壺中天

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【水都百景録】州府ガイド(6)応天府

概要

始まりの町、応天府こと南京。プレイヤーにもひときわ馴染み深いこの町は、古代には六朝南朝)の都、後世には明や中華民国の首都にも選ばれた中国有数の古都である。

街の歴史は2500年、そのうち都が置かれたのは約440年間であった。南京は今でも江蘇省省都として、江南の政治的な中心であり続けている。

南京は長江の河口を遡ること約300km、淮河との合流地点付近にある。水運で発展した江南の町にはそれぞれ縁の深い河があるが、南京を育んだのはこの秦淮河、プレイヤーが知府として最初に降り立つのもまた「秦淮里」である。

ゲームのマップは明代の南京を再現しているが、五代十国時代に城壁が拡張された影響で、秦淮河は応天府の街に差し掛かるにあたって城内の内秦淮と城外の外秦淮に分かれ、また合流して長江にそそぐ形になっている。

応天府はゲームのチュートリアルステージでもあり、システムとの折り合いをつける必要性もあってか後から追加された街に比べるとレイアウトがかなりアレンジされており、実際の所在地とは異なる地名・名所も多い。

バックナンバー
【水都百景録】州府ガイド(2)蘇州府 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(4)杭州府 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(5)松江府 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(1)徽州府 - 壺中天
【水都百景録】州府ガイド(3)揚州府 - 壺中天
【注意書き】
本文中で月を表記する際、算用数字=西暦、漢数字=旧暦を指します。

応天府(南京)の成り立ち

江南最大の古都・南京。なぜこの街は何度も都に選ばれたのか。理由の一つは、地形の有利さである。南京を語るうえで欠かせないその地形について、まずはご紹介したい。

竜蟠虎踞の要害

東から流れてきた秦淮河は南に湾曲し、西のかた長江に注ぎ込む。この湾曲部分が応天府の南の入口で、六朝期には朱雀航という浮橋が作られ、明代には南岸に聚宝門(今の中華門)が作られた。この場所がゲームのスタート地点でもある「秦淮里」である。

街の西には石頭山、東には鍾山(紫金山)があり、北には玄武湖と鶏鳴山を背にしている。そして南には秦淮河。南京は我が国の京都や鎌倉にも似て、山と水に守られ、防衛に適した地勢であった。

かの諸葛亮孔明)も建業を訪れた際、「鍾山は竜のごとく盤(わだかま)り、石頭山は虎のごとく踞(うずくま)る。ここはすなわち帝王の宅なり」と感嘆している。この言葉はのちに南京を代表するフレーズとなり、李白も「竜蟠虎踞 帝王の州」と詠み込んでいる。

また、鍾山には洪武帝朱元璋の陵墓「孝陵」がある。朱元璋と劉伯温ら四人で、墓所にふさわしい土地をいっせーの!で挙げたところ意見が一致したという()。

鍾山にはすでに孫権の墓があったが、朱元璋は「孫権もなかなかの男だから門番を務めさせよう」と言ったそうだ。孫権の墓は鍾山の一部で梅の名所・梅花山にあり、ゲーム内では朱元璋と劉伯温のエピソードに登場する。

永楽以降は都が北京に遷り、建文帝も行方不明のため明の皇帝で紫金山に眠っているのは彼だけである。↑のエピソードで梅花山の墓というのはこの孝陵だろうか?ちなみに大陸版では建築ガチャで帝陵のシリーズもある。

※)現在紫金山には孫権朱元璋のほか孫文の中山陵もあるのでみんな考えることは同じのようだ。

王気眠る丘【春秋戦国~漢】

南京のルーツは春秋時代に越が築いた越城で、越王・勾践が宿敵呉を滅ぼした後、楚との交戦をにらんで腹心の范蠡に築かせたものだという(前472年)。

しかし越は敗れてしまった。楚の威王は越を滅ぼすと、石頭山に町を築いた。曰く、この地には王者が出現する「帝王の気」があるというので、王はそれを鎮めるために金を埋め、そこから町は「金の丘=金陵邑」と名付けられたという()。以後「金陵」は南京の美称として、時代を問わず用いられた。

威王の策はあまり効果がなかったようだ。200年後に秦の始皇帝が金陵を訪れた際、やはり王気は健在で、「500年後に帝王が現れる」と風水師に言われた始皇帝は災いの芽を摘むため、山を切り開いて秦淮河を掘り、気脈の流れを分断。さらに金陵を「秣陵」と改名しておとしめた(秣は馬の飼葉)。

そうして500年後に東晋の建国となるが…あまりにできすぎているので、王気云々は六朝時代の歴史を踏まえた後付けの伝説だろう。秦淮河も運河ではなく自然の川である。

ただし秣陵への改名は事実なので、500年後などのディテールはともかく王気の伝説はあったのかもしれない。 

※)金陵の由来にはもう一つ、紫金山の別名が金陵山というから…という説もある。

六朝の栄華【三国・南北朝


後漢末、三国・呉の孫権が秣陵を建業と改名。長らくその本拠地になっていたが、正式に首都と定められたのは孫権が帝位に着いた時(229年)である。その後西晋を除き、建業改め建康は隋による陳の滅亡まで南朝の都として栄えた

建康の大都市ぶりは、梁代に「城中二十八万余戸」(『太平寰于記』の引く『金陵記』より)を数え、唐代にも李白が「当時百万の戸」(「金陵」)と詠んでいることからもうかがえる。

さらに仏教マニアだった梁の武帝の時代には市内に五百の寺院があり、出家者も10万人余りに上ったという。杜牧が「南朝四百八十寺」と詠んでいるが、決して誇張ではなかったのである。

鳳凰去りて【隋唐以降】

陳を滅ぼしたのち、隋の文帝は禍根を断つため建康城を徹底的に破壊し農地にしてしまった。

隋唐といえば大運河の開通によって江南諸都市が商業拠点として成長した時期だが、建康改め金陵は大運河のルートからも外れていたため、すっかり存在感が薄くなってしまう。

唐代には李白杜甫、杜牧など名だたる詩人たちが金陵の街を詩に詠んだが、やはり栄枯盛衰諸行無常、過去の栄光を偲ぶという内容が多い。

詩人たちの見た金陵


唐詩人の中でも特に金陵を愛したのが李白であった。彼は何度もこの街を訪れ、いくつも作品を残している。ゲームにも鳳台里、朱楼里、三山里など彼の詩にゆかりのある地名がたくさん登場する(後述の地名案内参照)。

時代が下って、杜牧は金陵の南、秦淮河付近を訪れた。南朝時代は商業地区や水上交通の中心として栄えた所で、隋による破壊も免れていたが、町自体が寂れてしまったため遊郭や盛り場の賑わいが旧時の面影を残すのみであった。

彼は「秦淮に泊す」において、秦淮の月夜を情感豊かに表現しつつ、陳を滅ぼした亡国の歌である「玉樹後庭花」が妓楼で歌われていることを、皮肉を込めて詠んでいる。
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また、彼の代表作「清明」に登場する杏花村の候補地は山西省安徽省などあちこちにあるが、金陵・秦淮河の南にも酒で有名な杏花村があった。彼が訪れた可能性も十分にあるだろう。

ちなみに杜秋娘も『杜秋娘詩』に金陵の出身とあるのだが、この場合の金陵とは同じ名前で呼ばれた潤州(鎮江、揚州の対岸)のことであるらしい。

外秦淮と内秦淮

唐の滅亡後、金陵は五代十国時代南唐の都になった。南唐といえば徽州の文房四宝の生みの親、芸術家肌の李家のもと豪奢な宮廷文化がさかえた国だが、南唐はあっさりと宋に降り、つかの間の栄華はついえてしまった。

とはいえ都市の歴史という意味では、南唐時代には構造上大きな変化が起こっている。城壁が拡張してそれまでの秦淮河はその内側に囲い込まれ、護城河(濠)として「外秦淮」が築かれ景観が大きく変化した。ゲームのマップも、これを反映した形になっている。

朱家の物語~応天府から順天府へ

忘れられた旧都であった南京は、明代に再び脚光を浴びることになった。洪武帝の建国から、永楽帝の北京(順天府)遷都に至るまでの歴史を簡単に追ってみよう。

乞食僧から玉座へ【明の建国】


1328(天暦元)年。元朝の天下が翳りを見せていた頃。安徽省北部の農村、鳳陽の朱家に生まれた子供は、同世代の8番目の男子ということで「重八」と名付けられた(※1)。のちに洪武帝朱元璋となる少年である。

重八少年は少しばかり塾に通ったのち、地主のもとで牧童をして働いた。しかし疫病と飢饉のために家族と死に別れ、生活のため寺に入ることになる。それでも生活は安定せず、食糧を得るため托鉢の旅に出なければならなかった。

彼にとっては屈辱の日々であったようで、皇帝即位後はこのことに言及するのは勿論、「光」「禿」「僧」などそれを連想させるような文字も使用が禁じられ※2)、違反すればもちろん死罪であった。

※1)元璋という、いかにも立派な名前は後付けである。教育を受ける機会があまりなかった庶民は命名に凝ったりせず、朱元璋の父親「五四」のように両親の年齢を合わせただけの名前や、排行(世代の中での年齢順)の数字で呼ばれるだけのこともあった(鶏鳴山氐宿の張大、張二兄弟など)。
※2)ゲームで朱元璋の好きな書籍は『西遊記』となっているが、本来なら超級の地雷である。

一方で、放浪の生活から得たものもあった。情報と見聞である。当時は各地で反乱の火の手が上がっていた。世の情勢を見極めた重八は寺を去って反乱軍(紅巾軍)に身を投じ、頭角を現していく。

白蓮教の教主で紅巾軍のリーダーだった韓林児の傘下に入った朱重八、改め朱元璋は蘇州の張士誠・江西の陳友諒などのライバルを退け、やがて韓を廃して独立した(※1)。

この戦いの中で、朱元璋は集慶路を征服。応天府と改名し拠点にした。1368年一月、朱元璋は応天府で皇帝に即位。年号を「洪武」、白蓮教の「明王出世(※2)」の思想から国号を「」と定める。同年八月には元の都・大都を占領し、名実ともに天子となった。

※1)白蓮教との訣別には、儒学に基づく国家建設を掲げるようになったことも関係している。白蓮教は天下を乱す異端とされてきた思想であり、反乱軍から天下人への脱皮には必要なことであった。
※2)弥勒菩薩明王として現れ、暗黒の世を救うという一種のメシア思想。王朝名を明としたのは、紅巾軍の盟主であった韓林児との連続性をアピールする狙いもあったと考えられている。

明の建国によって、応天府は「南京」となった。建国当初は「北京(開封府)」と「南京(応天府)」の両都制を採用したための呼び名である。

南京応天府の城壁は洪武帝の即位前の1366年頃から築かれ始め、町の実際の形に合わせて不規則な形をしている。天子の住まい・宮城は城壁の東部、鍾山のふもとに置かれた(ゲームの敷地でいうと邀笛里・箜篌里のあたり)。場所の選定は風水に基づき、宮殿を建てるためにわざわざ数十万の人夫を投入し、燕雀湖を埋め立てたという。

出典:竹内実『中国長江 歴史の旅』(朝日新聞社

明は史上珍しい江南発祥の統一王朝で、都も江南に置かれた。ただしこれは、建国までの覇権争いの舞台が江南だったからそうしていただけで、洪武帝自身は江南地主と官僚の癒着防止、モンゴルの残党に警戒する必要性などから北への遷都を考えていたようだ(候補地は西安)。

実際に洪武帝は各方面から南北統一を進め、華北出身者を取り立てる、江南の力が強くなり過ぎぬよう江南の地主や富豪を弾圧()、また辺境への抑えとして年長の皇子を西安・北平(のちの北京)などの要地に配置する等さまざまな措置を取っている。

洪武帝が計画していた北方遷都。彼の在世中にはかなわなかったが、それは思わぬ形で実現することになった。

※)たとえば、沈万三一族もそうである。詳しいことは蘇州ガイドを参照。

家相争いて【靖難の役】


洪武帝は果断且つ苛烈な皇帝であった。王朝の地盤を安定させるため、数十万人に上る粛清・強制移民など非情な施策であっても躊躇せず断行した。彼と共に王朝を作り上げた功臣たちも、その途上でほとんど処刑されてしまった。

その目的は、何より「朱家の天下」を守ることだった。洪武帝は長子の朱標を皇太子とし、さらに全国に皇子を派遣し藩王として統治にあたらせた。

そのうち北辺の燕(※1)を治めたのが第四子・朱棣(燕王)である。洪武帝は彼の才能を高く評価しており、腹心・徐達の娘(※2)との縁組や、モンゴル勢力との前線となる要地を彼に預けたことからも、そのことが窺える。

※1)燕は北京周辺を指す。燕王の本拠地・北平は元の旧都大都である。
※2)大陸版では特殊住民「徐妙雲」として実装されている。『明史』に諱の記載はなく、この名はドラマでよく使われるもののようだ。

問題は、朱標が早死にしてしまったことだった。洪武帝は朱棣を後継者にと考えていた時期もあったようだが、結局朱標の子である允炆を立てることになった。彼はその時16歳。父譲りの温厚な性格でもあり、これを危ぶんだ洪武帝藍玉の獄を起して最後の粛清を断行した。

しかしそれでも、次代への不安が消えたわけではなかったようだ。洪武帝は死の床で「燕王には気をつけろ」と孫に言い残したとも伝えられる。

1398(洪武三十一)年、洪武帝崩御。朱允炆が建文帝としてそのあとを継いだ。即位後、彼は藩王国の削減を推し進めていく。朱元璋藩王たちに新帝の補佐を期待していたが、年若い帝にとって叔父たちは脅威でしかなかったのだ。

出典:檀上寛『明の太祖 朱元璋ちくま学芸文庫

諸王は流刑や庶民に落とされるなどして次々に排斥され、その波は燕王朱棣にも及んだ。建文帝は配下の引き抜きや軍の解体()等の圧力をかけ、1399年、謀反の疑いで王の逮捕を命じた。

窮地に立たされた朱棣はブレーンだった姚広孝(道衍)の助言もあり挙兵を決意。「帝室のんじる(腐敗の原因である悪臣を取り除く)」を掲げて南に進軍する。俗にいう「靖難の役」である。

※)このため靖難の役の時にも朱棣は十分な軍事力を持たず、鄭和をはじめ宦官が活躍した。

1402年に応天府は陥落。朱棣の勝因は辺境でモンゴル相手に戦の経験を積んでいたこともあるが、皮肉にも洪武帝の粛清の結果、皇帝側に良将が残っていなかったことが大きいという。

朱棣は永楽帝として即位し、建文の年号を抹殺した。本人の行方は分からない。焼け跡から彼と思しき死体が見つかるが、損傷が激しく判別は困難だったそうだ。帝自身もそれを信じていなかったのだろう。鄭和の南海遠征も建文帝捜索の一環と言われている。

建文帝の行方については、いくつも伝説が生まれている。「南屏晩鐘」でお馴染み杭州の浄慈寺で僧として暮らした…というのもその一つだが、ゲーム中では応天府に住んでいるようである。

永楽帝は自身の本拠地かつモンゴルとの戦に便利なよう北京(順天府)に遷都。応天府は都としての役割を終えることになった。

とはいえ南京応天府の重要性が失われたわけではない。応天府を含む江南一帯は直轄地とされただけでなく、南京にも北京と同様の行政機関が設置され()、副首都(留都)の扱いだった。

王朝の経済を支える江南をまとめる拠点として、応天府は依然重要な街であり続けたのである。

※)例えば董其昌は南京礼部尚書の官職についたが、北京と南京にそれぞれ六部があり尚書がいたわけである。

鶏鳴山と天文暦学


応天府に付属する天文都市・鶏鳴山。ただの研究施設ではなく、この場所には王朝統治の秘密が隠されている。鶏鳴山の歴史とともに、天文が持つ重要な意味について紹介したい。

鶏鳴山のあらまし

鶏鳴山は鶏籠山ともいい、南京市街地の北側にある。玄武湖の近くにあるので、ゲームで街の背景に描かれているのはおそらく玄武湖だろう。

ゲームのグラフィックでは標高が高そうに見えるが、実際の高さは60mしかない。山麓には梁代創建の鶏鳴寺があり、今でもその華麗な塔が聳え立っている。

建国当初、洪武帝は天文研究機関として応天府に司天監を設置。元の大都の司天台から鶏鳴山に天文器具を持ち込んだ。司天台には簡儀など13種の天文器具が設置されていたが、その制作者がおなじみの郭守敬(ゲームでは郭天問)である。

鶏鳴山の天文器具は、永楽帝の北京遷都後も、そのまま鶏鳴山に留め置かれた。彼等が再び「故郷」に帰ることはなかったのである。

時と帝国


洪武帝は司天監の設置と同時に、民間での数学や天文学の研究を禁止。これが明の基本方針となる。では、天文台にはどんな意味があったのか。なぜ洪武帝は天文の研究を禁じたのか。少なくとも朝廷にとって、天文は科学ではなかった。それは政治であり皇帝の義務であったのだ。

中国には古来「天人感応説」と呼ばれる考え方があり、天体の運行や気象は全て人間の行いを反映したものと考えられていた。

天の代理人として、それを読み解くのも天子の重要な職務であった。そのため歴代王朝は専門の機関と役職()を設けて天文観測と研究に力を注ぎ、その結果を暦として編纂した。

例えば、皇帝は様々な祭祀を執り行う。しかし日取りの計算を誤れば、日食などの凶兆とかち合ってしまう可能性もある。そんなことが起これば皇帝の面目は丸つぶれ、王朝の正統性すら疑われてしまう。ゆえに、正確な暦の作成、そのための高度な天文学が王朝の運営には不可欠だったのである。

※)例えば司馬遷が就任した太史令は、歴史の編纂だけでなく天文暦法も司っていた。史書も暦も、王朝の正統性を補強するという意味では共通の役割を持っている。

暦は天子の権威の象徴であり、王朝の正統性を支える重要な土台でもあった()。明が天文学を禁じた理由について、マテオ・リッチは「反逆者が出るのを防ぐため」と書いている。

これは正しい。もし朝廷より正確に天象を言い当てる者がいれば、そちらの方が天子(=天の代理人)に相応しいということになってしまう。ゆえに明朝は被支配者に研究を許さなかったのだ。

※)例えば朝鮮や琉球など明に朝貢した国も明の暦を使用した。清の成立後朝鮮は異民族王朝である清を正当な中華と認めず、明の暦を使用し続けた。国内外を問わず、「暦を共有する」ということは王朝の秩序を受け入れるということであった。

暦の変遷


上記の理由で、中国では新王朝が出来ると必ず暦を制作した。近世では、元代に郭守敬イスラーム暦を参考に作成した「授時暦」を作成。その後、洪武帝の命で劉伯温らが授時暦を改訂。明代を通じてこの「大統暦」が用いられた。

16世紀には現行のグレゴリウス暦が完成しており、マテオ・リッチが中国に持ち込んでいる()。宣教師と交流のあった者たち、とくに徐光啓は現行の大統暦の不正確さに早くから気づいており、西洋暦法を導入した新暦作成の必要性を訴えた。

明末には実際に日食の予測が外れることが何度かあったが、徐は朝廷の誰よりも正確に日食を予言し、西洋暦の正確性を立証。王朝末期の崇禎年間、彼を中心に西洋の暦書・暦法に基づく「崇禎暦書」が編纂された。

王朝の滅亡によって施行には至らなかったが、清代にはそれをベースにした「時憲暦」が使用された。時憲暦は中華民国によってグレゴリウス暦が導入されるまで使用されることとなる。

このように、鶏鳴山の天文台は単なる研究施設にとどまらず、明王朝の統治を支える重要な施設だったのである。

※)リッチはグレゴリウス暦の漢訳も行い、中国の友人たちに出版を勧められたが先に述べた理由で自粛している。そのため西洋暦を中国暦に反映させるには、宣教師と朝廷の橋渡しができる徐光啓のような人物が必要だった。

湯顕祖と牡丹亭


応天府探検のモチーフである『牡丹亭(牡丹亭還魂記)』を著した湯顕祖はシェイクスピアに比せられる中国演劇界の巨匠である。本項目では、彼とその作品、明代の演劇を巡る事情について見ていきたい。

遅咲きの芸術


意外かもしれないが、中国文化史における演劇(戯曲)の発展は遅い。というのも、蘇州ガイドで述べたように「低級な庶民の演芸」とされてきたためである。演劇が「芸術」として日の目を見始めたのは、元代(1271~1368)のことであった。

元代には知識人が冷遇されたため、彼らが活路を求めて脚本執筆に乗り出し、優れた戯曲作品が生み出された(元曲)。

さらに明代、特に湯顕祖の生きた明末には小説など大衆芸能の評価も高まった。「仕方なく」脚本を書いていた元代とは環境が変わり、才能ある文人が次々脚本を執筆し、戯曲は質、量ともに充実していったのである。

中国の演劇は伝統的に歌劇である。そのため『牡丹亭』のような作品も歌にのせて演じられた。牡丹亭のヒロインをモデルにした「麗娘」は歌の名手だが、彼女もたぶん「歌手」より「舞台女優」である。実際、衣装()や仕草など彼女の立ち絵には伝統歌劇との類似点もある

※)例えば麗娘の袖口には長い布がついているが、これは戯曲で感情表現や演出に使われる飾り布(水袖と言う)。日常的には邪魔でしかないので、舞台衣装でしかあり得ないデザインなのだ。

反骨の文士

湯顕祖は1550(嘉靖二十九)年生まれ。現在の江西省、撫州府臨川県の出身である。良家の子息らしく科挙に挑戦したが、なかなか順調には行かなかった。

原因の一つは彼の性格にある。湯顕祖はかなり頑固で、且つ権威・権力に屈しない反骨精神にあふれた人物であった。

例えば彼は万暦帝の宰相・張居正と個人的に対立し、何度も科挙を妨害されている。張の死後、34歳でようやく進士になれたのだが、それを踏まえているのか探検では杜夫人が中々ご無体なことを言っている。

その性格は官界でも災いし、たびたびトラブルにも見舞われたのだが、こうした妥協をしない性格は芸術においても健在であった。

明末の演劇界には歌詞を重んじる「臨川派」と、曲を重んじる「呉江派」の二つのグループが存在した。臨川は湯顕祖の出身地で、彼は勿論そちらの派閥。湯は「天下の人の喉がねじ曲がっても正しく歌わせる」と言い切ったほど歌詞=文章表現にこだわっている。

『牡丹亭』は実際、表現が複雑でメロディーに合わず、歌いづらいと評判だった。呉江派の馮夢龍は「物語としては名作だが歌うのは無理」とコメントし、自ら牡丹亭を翻案した『風流夢』を著しているが、このようにアレンジを加えて上演することも多かったそうだ。

もちろん、湯は原本で歌わせることにこだわった。ちなみに牡丹亭の初演が上演されたのは江西省・南昌にある滕王閣。おそらく建築「滕天楼」のモデルである。

生死をかけた恋

いよいよ、『牡丹亭(牡丹亭還魂記)』の物語について簡単に紹介したい。万暦二十六(1598)年の作品で、時に湯は49歳。すでに官界を引退し、郷里で創作に専念していた時期であった。

還魂記とあるように、『牡丹亭』はヒロインの杜麗娘が恋煩いで亡くなり、蘇って想い人と結ばれる……という伝奇的な筋書きの作品である。なので、応天府探検の結末もそれを一部踏襲しているのだと思うが、原作はハッピーエンドである。

これを踏まえると、ゲームの湯顕祖を巡る物語は、死せる少女の蘇生、恋の成就、大団円……と、現実で叶わなかった夢を『牡丹亭』に結実させた…と解釈できるのかもしれない(柳との結びつきなど、ゲームの湯顕祖は牡丹亭の主人公・柳夢梅の要素も持っている ↓)。

作品の話に戻ろう。この物語は湯顕祖の完全オリジナルではなく、ルーツは南朝時代の志怪小説『捜神後記』所収の物語と言われる)。

杜麗娘の名前も明代にはすでに出来上がっており、「杜麗娘色を慕いて還魂す」という話本が出回っていた。牡丹亭はこれを翻案したものである。

※)武都太守の息子の夢に前任の太守・李仲文の娘が幽霊となって現れ、契りを結ぶという話。

以下、あらすじを簡単にまとめておく。

時は南宋。書生の柳夢梅は夢で梅の花を持った少女に出会い、夫婦になる運命だと聞かされる。一方、南安太守杜宝の娘・杜麗娘もまた、柳の枝を持った青年を夢見る。二人は夢の中で出会い、花園で契りを交わす。

夢から覚めた麗娘は、柳に恋焦がれて死んでしまう。死の床で、彼女は自分の肖像画を描き、自分と共に花園に埋めるように頼んだ。麗娘の亡骸が眠る花園には、彼女の菩提を弔う梅花観庵が建てられることになった。

3年後、夢梅は科挙受験のため揚州に旅をすることになった。道中縁あって梅花観庵に立ち寄り、麗娘の肖像画を発見する。二人は夢の中で再会し、麗娘の魂は亡骸に戻って蘇る。二人は晴れて夫婦になるのであった。

二人はトラブルを避けて杜家を離れるが、案の定、彼女の墓が盗掘されたと騒ぎになる。その後杜宝は揚州に赴任。夢梅も科挙受験のため揚州に向かい、義父に娘が生き返ったことを伝えるが、そのことで「墓荒らし」の犯人にされてしまい処罰を受ける。

柳夢梅は状元に及第し、杜宝は都・臨安に戻る。杜宝は気味悪がって娘夫婦に会おうとしなかったが、皇帝のとりなしによってようやく対面。大団円となる。

夢と現実、生死の境を飛び越えて愛する人と沿い遂げる――筋書きはかなり突飛で幻想的である。しかし、そこまでしないと恋も出来なかった…というのも当時の現実。

当時としては「非常識」な話であるが、情と反骨の文士・湯顕祖はその「常識」自体に立ち向かったのである。

彼の精神は後世にも受け継がれ、『牡丹亭』は同様のテーマを持つ『西廂記』()と共に、愛情を抑圧する儒教道徳に対する反抗の象徴となった。

※)元の王実甫作。令嬢・崔鶯鶯と書生の張君瑞のラブストーリー。旅の途中、寺院で出会った二人が惹かれあい、試練を乗り越え結ばれるという筋立て。湯顕祖は伝統権威を批判した思想家李卓吾と交際しその影響も強く受けていたが、李もこの『西廂記』を高く評価している。

名勝案内

大報恩寺・瑠璃宝塔


ゲームの応天府の象徴、大報恩寺永楽帝朱棣の創建。両親(※1)を記念するために建てられたという。1412(永楽十)年から建設が始まり、20年後の1431(宣徳六)年に竣工した。ゲームでは町の北西にあるが、実際の位置は城壁の外、外秦淮の対岸である。

瑠璃とは宝石の瑠璃(ラピスラズリ)ではなく磁器のこと(瑠璃瓦というときの瑠璃。釉薬を指す)。実績の名称に「天下の磁器」とあるように、磁器で出来た塔である。

瑠璃宝塔は宣教師や商人の記録を通じて国際的な知名度を誇り、当時の「世界の七不思議」の一つにも数えられた(※2)。

出典:「康煕大帝與太陽王路易十四特展」図録(国立故宮博物院

17世紀後半~18世紀にかけて欧州で流行した「シノワズリ(中国趣味)」にも大きな影響を与えたと言われ、例えば1670年、フランスのルイ14世ヴェルサイユ宮殿にファイアンス焼きの「磁器のトリアノンを建造。これは瑠璃宝塔に対抗するためであったと言われる。

杭州ガイドにも登場した明末清初の文人・張岱のエッセイ『陶庵夢憶』によると、塔上の仏像は瑠璃瓦を合わせて作られており、さらにきっちり規格化されていたようで、衣の襞や顔立ちまで寸分の違いもなかったという。

さらにその造営に当たっては塔3本分の部品を用意しておき、2本分はスペアパーツとして番号を振ったうえで地中に埋め、工部に言えばいつでも取り出せるようにしていたそうだ。

夜は必ず塔に火をともすことになっており、万暦年間(16世紀)には南京朝廷から大報恩寺にそのための「灯油銭」を支給したが、僧がそれを横領し、城壁から見える面だけ灯をともしてごまかしたという話も伝わる。

「南京の表章」といわれた壮麗な塔も19世紀半ば、太平天国の乱で灰燼に帰してしまった。ちなみに現在は大報恩寺遺址公園」として整備され、ガラスの塔が聳え立つハイテク仏教テーマパークのようになっている。

※1)永楽帝の母親は公式には馬皇后となっているが、その他朝鮮系の碽妃(こうひ)や、元の順帝の妃だったモンゴル人女性というものまで諸説ある。瑠璃宝塔で供養した「両親」というのは勿論洪武帝と馬皇后なので、永楽帝にとって塔の建立は政権の正統性をアピールする目的もあったのだろう。なお張岱は洪武帝の陵墓を訪れた際、碽妃の位牌を見て「永楽帝の母親」と書いているので、当時から色々言われていたんだろう。
※2)長城、琉璃塔、ストーンヘンジアレクサンドリアカタコンベピサの斜塔コロッセオアヤソフィア

江南貢院


貢院とは科挙の試験場で、貢というのは人材を推薦するという意味がある。中心都市の府学には貢院が付属するのが常で、こちらも応天府学の付属施設であった。

ゲームの貢院は城壁の外にあるが、実際の貢院は城壁の中、マップでいうと桃葉里の辺りにあった。当初そこには国立大学である国子監があったが途中で町の北部に移転(ゲームでは「成賢里」)。代わりに応天府学が置かれた。

ここで科挙の仕組みについて簡単にご紹介しよう。
科挙は大雑把に①童試、②郷試、③会試(+殿試)の三段階に分かれており、①は予備試験、②からが本試験である。

郷試に受かれば会試を受けず官僚になることもできたので(もちろん高級官僚にはなれないが)、同じ科挙合格者でも生員と挙人には天と地ほどの違いがあった。

その明暗を分ける郷試は科挙の最難関試験であり、応天府の貢院は南直隷の郷試会場であった。南直隷は南京応天府が取りまとめる皇帝直轄地で、ゲームに登場する州府では杭州府以外、全てこの南直隷に属している

なお、明清代は各地の人口や教育水準を考慮して定員数を調整しており、応天府は北京順天府と同様に合格者の定員が多く設定されていた。

さらに江南は学問のレベルも高く、より熾烈な競争が繰り広げられた。郷試の首席合格者を解元というが、同じ解元でも、例えば北京解元と南京解元では全く価値が違っていたのである。

江南貢院の敷地は7万平方メートル(東京ドーム約1.5個分)で、中国最大の貢院であった。

敷地内に立ち並んでいるのは号舎と呼ばれる受験小屋で、数は約二万六百。それだけの人数が同時に試験を受けられた。受験生はこの狭いスペースに数日缶詰めになり、寝具や食料、調理道具を持ち込んで過ごした。

会場の中央にあるのは「明遠楼」。試験官が号令を発する場所で、監視塔もかねていた。今はこの建物だけが残っており、博物館になっている。

貢院一帯は府学、孔子廟、試験場が揃った学問の聖地であった。とはいえお堅い場所では全くなかった。むしろ周囲には門前町のように盛り場が形成され、お店や劇場などの娯楽施設も集まっていた。さらには秦淮河を隔てた向こうには色町があり、周辺は応天府を代表する歓楽街だったのである()。

※)遊閣のテキストに登場する馬湘蘭(馬守真)も、秦淮の色町を代表する妓女である。妓女は文人の相手を務めることから教養のある(叩き込まれた)女性も多く、書画もたしなんだ。彼女たちは蘭を描くことが多く、薛素素と蘭が結びつけられているのもここから。

さて。応天府の住民にとって、科挙は商機でもあった。郷試は3年に一度、子・卯・酉の八月に実施される(※会試は丑、辰、未、戌の二月)が、その年が来ると貢院周辺には受験生の需要を当て込んで市が立ち、文房四宝受験用品、はたまたお土産用の香粉まで売りに出た。秦淮河沿いの宿も部屋を飾り付けて客引きに熱心だったそうだ。

極度の緊張の中で二日間を過ごした受験生たちも、貢院の門を出たら一気に気が緩み、盛り場に繰り出したのだろう。郷試終了は八月半ば、おりしも中秋節の頃合いであった。

地名案内

秦淮里・鳳台里・烏衣里

秦淮里
ゲームのスタート地点。川に面しているが、これは自然の秦淮河ではなく南唐代に作られた人工の川。城壁内に流れているのが本来の秦淮河である。
鳳台里
南朝・宋代、天下泰平の象徴である鳳凰の飛来を記念して建康南西の丘に「鳳凰台」が築かれた(略称は鳳台で同名の建築のモデルと思われる)。李白は失われた鳳凰台を詠み、建康の過去の栄光を偲んだ。
烏衣里
淮河の東南岸にあった区域。東晋時代には王氏、謝氏など華北から移住した貴族たちが住んでいた。王羲之や謝安が代表人物。応天府の北に謝道韞ゆかりの詠絮里があるのもこの関係だろう(ちょっと離れているが)。烏衣とは孫呉時代に兵士(黒衣を着る)の詰所があったことに由来。
莫愁里・三山里・雨花里

莫愁里
莫愁は伝説的な女性の名前。南朝時代の人とも言われるし、明の開国の功臣である徐達の息子とのロマンスを題材にした戯曲もある。今はこの辺りに莫愁湖がある。
三山里
名前の由来である李白の「三山半ば落つ青天の外」は、鳳凰台(鳳台)を読んだ「金陵の鳳凰台に登る」の一節である。明代には書店街が集まるなど繁華街として賑わったが、刑場もあり、清代に金聖嘆がここで処刑された。
雨花里
南京の南には雨花台と呼ばれる岡がある。勾践が築いた越城はこの辺りにあったと言われるため、南京の発祥地とも言える場所になる。名前は仏教が栄えた南朝梁代、雲光法師の読経を聞いて天が花を降らせた話に由来する。
桃葉里・鐘山里・秣陵里

桃葉里
桃葉は王献之(王羲之の子)の愛妾。桃葉と姉の桃香がこの辺りに住んでいた。昔は渡し場で、「桃葉津」と呼ばれていた。川を隔てて王献之と桃葉が交わした愛の歌が伝わっている。

桃葉 復た桃葉 
江を渡るに(かい)を用いず ただ渡れ 
苦しむ所なし 我自ら汝を迎接せん
(意訳)
桃葉よ 桃葉よ
河の流れは速いから 漕がなくたって平気だよ
さあおいで 苦しむことは何もない 私が君を迎えに行くよ

鐘山里
ゲーム内テキストも併せて、おそらく南京東部の鍾山に由来するが山からは大分は離れている。再現というより、由来なのだろう。ところで本来の山の名前は「鐘」山ではなく「鍾」山である。
秣陵里
始皇帝が金陵を秣陵と改名したのは先述の通り。南朝時代には秦淮河を挟んで南が秣陵県、北が建康県であった。
太平里・雲錦里・閲江里

太平里
南京の北東には「太平門」があり今でもそこから「太平路」という道路が伸びている。実際の位置とは異なるが、次の雲錦里と合わせての命名かもしれない。
雲錦里
ゲームの特産品としても登場する雲錦は南京特産の絹織物で、明清代には官営工場(織染局・織造局)があった。清の「江寧織造局」は太平路沿いにあるので、実際の位置は違うが、雲錦里は太平里と合わせて江寧織造局をイメージしているのかもしれない。……と思っていたが、参考文献(12)に引用されていた図版によると明の織染局は通済門付近、ゲームでいう桃葉里付近にあったようだ。ということは、「織姫の像」はそれを表しているんだろう。
閲江里
江都は長江のこと。ちょうど、マップの山を隔てて西に長江がある。南京には朱元璋が陳友諒との戦勝祝いに建造を計画した「閲江楼」があるが、街の北西の端にあるのが閲江里の位置と重なる。ちなみに閲江楼は、おそらく建築「望海楼」のモデルである。
横塘里・朱雀里・白馬里

横塘里
実際の横塘は、城壁の西南(鳳台里あたり)に築かれた堤を指すので実際の位置とは異なる。唐の詩人・崔顥の詩で知られる。
朱雀里
朱雀と言えば南と同義なので、東門付近のこの地が「朱雀里」となっているのは少々不思議である(南朝の建康城の正門は朱雀門と呼ばれていた)。もしかしたら、秦淮里の門が聚宝門=明の正門、ここが南朝の正門をイメージしているのかもしれない。だとしたら、横塘里の位置も正しくなる。
白馬里
南京には鍾山と玄武湖の境目に白馬公園がある。白馬という地名の由来は後漢の蒋子文と白馬の伝説や、洪武時代、朝廷がこの辺りで白馬を飼育していた…など諸説ある。
武里・朱楼里・鶏鳴里・長干里

武里
町の北部にある玄武湖は、古来南京を代表する景勝地の一つ。南朝代には水練に使われ、その後陸地化していたのを洪武帝が貯水池として整備したそうだ。
朱楼里
李白の詩「金陵」に「当時百万の戸、道を夾んで朱楼起こる」というフレーズがあるのでそれが由来かもしれない。
鶏鳴里
鶏鳴山と鶏鳴寺がある。山は玄武湖に面しているので、玄武里に近いロケーションも納得。区域説明に「朱元璋が鶏鳴の字を書いた」というのは、おそらく鶏鳴寺の額のことだろう。
長干里
淮河南岸の住宅街を長干と言い、長江流域に向かう旅人や商人が立ち寄り、妓楼や盛り場もあった。こちらも李白が「長干行」という詩に詠んでいる。実際の長干の位置は秦淮里の対岸辺り。
元嘉里・板橋里・栖霞里

元嘉里
元嘉は鳳凰が飛来した時の南朝・宋の年号だが、地名との関係性は不明。
板橋里
南京には実際「板橋」という地名があるが、場所は街の南、秦淮里の辺り。秦淮の妓楼や妓女たちの様子を描いた余懐のエッセイ『板橋雑記』も史上有名。
栖霞里
栖霞山は南京の北東にある景勝地紅葉の名所としても知られる。南朝時代に栖霞寺が築かれ、仏教の聖地でもあったが宋以降衰退。洪武年間に再建された。建築「千仏岩」はおそらく栖霞寺の境内にある「千仏岩」と「三聖殿」がモデルと思われる。紅葉もあるし。


※原寸で細部まで見たい方はこちらへどうぞ。
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参考文献

(1)張岱著・松枝茂夫訳『陶庵夢憶』岩波文庫 1981
(2)マッテーオ・リッチ著、川名公平・矢沢利彦訳『中国キリスト教布教史1』岩波書店 1982
(3)高島俊男『中国の大盗賊 天下を狙った男たち』講談社新書 1989
(4)徐朔方『湯顕祖評伝』 南京大学出版社 1993
(5)植木久行『唐詩の風景』講談社 1999
(6)井波律子『中国文章家列伝』岩波新書 2000
(7)旅名人編集室『蘇州・南京と江蘇省』旅名人ブックス34 日経BP企画 2001
(8)大木康『中国遊里空間 明清秦淮妓女の世界』青土社 2002
(9)竹内実『中国長江 歴史の旅』朝日新聞社 2003
(10)松浦知久・植木久行編訳『杜牧詩選』岩波文庫 2004
(11)上田信『海と帝国 明清時代』中国の歴史09 講談社 2005 
(12)檀上寛『明の太祖 朱元璋ちくま学芸文庫 2020