア以外でも広く内陸の砂漠で見ることができる。
黒ゴビを抜けて
ちなみに敦煌周辺の砂漠はゴビ砂漠。鳴沙山と違って石っぽい「沙漠」で、「白ゴビ」と「黒ゴビ」に分かれている。
敦煌のヤルダンは「黒ゴビ」=鉄分を含んだ黒い砂地の海に、砂色の奇岩が島のように立ち並ぶ景観が特徴。
そして敦煌のヤルダンには「魔鬼城(悪魔城)」という恐ろしい別名もある。3~4月の風の強い時期、ヤルダンを吹き抜ける風が恐ろしい音を立てるので、鬼の住み家と考えられていたのだそうだ。
さらに孔さん曰く、ヤルダンは彷徨える湖・ロプノールの名残である湿地とつながっている。ここに足を踏み入れたら帰るのは難しく、実際に中国の研究者が行方不明になったこともあるらしい。恐ろしい話だけど、気楽な観光客は神秘を感じてしまう…。
玉門関を過ぎてしばらくすると、地面が黒っぽくなってきた。噂の黒ゴビだ。
この辺りからは北山山脈も見え、地面と同じように黒っぽい色をしている。砂鉄や鉄、銅などを含んでいるためこのような姿をしているそうだ。どっしりとした黒い北の山――なんとなく、玄武を連想した。
ヤルダンに近づくにつれて、目につく砂岩の数が増えてくる。砂岩が多いのは、大昔にこの辺が海底だったため。まず海が干上がって、さらに風雨の浸食を受け、長い長い時間をかけて形成されたそうだ。たしか丹霞も砂岩だったな。ヒマラヤ山脈の隆起の影響を受けているのだろうか。
ヤルダン・バスツアー
そんなこんなしているうちに、入り口に到着。まずはチケットセンターで入場券を買っていただく。
丹霞と同じように、ヤルダン地質公園も公園内の見学ポイントをシャトルバスで回る形になっている。ただし丹霞と違うのは、認められているのはツアー見学のみで、自由にバスを乗り降りするのはできないこと。
地形を保護するのは勿論のこと、この辺りは電波の状況もあまりよくないというから、来客を守るためのルールでもあるんだろう。
今回は9:30発のバスに合わせての到着で、ガイドは中に入れないため研修生の龐さんと2人で出発した。この時は4箇所の見どころを回るコースで、ナインナップは以下の通り。
①金獅迎賓 | ②スフィンクス |
③孔雀玉立 | ④艦隊出海 |
ヤルダンは砂岩が風に侵食されることで出来た地形で、天然の彫刻の宝庫だ。さらにそこに中国のお家芸である見立て文化が結びつき、ヤルダン地質公園の見どころも例によって「○○に似た奇岩」が中心。
ただし各ポイントでの見学時間は決まっているのと、地形保護のため行動範囲はかなり限られている。なので、あまりじっくり見ることはできないのが残念。
①②は見たまんまで、あまり印象に残っていない。見学時間も10分くらいで短かったと思う。でも、こういう何でもない岩山がなかなかの萌えポイントだった(これは①)。
③孔雀玉立
孔雀周辺は広くて、売店やトイレ、ヘリコプターの発着所もある。ここは比較的歩けるエリアも広く、見学時間も40分くらいとってもらえた。
孔雀岩は素直に面白いと思った。なぜ同じ岩の上下でこんなに浸食の度合いが違うのかとか。台座部分の形も見事だと思う。
見学時間もたっぷりあるし、岩山もわりと近くで見られるので良き思い出が多い。こういう綺麗な横じまに削れているのは、丹霞の岩山と似ているかもしれない。
歩き回って喉が渇いたので売店で水を買ったんだけど、中国旅行者の友とも言える、赤いラベルのミネラルウォーター「農夫山泉」が10元もするではないか!(普通は2~3元)いい商売だなと思ったけど、僻地にあるから色々経費込みのお値段なんだろう。
④艦隊出海
細長い岩の群れが、黒い砂の海をかき分ける艦隊のように見える…ということで有名なスポット。岩山の密集具合は随一で見ごたえがある。
ちなみに実際のスケール感はこんな感じ。岩山までは距離もあるし、高さもあまりないのでクローズアップした写真で見た方が迫力があるかもしれない。
ここが最後の見学地。来た道を引き返し、11:00頃にはツアーが終わった。
宿命的奇岩癖
ヤルダンの感想。
あれだけ楽しみにしていた割には、正直物足りなかった。諸事情で仕方がないとはいえ、自由に見られないのはやはり残念。(丹霞の後だから相対的に残念に感じるのはあると思う)。あと、言っちゃうとオモシロ岩より景色の方が見たかった。
風雨の浸食作用の妙を楽しむという意味では奇岩も面白くはあるんだけど、ツアーの合間にすっ飛ばされてしまった映画「HERO」のロケ地(↓車窓見学)のような風景をもっと下車して見たかった。
ただこれはもう中国の宿命的なものであって、敬愛する中国学者の武田雅哉先生曰く、「中国の自然景観は命名されることで初めて価値を見出される」(武田雅哉『桃源郷の機械学』学研M文庫)ということなので仕方がない(※)。見せてもらっている以上、その美意識に従うほかない。
文化論的に見れば面白いんだけど、いち旅行者の好みとしてはただの岩山が見たかった。
その他、思ったより狭かった…という感想もあったけど、ヤルダンも丹霞同様2000年代オープンの新しい観光地。2018年当時はまだ半分しか開放されておらず、丁度2019年から南半分が開放されるらしい。今はどうなっているんだろう。
※)つまり人間中心の世界観ということだけど、だからこそ、例えば気象や天文を観測しても「天人感応説」=人間社会の反映という解釈にとどまり科学が発展しなかったという見方もある。それは神のデザイン=法則の存在を信じて科学を発展させた西洋世界とはちょうど対照的で面白いと思っている。 |
惜しかったロバ肉
見学が終わったらそのまま現地で昼食だった。朝から何も食べていなかったので有難い。地質公園の敷地内には食堂もいくつかあり、今回は麺のお店に入った。
ロバ肉料理(敦煌名物)の看板があったので、まさかと思ったら出てきたのは牛肉麺だった。ロバ肉を食べるなら市内のちゃんとしたお店で食べたほうがいいからということだった。(さりげなくdisっている)
ロバ肉怖がっていたけど、80Cさんの記事とか見ると普通においしそう。「天上の龍肉・地上のロバ肉」ってそこまで言う!?むしろ、ここで食べておけばよかったなぁ。
80c.jp
ドライバーさんも交えつつ4人でご飯を食べた。何を話したかは残念ながら記憶にない。覚えているのは、食後に孔さんの持ってきた梨とリンゴ(自家製)をいただいたこと。敦煌のオアシスでは梨やリンゴのほか例の李広杏、ブドウ、スイカ、ハミウリなど果物がたくさん採れる。普段果物はあまり食べない方だけど、乾燥した敦煌で、それも炎天下を歩いた後に食べるとひときわ美味しく感じた。
時刻は正午、日差しがかなり強くなっていた。気温は37度だけど、照り返しなどで体感的には40度くらいあるそうだ。吸血鬼のように日陰に身を隠しつつ、車に戻ったら車内もまた焦熱地獄だった。
はじめての蜃気楼
ヤルダンの観光を終え、来た道を引き返す。次の目的地は行きに通り過ぎた玉門関だ。
道中、初めての蜃気楼を目撃した。まずは道路の先に「逃げ水」。前方の道路が濡れたように白く光って見える現象。もちろん、近づくと普通の道路。
こっちがいわゆる蜃気楼。
漫画とかでよく「オアシスだと思ったら消えてしまった」的な場面があるけど、実際見るとなんとなく不自然だから、間違えるか~??というのが第一印象。冷房の効いた車の中で、蜃気楼だと思って見ているせいかもしれないけど。
これは後日エジプトで見た蜃気楼。より水辺度が高い奴だけど、どうだろう…。これくらいになると騙されるかも。
なんにせよ、初めての蜃気楼ですっかりテンションが上がってしまった。
春光渡らず玉門関
次の見学地である玉門関は西域(中央アジア)と中国の境界となる関門で、前漢・武帝時代の創建(前100年頃)。
玉門という名前は、玉の産地として名高いオアシス国家・ホータン(于闐・和田※)の玉がこの関所を通って運ばれたためについたそうだ。
※)現在は新疆ウイグル自治区内にある。ホータン国と敦煌は意外と縁が深く、次回の莫高窟回でも登場する予定。 |
関所の北には疏勒河が流れており、川沿いに築かれた烽火台や長城などの軍事施設の遺構も残る。今回は①玉門関、②河倉城、③漢長城の3か所を回る。
3箇所は入場券もセットになっており、玉門関の窓口であるツーリストセンターで購入する(行きに立ち寄った所、トイレもある)。しかしそれぞれ距離があるので徒歩で回るには向かず、これまではチャーター車で行くのが普通だったのだが。
ちょうど翌日2018年8月12日から、シャトルバスが運行するらしい(代わりに入場料が10元UP)。しかし、玉門関まではどうせ公共交通機関じゃ来れないんだし、ここに来た時点でツアーなりタクシーチャーターなりで来ていると思うんだけど、お得になったのか?よくわからない。
1.河倉城
遊牧世界との前線でもあった玉門関の付近には軍事施設も作られた。その1つがこの河倉城で、「疏勒河畔に作られた食糧庫」なのでシンプルにそう呼ばれているが、現地にあった説明板によると正式名称は「昌安倉」というらしい。
川の近くに建てられたのは水の確保のほか、「水源を守ることで土地も守られる」という考え方があったそうだ。
元々玉門関とセットで作られた施設で、「小方盤城」=玉門関に対して「大方盤城」と呼ばれることもある。場所は15kmほど離れているが、これは物資の在り処を知られないためだという。戦略的な要地なので、近くには烽火台もあった。
現在は外壁の遺構だけ残っている。穴が開いているのは崩落したのではなく空気穴なんだそうだ。確かによく見ると、穴の高さは一定だ。
河倉城の内部に入ることは出来ず、見学は南側(手前側)からのみ。左に写ってるのが確か烽火台。
2.玉門関
お次はメインの玉門関を見学。中国と西域を結ぶオアシスの道(俗にいうシルクロード)には三つのルート(天山北路・天山南路・西域南道)があり、玉門関はそのうち「天山北路」の出入り口だった。
実は玉門関は時代によって場所が異なり、今回見るのは漢の玉門関。例えば張騫はここを通って西域に旅立っていった。一方、玄奘三蔵が通った唐の玉門関は今の楡林窟の方にあるそうな。
玉門関の役割は様々だ。出入国の管理、国境防衛、これらを通じたシルクロードの安全保障等々。いずれも中華王朝の威信にも関わる内容だから責任重大だったろうなぁ。
こうした業務を司っていたのが、玉門関に本部を構える「玉門都尉府」という役所(今の遺跡は、この都尉府と書かれた竹簡が出土したことで漢の玉門関と確定されたのだそう)。都尉は軍事官のことなので、ごりごりの軍事施設のようだ。
後で出てくる陽関博物館にあった組織図を写したもの(一部簡略化)。
候官の候は軍候とか斥候の候なので軍事官なんだろうけどあまり具体的な違いは分からない。こう見ると玉門関にとっての河倉城の重要性も見えてくるしなかなか面白い。
司馬の配下にいる千人とか五百っていうのはたぶんキングダムに出てくる千人将とか五百人将みたいなやつだろうな。組織図を見る限り候官は施設に属する守備兵で、司馬の軍隊はどうとでも動かせる常備軍っていうことなのかな。
旧時は防壁や衙門が立ち並んでいたのだろうけど、いまはわずかに正方形の門の遺構が残っているだけ。
内部の通路はL字型になっていて、入国する人と出国する人で出入り口が異なっていたそうだ。
玉門関跡の近くには展望台があるが、ここからの景色はとても素晴らしい。川に近いためなのか、この辺りには緑豊かな草原が広がっている。水場もたくさんあり、草を食べに来た馬の姿も見えた。
しかし、水のあるなしで露骨に景色が違うんだもんなぁ。理屈でいえば当然だけど、実際目にするとびっくりする。
車に戻ると、冷えた杏皮水をいただいた。次の漢長城までは車ですぐだ。
3.漢の長城
10分もしないうちに、溝の刻まれた土壁が見えてきた。途切れ途切れではあるが、かなり広範囲にわたって築かれているのがわかる。
いわゆる「万里の長城」は東端の山海関から西端の嘉峪関まで、約6000kmにわたって築かれている。戦国の諸侯や始皇帝が建てた長城は、領土が西に拡大した前漢の武帝以降西域まで延長され、玉門関付近にはこの「漢代の長城」が残っている。
漢の長城付近には小さな資料館があり、そこの説明と孔さんの説明を引用しながら語ると…漢の長城は紀元前100年頃に修築され、西はロプノール(ヤルダンの辺り)から玉門関、河倉城、疏勒河南岸まで全長160kmに渡っている。
その間に烽火台は85個あるというから約2km間隔、堅固な防衛線が敷かれていたようだ(↑左の丸っこいのが烽火台)。
敦煌周辺では石材や木材が手に入りにくいので、建物は土と葦の層を交互に組み合わせて突き固める「版築」という技法で築かれており、崩れた部分を見ると今でも葦の繊維が残っている。
長城の高さはわずか3mほど。煉瓦造りでいかにも堅牢な明の長城と比べると、こんなので効果あるの?と思うけど、騎馬民族対策なので馬が超えられない高さがあれば充分なのだそう。しかも長城の向こうには川があるので、匈奴が侵入するのは難しかったみたい。
ちなみにこれが版築につかわれる葦(だったと思う)。建材にもなれば、烽火の燃料にもなるありがたいヤツ。水場のあるところではあちこちに生えていた。
2千年前の漢代のものがそのまま残っているんだと思うと感慨もひとしお。しかし冷静に考えれば、北京からこんなところまで防壁がつながってるんだから、長城のスケールってやっぱり出鱈目だ。今度は嘉峪関も行きたいなぁー。
陽関出づれば
玉門関3点セットの見学ののち、最後の見学地である陽関に移動する。
敦煌の西に延びる道は、途中で玉門関方面・陽関方面の二手に別れる。これまでの見どころは全て北の玉門関ルート上にあったが、陽関だけはルートが異なるため、ここが最後の見学地となった。
陽関と玉門関は創建年代(前100年頃、漢の武帝代)も役割(辺境の軍事拠点)も同じ、双子のような存在だ。陰陽五行説で南は陽の方角。南にあるため陽関という。
楽しい陽関博物館
陽関付近に近づくと景色は一転、緑深いオアシスになった。ブドウ畑が多く、果物売りの姿も増える。ホテルやレストランなどの施設も多くにぎやかな雰囲気で、まるで砂漠を旅してオアシスの隊商宿に来たような感覚。
衛星写真で見ても、玉門関ルートとは全然環境が違うのが分かる。
それだけでなく、陽関と玉門関は遺跡の雰囲気もかなり違う。荒野に佇む玉門関の、いかにも遺跡らしい在り様に対して陽関はテーマパーク的で、博物館があったり関所や都尉府も再現されている。
では何故そうなっているかと言えば、河倉城・玉門関・長城と漢代の遺跡が揃ってる北ルートに対して、陽関の場合、漢代の遺跡は烽火台しか残っていないので外部施設を作って盛り上げているんだろう。違ったワクワク感があって私はどっちも好きだった。
陽関跡地は遺跡エリア(烽火台のある高台)と博物館エリア(出土品展示・関所と役所=都尉府の再現)の二部構成。
博物館エリアの敷地は城壁で囲まれている。ここは攻城兵器のレプリカがひそやかな見所。雲梯に巣車(偵察用のエレベーターみたいなやつ)、刀車等々、本で見たあれやこれやがもれなく再現されている!!
(テキストは篠田耕一『武器と防具 中国編』新紀元社 より)
何故これらがここにあるのかは謎。匈奴なら馬で越せない長城で止まるし、かといって騎兵のアドバンテージを捨ててまで攻城戦をやるとも思えないので、単に漢代つながりの博物館的展示なのか。面白いけどね!
城門を抜けると、まずは勇ましい張騫の騎馬像が目に入る。
その奥に博物館があり、漢代敦煌の統治機構図や、古代の馬車(後ろ向きに乗る)など出土品、遺跡についての展示などがあった。おっ!と目を引いたのはこの環首刀。
日本の古墳からも出土してるよねこれ!?興奮しちゃった!
博物館の奥が古代の陽関再現コーナーで、陽関を治める「陽関都尉府」の役所があったり関所には指名手配の看板が立っていたり映画村みたいな雰囲気。
陽関都尉府の名物は記念用の通行証で、当時の服装をしたスタッフが発行してくれる。紙、木簡、吊り飾りなどいろんなタイプがあり歴オタとしては心惹かれるのだがお値段は80元(当時1600円くらい)と結構お高い…ガイドさんによると昔は30元くらいだったらしくて、それなら考えるんだけどなぁ。
再現された陽関を抜けると、烽火台へのバス乗り場がある。
烽火台から見る景色
先程も書いた通り、陽関で当時のものが残っているのは烽火台のみ。博物館エリアから烽火台までは少し距離があるのでミニバスに乗って移動する。
烽火台はバスの右手に見えるので、行きなら右側の席、帰りなら左側の席に座るのがおすすめ。反対側には博物館エリアの全景と砂漠が見える。
バス乗り場では陽関ゆかりの名詩「元二の安西に使いするを送る」を詠んだ王維が見送ってくれる。
客舍青青 柳色新たなり
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
西のかた陽関を出づれば 故人(知人)無からん
柳の木も詩に合わせた配置だろうか?柳には魔除けの力があると考えられており、官吏の間では遠方に赴任する同僚に柳の枝を贈って無事を祈る「折柳」という風習があった。そこから柳は西域や旅、別れに関する詩によく詠まれ、また友情のシンボルでもあった。
丘のふもとをぐるりと回りこむようにして、烽火台に到着する。赤茶けた土の色と真っ青な空が強烈なコントラスト。陽=南の色は赤なので場所のイメージにもピッタリ。
烽火台付近には展望台があり、景色を楽しめる。陽関方面は木々が多いオアシス地帯、反対側はまばらに緑が点在する荒野で、その向こうにうっすらタクラマカン砂漠と山脈が見える。
現代では旅も道楽で、荒涼とした大地を前にしても浮かんでくるのは「ロマン」という軽薄な言葉ばかり。すぐ家に帰れる旅人にとっては非日常のスパイスだが、命がけで荒野の道に旅立った者たちは、どんな気持ちでこの景色を見たのだろう。
近くの丘には四角い箱が並んでいた。これは干しブドウを作るための倉庫で、空気穴がたくさん開いている。この辺りは敦煌におけるブドウの最大の産地だそうで、陽関内にも干しブドウ売りのおばあさんがいて、ミニバスの発着所に売りに来ていた。
ただいま鳴沙山
全ての行程を終え、敦煌への帰路につく。帰路の途中にはいろいろな施設もあり、ギリシャ風神殿や莫高窟のレプリカなどがある映画村?のようなもの、映画「敦煌」(井上靖原作)のロケに使われたセットの「敦煌影視城」もちらりと見えた。
気が付くと、右手には懐かしい鳴沙山。旅の終わりも近づいてきた。ちなみに孔さんに聞くところによると、鳴沙山の入場者数は8月8日に最高になったらしい。前回も書いたけど、入場者数が増えたのは莫高窟に入れなかった人たちが流れ込んだから。莫高窟のチケットは10日後の23日分まで売り切れだそうだ。
ブドウ畑など農園の多い道を通り、党河のほとりを通って車はホテル「敦煌飯店」へ。
車内でツアー料金を支払い、お世話になったお三方に別れを告げた。なんでも答えてくれたし、日差しを気遣ってくれたり飲み物をサービスしてくれたり、色々と親切にしていただいた。お世話になりました!
まだ遠かった西北料理
敦煌飯店に無事チェックイン。荷物を置いて身軽になったら、夕食を食べに外に繰り出す。
ホテルからは観光客向けのグルメ・ショッピングストリート「敦煌夜市」が近いので西域西路をずっと進んでいく。敦煌市内はどことなく白茶けた色合いで砂漠の町らしい雰囲気がある。
白い帽子をかぶったムスリムの姿やイスラーム料理の店も多く、境界の町という感じがする(国境ではなく文化圏という意味で)。モスクの前を通り過ぎると夜市の牌楼が見えた。
通りの左右には名物料理のレストランが並んでいる。大体どこも羊の串焼きをはじめとする肉料理や名物のロバ料理、涼皮(くずきりのような冷たい麺料理)などのお店だ。従業員さんはやはりヒジャブや白い帽子を身に着けたムスリムが多い。店名にも「馬氏」が多いしなぁ(※)。
※)ムスリム(イスラーム教徒)はマホメット=ムハンマドの音訳に由来する「馬」姓を名乗ることが多かった。例えば明の永楽帝に仕えた鄭和はムスリムだが、彼も元々の名前は「馬和」という。 |
一通り見回ってみて、正直どこでも食べられるものはあまり変わらなさそうだった。とりあえず目が合ったお兄さんのお店に入る。
敦煌山荘の施術師さんにも串焼きと涼皮をお勧めしてもらったので、とりあえず羊と牛肉、ナスの串焼き、そして涼皮を頼んだ。串は大体1本10~15元でスパイスたっぷり。羊の脳とかかなりいろいろな部位があった。
涼皮は麺をラー油と酢で和えたさっぱり味で、具はキュウリと麺筋(グルテン)。当時は麺筋の正体がわからず日記には油揚げ?と書いてある。
涼皮も羊串も羊雑湯も、今では東京でも食べられるようになってすっかり日常の一部になったけど、この時は「異国の変わった食べ物」だったなぁ。その感覚が懐かしい。
レストラン街の先にはお土産物の屋台が並んでいる。工芸品や玉製品、西域風アクセサリーやスカーフなど。ただし今回は荷物を増やせない旅なので、暗くなる前にホテルに戻りおとなしくしていることに。明日は8:30の莫高窟見学。早く起きる必要があるし、そのまま空港に移動するので荷物整理もしておかねばならない。
敦煌の滞在も、あっという間に終わってしまう。