※7章公開後だしドンキホーテ関連の内容は的外れもいい所なので、いったん最下部に「参考」として移しました。お恥ずかしい…
今回はガッツリキャラの掘り下げが来て、特にファウストとドンキホーテについては大きなどんでん返しがあった。
タイトルのパロディ元である『オリエント急行殺人事件』も含めてイベントモチーフは色々あると思うけど、その1つは「謝肉祭」(復活祭に備えた祭り)ではないかと思った。ファウストとドンキホーテの「仮面」、カセッティの暴食と「王の仮装」、鏡屈折鉄道の「マスカレード」……などなど。
謝肉祭は仮面や仮装に象徴されるように、秩序と規則から自由になる無礼講の場。「別の顔」が現れるには相応しい場と言えるのだ。
『ドン・キホーテ』がカーニバル文学(※)と言われること、ゲーテの『ファウスト』に謝肉祭が出てくること等、原作との関連性も結構ある。
※)ロシアの思想家バフチンの概念。上述した理由から、価値反転やパロディ的な要素を持つ文学を指す。 |
というわけで考察というか妄想寄りですが、考えたことを書きました。
ファウスト
今回明らかになったことでは、「ファウスト」というのは知の集合体のようなものらしい?(こういう方面全く詳しくないので適切な言葉遣いが出来ない)
「意見と情報を求める」ということ、「色々な立場のファウストがいること」からデータベースというより組織ということ?彼女が言う「ゲゼルシャフト」の成員をファウストと呼ぶ?
0章にあったファウストが天才「だった」というのが気になる。「ファウスト(またはゲゼルシャフト)」という仕組みを作った元祖ファウストがいるということなのか。(ワンピのベガパンクをちょっと思い出した)
以上の仮定も踏まえて、「ファウスト」=集団というのは、ファウスト伝説に触発されて生まれた文学作品が多い⇒パラレルなファウストが沢山いることからの着想だろうか?=鏡の別人格の総体が「ファウスト」ってこと?
不確実性とゲマインシャフト
ストーリー読み返して気づいたんだけど、イベントで言っていた「私は不確実性を信じるファウストですので」は、2章のこのシーンを踏まえていたのか。
ここで彼女が言っているのは、「LCBチームと過ごすうちに、不確実性を信じることにした」ということ。いい笑顔してるし、このことを結構前向きにとらえていそう。
ちなみに「ゲゼルシャフト」の原義は、利害によって形成される集団(国家、企業など)。「ゲマインシャフト」=自然発生的に形成される集団(家族など)と対を為す。
ざっくり合理と感情、と言い換えてもいいかもしれない。ゲーテのファウストは海辺を開拓してゲマインシャフト的な共同体を作るのが理想(※)……ということも踏まえると、「ゲゼルシャフトのファウスト」から「ゲマインシャフト(LCBチーム)のファウスト」に変化しつつあるということなのかも。
※)ゲーテの作品において、ファウストがメフィストフェレスと交わした契約は「時よ止まれ、お前は美しい」と言えるほどの瞬間に出会えたら魂を譲り渡す……というもの。物語のラスト、死の直前にファウストが「その瞬間」と考えたのは、まさにこの自由な共同体のビジョンだった。待てよ、命を懸けてもいいほどの瞬間がゲマインシャフト……不穏な予感がしないでもない |
ゲーテの『ファウスト』に流れるテーマとして「高みに向かってたゆまず努力すること」があるそうなので、彼女にとっての『ファウスト』がここから始まると言えるのかな。
『ファウスト』はちょうど今読んでいる所なので、何かあったら加筆したい。
その他
カセッティ(カーニバルと12人)
彼の由来は、『オリエント急行殺人事件』の被害者・カセッティ。
そしてこれが、難易度に関わらず12人編成の理由でもあったのに気づいておおー!となった。↓超有名作だけどミステリなので、結末に関する内容は一応畳んでおきます。
『オリエント急行殺人事件』とイベントの共通点
オリエント急行殺人事件は、「容疑者の乗客全員が犯人」というぶっとんだ真相が売りのミステリ。そして、その乗客が12人、被害者のラチェット(本名がカセッティ)は12の刺し傷を負っていた。
ボスがカセッティなので、そこにナイフを突き立てる12人の乗客は勿論囚人たち。だから、わざわざ12人編成で出撃するということ……じゃないかと思う。こっちが犯人側かよ!ってアハ体験だったけど、皆「囚人」だしな。
たぶんサーシャが敵だったことや乗客が血袋にされてしまったこと等、ダンテ一行に対しても「乗客がみんな敵」なんだと思うからアレンジがうまいなぁと思う。
その他冒頭にも書いたけど、モチーフの1つがヴェネツィアの謝肉祭(カルネヴァーレ)じゃないかとは思ってる。
謝肉祭にもいろいろあるけどヴェネツィアのものは仮面で有名だし(素性を隠す=無礼講ということ)、カセッティは響き的にイタリア語人名(原作ではアメリカ人だけど、イタリア系なんじゃないかと思う。ヴェネツィアにもカゼッティ宮殿があるし=つづりは同じcassetti)。
そもそも謝肉祭というのは復活祭に備えて断食をする四旬節を前に、お肉を食べてどんちゃん騒ぎしよう!ってイベントなんだけど、カセッティのセリフや犯行動機には食事が大きく関わってる。パレードというのも、ブラジルのカーニバルとか仮装行列に繋がる。
「小物が王に扮する」というのも、まさしく謝肉祭的な価値倒錯。
本来「王(王子)」でないからこそ、仮面をかぶる謝肉祭の場でないとそれは実現しない。権威や上下関係にこだわる言動もそれを持たない裏返しということだろう。
そして、ファウストの第二部がまさに謝肉祭と仮面舞踏会を取り上げているので、当該部分にイベントに関連する内容があるかもしれない。まだ途中なので、読み進めたら加筆する予定。
じゃあ何で謝肉祭なんだよ!と思っていたけど、唐突に閃いた。謝肉祭の後には四旬節を経て復活祭が来る。ドイツだとヴァルプルギスの夜のかがり火を復活祭と結びける習慣もあるそうだし、第7章は復活祭がモチーフになるのだろうか。
スペイン、特にアンダルシアといえばセマナサンタの祭りも有名だしな。
参考(旧ドンキホーテ考察)
答え合わせは済んだけど、一応参考資料として残しておきます。
唐突な吸血鬼設定が出てきてびっくりした。
過去作とのリンク等から予想していた人はいたので、唐突なようでヒントはたくさんあったんでしょうね。
こういうのとか。
LCB囚人人格を同期化進めると出血付与がついたり、不穏なオーラをバリバリ感じる初期E.G.Oのイラストも、串刺し(ヴラド・ツェペシュ)に赤い二重らせん、そもそも名前が「Sangre de Sancho(サンチョの血)」で出血+回復とそれらしき要素はたくさんある。
ただなー、串刺しメリーゴーランドとか、もっと人間的な悲劇だと思っていたのでちょっと拍子抜けしてしまった。串=槍で、偽物騎士(メリーゴーランドが象徴)の独りよがりな正義による犠牲者…とかだと思っていた。(原作のドン・キホーテは結構これで人に迷惑をかけるし)
『ドン・キホーテ』と吸血鬼のリンク(※)に今のところピンと来ていないので、おお!というよりえっ?という感情の方が強い。そんな感じ。7章を待ちます。
※)ドン・キホーテの劇中劇にカミラという女性が出てくるのと、ヴラド・ツェペシュはオスマン帝国と戦った人物⇒セルバンテスもそうで、時代的に作中にもオスマン帝国との戦いが出てくるくらい。 |
ファウストが「P社の情報を仕入れるついでに得た知識が役に立った」と言っていたけど、P社周辺にトランシルバニア的な所があるって事だろうか。
以下は考察というか妄想です。
自己嫌悪、罪滅ぼしの正義?
ドンキホーテの愛馬、ならぬ愛靴のロシナンテはドンキホーテを封印している。今回だと封印が解けたトリガーはカセッティの吸血で「ひとりでに靴紐が解けた」とあるので物理的に解ける構造にはなっていないようだ。
ドンキホーテを封じ込めたのは誰なのだろうか。彼女はカセッティを倒した後に「ロシナンテをくれ」と言って自らを封印しているので、彼女自身かもしれない。
だとしたら、騎士の人格は何を意味しているのか。ドンキホーテが生きたかった自己の姿なんだろうか、便宜上の作り物なんだろうか。
今回、ドンキホーテは血鬼に対して異常な敵愾心を燃やしている。これまでとは明らかに違うシリアスな怒りの表情を見せることもあった。
こういうセリフもあるし、自傷のような絶望的な自己嫌悪を感じる気はする。彼女の怒りの言葉は、全部自分に刺さっているわけだし(※)。
※)ドンキに血鬼としての記憶はないけど、6章の「好きな色」の問答を見るに、深層心理には残っているんだろう。 |
断罪と浄化を仕事にするN社人格のテンションが振り切れてるのもここに端を発している?釘打ちは吸血鬼を殺す杭打ちに似ている。
整理すると、
彼女は第二眷属というから高位の血鬼のようだ(カセッティは第六眷属)。それが何かのきっかけで「血鬼である自分」を憎むようになった(その憎しみを「悪」や「悪者」に敷衍)。自家撞着の果てに、彼女は己を殺し(封印)、勧善懲悪を願う人間の少女になった…
こんなかんじ?
だからドンキホーテはドンキホーテの罪滅ぼし、または自殺のための人格なんじゃないかなと思う。
ではその自己嫌悪のきっかけを作ったのは何だったんだろう?E.G.Oを見るにそれがサンチョだったんだろうか?ドンキホーテが憧れる漠然とした「正義のフィクサー」像の原点もサンチョだったり?地に足着いた俗物のサンチョ・パンサにあまりそんなイメージはないけど…。
原典に照らすと、
①郷士アロンソ・キハーノが幻想に取りつかれ騎士ドン・キホーテとなる
(血鬼のドンキホーテ⇒騎士のドンキホーテ)
②ラスト、ドン・キホーテは郷里に帰って正気に戻る(騎士道小説を排斥)
(騎士のドンキホーテ⇒血鬼のドンキホーテ)
ポジティブに考えると、血鬼というルーツを否定⇒それを受け入れ、騎士と両立できるようになる、という着地点か?
サンチョの血
最近はデフォルトE.G.Oがストーリー演出に絡んでくるから、サンチョの存在がどう描かれるのかは気になる。
上記の、ドンキホーテが自己嫌悪から、断罪者としての人格を作り出した……という立場に立てば、原典通りサンチョは大事な相棒で、意志に反してその血を吸ってしまった、とかはありそう。E.G.Oにも回復効果があるし、サンチョの命(血)で生き永らえたのか。
もし上の「憧れの正義のフィクサーの原点がサンチョ」という妄想を下敷きにすれば、
サンチョとの出会い(彼自身がフィクサーか、彼を通じてフィクサーを知るか)(※)をきっかけにフィクサーに興味を持つ&血鬼という存在や自分に疑問を持ち、原作通り2人で遍歴の騎士巡業を始める?(ドンキ人格主体。善になりたい)
※)何かを集中して読むことに長ける(N社人格ストーリー)とあるので、原典通り「騎士道(フィクサー)物語」を読みふけったのはあるんだろう |
↓
結局サンチョの血を吸って自分で死なせてしまう⇒血を吸わずにはいられない血鬼の習性に対する憎悪=自己嫌悪からの封印、ドンキ人格の創造…とかだろうか(変わろうとしたのに変われなかったことへの絶望)。
※典拠のない妄想です。ご了承ください。
ドン・キホーテという悪魔
ドン・キホーテと吸血鬼の関わりは分からないけど「悪魔」とのかかわりなら見つけた。
『変身』でお馴染みのカフカが『サンチョ・パンサの真実』という寓話めいた短編を書いているんだけど、内容はこんな感じ。(英語から訳したんでぎこちないです)
「悪魔」ドン・キホーテは早速狂気じみた行為に乗り出したが、本来そうであるはずだったサンチョはその対象にならず、彼は誰も傷つけることはなかった。
自由人のサンチョは冷静にドン・キホーテの冒険に従った。おそらくは責任感もあっただろう。そうして彼は、人生の終わりまで有益な楽しみを得たのだった。
ここでいうドン・キホーテというのはサンチョの「内なる悪魔」で、ドン・キホーテの「夢想と狂気」は彼にも内在している…というテーマらしい。
でも、そのまんま読むと「『怪物』ドンキホーテと相棒の出会い」…の物語のようにも読めるなぁと思った。シェヘラザード的に窮地を逃れようとフィクサー雑誌渡したらハマっちゃった、みたいな。
ドン・キホーテの自殺
また、先程自殺のために騎士人格になったのでは、と書いたけど、カフカが「ドン・キホーテの自殺」という評論を書いているのも知ってびっくりした。
筑摩世界文学大系の『ドン・キホーテ』の解説に引かれていたので引用させていただく。
……うーん、全然わかんない。ただ、「ドン・キホーテがドン・キホーテを殺す」というのは原作をラストまで読んで少しイメージがわいたかもしれない。『ドン・キホーテ』は前半と後半があり、セルバンテスが後半の執筆に着手したのは別人が続編を出版したことに触発されてのことで、ドン・キホーテの物語を正当に完結させるためだった。
だからその最終章で、セルバンテスは架空の作者シーデ・ハメーテの言葉を借りて「ドン・キホーテはここで死んだのだから、別人が不当に彼を蘇らせるなんて言語道断」のようなことを繰り返し書いている。わざわざ架空の作者を設定したり、出身地名を伏せることも、現実世界のリンクを断ち切ることで彼の人生を物語内に閉じ込める仕掛けであるらしい。
人生を守るため、後発作品を否定し続けなければいけない、というのがカフカの言う自殺だろうか?……というのは、次に書くファウストの「ファウスト博士伝説から大量のファウストが派生した」展開と対照的のようにも思える。
イベントとあまり関係ない話になっちゃったけど。
サンチョについては、とりあえずソーニャとかクィークェグとか見ている限り原作で絆の深いキャラはきっちり深い関係性持って出てくるし、話には関わってくるだろう。
あのシルクハットの人物は誰だろうな。サンチョなのか、サンソン・カラスコか(「鏡の騎士」を演じ、ドン・キホーテを元に戻そうとする人物)