壺中天

歴史、旅行、ごはん、ゲームなどアジアなことを色々つづります。

澳門レトロ街歩き:地中に眠る過去の秘密【紅街市~蓮渓廟】


マカオ半島中東部の紅街市から蓮渓廟にかけてのエリアに行くと、ポルトガル的な風情は鳴りを潜めるようになる。

それも当然で、かつてこの辺りはポルトガル人居住区の外に位置する、郊外の田園地帯だったのだ。

ポルトガル人街の城壁の外、マカオ半島の北部には中国人の住む村落がいくつかあったそうだが、今回は紅街市から蓮渓廟に至るエリア、かつて「沙崗村」「新橋村」があった地域を取り上げたいと思う。

代表的な村について、今の地図にマークしてみた。この辺りはかつて広大な田園地帯で、人口密度が低く墓地が多い場所でもあった。19世紀半ばになると、ポルトガル勢力が一帯を占領し都市開発を進めたが、墓地を取り壊すなど強引なやり方は物議も醸し、一方で華人の大商人・盧九が開発の一翼を担ったりと、色々な利害が渦巻いて作られた複雑な場所でもある。

今では露天市場や商店が集まる楽しい場所で全くそんな事情は感じさせないのだが、地名や街角に残る、過去の名残を辿ってみよう。

シリーズ目次
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成り立ちとあゆみ

沙崗村

赤いタイルが美しい市場・紅街市の周辺にはかつて沙崗村があった。この辺りはかつて海岸沿いだったというから、砂丘が広がっていたのかもしれない。

現在のランドマークである紅街市は1936年に市政府によって作られた公営の市場。十字型の台座を持つ時計台や赤レンガなどの凝ったデザイン、ちょっと昭和の学校を思わせる外観が印象的な建物だ。

今は都市風景の一部として溶け込んでいるが、昔は周囲にあまり建物もなく木々に囲まれていたそうで、今より更にインパクトがあったことだろう。

紅街市の南には盧九街、義字街、群隊街などがあり、いずれも狭い道に露店が軒を連ねるショッピングストリートとして賑わっている。食品店、菓子店、青果店、花屋に衣料品店などありとあらゆる店が集まり、旅行者にとっても買い物が楽しい場所だ。

しかし今からは全く想像がつかないが、沙崗村の南に広がるこの一帯はかつて墓地、それも貧民のための無縁墓地があった場所で、1895年からマカオの大商人・盧九(盧華紹)ポルトガル市政府の認可のもとで住宅地に作り替えたエリアなのだ。

日本でいうと、京都の化野とか鳥辺野みたいなイメージだろうか。今でも、工事の際に柩や人骨が見つかることがあるそうだ。

とはいえ、開発=悪という単純な話ではなく、共同墓地や工場が原因で疫病が流行し、衛生環境を改善する必要があったこと、18世紀以来の人口増加への対応、等々の事情もあった。それぞれの立場にそれぞれの言い分がある、複雑な話だったのだ。

(盧九は貧民から大商人に出世した、マカオを代表する実業家。街にはいくつも彼の足跡がある。たとえばカテドラル付近にある「盧家大屋」(↑)は盧九の邸宅で、「ロウ・リムイォック公園」も19世紀に彼が購入した土地に作られた。(ロウリムイォックは息子・盧廉若のこと))

こうした事情は、実は地名からも読み取ることができる。「盧九街」の名前は言うまでもなく街の開発者盧九を記念したものだが、隣の「義字街」の義とは「義塚」(貧民の墓地)「義荘」(を指しているのだ。

※)義荘は一種の慈善施設で、本来は一族が共同出資して、族内の貧しい者の冠婚葬祭や勉強を助けるための施設を指す。マカオを代表する病院・鏡湖医院の場所にもかつては墓地と義荘があった。ちなみにキョンシー映画の金字塔・霊幻道士」のガウ道士が住んでいるのも「義荘」であるが、これは香港等で「義荘」に旅先で亡くなった者の遺体を安置したから。キョンシーはそういう人を故郷に送り届けるため死体を動かす術である。

ところで義字街の近くには竹林寺があり、たくさんの位牌が安置されている。境内はいつも紙扎製品を燃やす煙に満ちていて、冥宅・金童玉女などの葬式製品を目にすることも多く、「死」を身近に感じる所だな……と思っていたが、ここも無縁墓地と関係があるそうだ。

竹林寺は今は仏教寺院だけど、昔は「祥雲仙院」という道観で、その前身は無縁墓地の死者を弔う義荘だったのだそう。

ともあれ、かつての墓地は19世紀末に住宅地となり、遺骨は集めて火葬されたそうだ。さらに20世紀頭には紅街市から東に延びる「高士徳馬路()」の建設や下水道の整備が進んで衛生事情も改善され、北部の農村地帯は大きく姿を変えていった。

とはいえ冒頭に挙げた紅街市が建設された1930年代、この辺りにはまだ田園が多く、都市というより「郊外の高級別荘地」という感じだったそうだ。義字街の東にある三盞灯(後述)の周りも、昔は洋風の高級住宅が集まっていたというし納得。

……となると紅街市についても、辺鄙な場所になんでこんな小洒落た市場を作ったんだ?という謎が解けた。義字街と盧九街の名前、死者の寺院、紅街市の違和感……。小さな疑問が色々繋がって面白かったなぁ。

※)名称は、道路を建設したマカオ総督コスタに由来。

新橋村と蓮渓

紅街市から義字街の露店市場を抜けると「渡船街」に出、さらにそこから道なりに大䌫巷を西に直進すると古い寺院の「蓮渓廟」に差し掛かる。

この辺りにはかつて「新橋村」という村があった。新橋という地名は今でも残っており、大体カモンエス公園~三盞灯の辺りを指しているようだ。

以前この一帯には、蓮渓(という川が流れていた。蓮渓には「新橋」と「旧橋」の二本の橋がかかっていて、これが地名の由来になっている。

※)マカオは蓮の花の形に見えることから「蓮島」と呼ばれており、モンハの丘にも「蓮峰山」の別名がある。蓮渓というのもそれにちなんだ名前。

蓮渓は20世紀初頭に埋め立てられ現存はしないが、「蓮渓廟」や「橋巷」、「田畔街」「渡船街」などの地名がかつての風景を伝えている。蓮渓と新橋の歴史的な由来を追ってみよう。

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新橋地区と関係の深い川、「蓮渓」。その源流には諸説あるが、ギアの丘(東望洋山)、モンテの丘、モンハの丘など複数の水源があると考えられているようだ。丘から流れ出た水は今でいう渡船街の道筋をたどり、大興街とラセルダ提督大馬路が交わる地点で海に注いでいた。(上の地図参照)

ちなみにこの蓮渓だが、自然の川ではなく人工水路の可能性があるらしい。というのも、マカオの古地図を調査したところ、18世紀を境に急に現れるのだそうだ。

18世紀といえば、康熙・雍正・乾隆の全盛期で人口が一気に増えた時期でもある。広東でも人口増加を賄うために生産システムを改良する必要があり、余分な水を海に流す排水路として作られた……という説が有力らしい。

へー!面白いな。「蓮渓は灌漑用水だった」という説明も読んだけど、一方で「蓮渓は海水と混ざり合ってしょっぱいため「鹹涌」の別名もある」…とも読んで、農業用水としてはどうなの?と不思議に思っていたんだった。
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こちらのページの地図を見ると、半島北部の中央に広大な水田(「望厦稲田」と呼ばれる)が広がっているのが分かる。地図の縮尺が正しければ蓮渓はかなり大きな水路のようだけど、これだけの田地の排水を請け負うとなると、広い水路が必要だったのかも。

以下に書く「新橋」の辺りでは端午節に龍舟競渡(ドラゴンボートレース)をやったというし、やっぱり結構広い川だったんじゃないかな。

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そして、この蓮渓にかかる橋の一つが「新橋」。「新橋」があったのは今の「橋巷」――具体的には、橋巷の土地神壇がある場所で、この土地神はもともと橋のたもとに作られた守り神だったのだそうだ。

橋巷土地廟の向かいにある「石敢當行台」も、かつては新橋地区の「公所」、つまり公民館のような役割を兼ねており()、単なる寺院ではなく地元社会と密接に結びついていたそうだ。

※)寺院が公民館にもなる、という現象は特に珍しくない。セナド広場近くの三街会館(関帝廟)や雀仔園の福徳祠も似たような役割を果たしてきた。

ちなみにこの石敢當行台(公所)は清代の1894(光緒二十)年に住民の主導で建てられたもので、もともと石敢當の祭壇があったのを、寺院・公所として施設を整えたのだそうだ。建設には、お馴染み大商人の盧九の支援もあったとのこと。

石敢當について、「疫病が流行った時は、石敢當に庇護を祈った」とあるので、石敢當行台の建設も、上で書いた沙崗の義字街や高士徳馬路の開発と背景は共通しているのかもしれない。

石敢當行台の手前にある、小さな石敢當。寺院が出来る前からあった石敢當とはこれのことらしい。

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土地神壇のある道=橋巷を進んでいくと、南端の大䌫巷と交わる辺りに城隍神を祀る祠がある。

城隍神は土地神より1ランク高い神で、こうやって道端に祀られているのは珍しく、少なくとも中国本土や華僑の多いマレー半島では見たことがない。

というか、そもそも城隍神というのは住宅地や街路など地元の安全を司る土地神とは役割が異なり、土地神たちから報告を受け、天帝に上申して沙汰を仰ぐ――つまり天地を結ぶ中間管理職なので、そういう意味でも自ら現場に出てくる必要はないお方なのだ。

城隍神は通常独立した城隍廟に祀られ、マカオにも一応あるものの、観音古廟の敷地の一部になっていて存在感は薄い。それも含めて、マカオ城隍神信仰の在り方については個人的に謎が多く、この「城隍行臺」の歴史がとても気になっている。

とはいえ、本来は城隍=都市の神である城隍神が昔は「城外」だった橋巷にこうして祀られているということ自体、「マカオ」の拡大を表していて興味深い事例かもしれない。

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新橋と蓮渓に話を戻そう。新橋の位置については上で書いた通りだが、「旧橋」の場所は今のところよく分からない。
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こちらの地図を見ると蓮渓と「新橋」「旧橋」の二本の橋が描かれており、旧橋は蓮渓廟・鏡湖医院より東にあるので、今でいう渡船街と盧九街が交わる辺りだろうか?形は江南などでよく見るアーチ型の石橋だったようだ。

(イメージ)

いずれにせよ、二つの橋も蓮渓も今は姿を消してしまっている。蓮渓の埋め立ては1910年代と言われているが、原因としては都市開発で農地が減少し、用水路としての需要が低下したことなどが考えられているそうだ。人工水路だからこそ、産業構造の変化に伴って、役割を終えて姿を消したのだろう。

マカオでは川や橋は珍しいし、ドラゴンボートレースも見てみたかったのでちょっと残念だ。

ポルトガルの都市開発

沙崗や新橋の歴史と大きく関わっている、19世紀以降のポルトガル市政府の都市開発の動きについて簡単にまとめておきたい。

16世紀以降、ポルトガル人は中国政府に地代を払うことで澳門の居住権を得た。当初彼等の居住地は半島西南部(媽閣廟~サンパウロ天主堂辺り)に限られ、敷地は城壁によって隔てられていた。

しかし19世紀半ば頃、アヘン戦争(1840~42)など帝国主義戦争の勃発と清の敗戦に乗じて、ポルトガル政府は「マカオ」の拡大に乗り出していく。

例えばマカオ総督アマラルは急進的な拡張路線を取り、1847年以降モンハ(望厦)に道路を建設し、その過程で住民の墓地や祠堂が取り壊された。しかし墓地や祠堂は祖先との連続性を重んじる中国人にとっては重要な施設。これらの施策は住民の怒りを買い、アマラルは暗殺されることになった。

【関連記事】
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ポルトガルが本格的な北部開発に乗り出したのは同治年間で、1863(同治2)年には居住地の城壁を破壊し、城外にあった五つの村と住民を支配下に取り込んだ。ポルトガルはこれらの村に街灯を設置・警官を派遣し、保護を名目に「灯費」を取り立てるようになった。

住民との摩擦は続いたが、1887年には清葡友好通商条約によってマカオは正式にポルトガルの植民地となり、20世紀には道路建設や埋め立てが次々と進められていった。

【関連年表】

1840 アヘン戦争
1847 総督アマラルによるモンハ開発始まる
1849 中国政府への地代支払いを停止・アマラル暗殺
1863 ポルトガルが城壁を破壊し、村を占領・支配下に組み込む⇒道路建設・灯費の徴収を進める
1864頃 祥雲仙院(竹林寺の前身)の建立
1887 ポルトガルによるマカオの植民地化
1894 盧九による義字街開発・石敢當行台の完成
1904 総督コスタによる道路建設(高士徳馬路)
1910's 蓮渓の埋め立て
1936 紅街市の完成

澳門ポルトガルに限らず、植民地政府による「都市開発」は衛生環境の改善などをもたらす一方、税徴収の円滑化など、あくまで宗主国の利益を優先したものでもあり、一方的に善とも悪とも言い切れない両面的なものである。

それでも一つ確かなことは、マカオという街のアイデンティティポルトガル支配という歴史的経験を経て形成されていったという点で、正の面も負の面も、異文化の交流も衝突も血肉となって今に繋がっているということだ。

マカオの町や歴史を愛する者として、そういう眼差しを大事にしたいと思う。

主な見所

紅街市 ◆龍華茶楼
◆露天市場(義字街ほか) 三盞燈
竹林寺 蓮渓廟とガラクタ市
涼水街と井戸 明發家庭用品
石敢當行臺 橋巷

歩き方①紅街市と露天市場

このエリアに行く時、私はいつも紅街市までバスで行って、それからセナド広場方面に南下するルートを取っている。というのも、紅街市には多くのバス路線が通っているし、バス停の名前としても目的地の目印としても分かりやすいからだ。

紅街市の隣には、歴史の古いレトロな茶館「龍華茶楼」もあり、時が止まったような店内で、お茶と昔ながらの点心を楽しみながらのんびり一日のスタートを切るのもおすすめだ。

お湯はセルフで注げるシステムで、種類によるかもしれないけどポット5杯分は飲めるので長~く楽しめる。以前行った時は旅の終盤で足が疲れていたのもあって、2~3時間は居座って日記を書いたりしていた。観光客は意外と少なく、地元の長老たちが談笑したり、和やかで落ち着いた雰囲気。

お店自体が骨董品みたいな所なので、その場にいるだけでも満足できる場所だと思う。

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色々タイミングが悪くて紅街市には入ったことがないんだけど、マカオの市場も独特の風情があるので一見の価値があると思う。……現状これ以上のことは言えないので、実際行ってみたらまた追記します。

紅街市の周りにも、こまごまとしたお店が出ている。よく見かけるのは生鮮食品や衣料品など。旅行者が買うものはあまりないと思うけど、現地の人たちの生活を垣間見るのは楽しい。

買い物をするなら義字街周辺の露天市場の方がいいと思う。パッケージされた商品やお菓子類もあるので持ち帰りやすい。そのほか腸詰とか金華ハムとか使える食材もあるんだけど、肉類は検疫の関係で日本に持ち込めないのが難点…。

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紅街市を出たら、高士徳馬路を渡って義字街・盧九街の露天市場町に行くのがおすすめ。露天が連なり、迷路のようで歩いているだけでも楽しい。

盧九街は生花や盆栽の店が多いので、旅行者が買い物するなら義字街かな。伝統菓子のお店もいくつかあって、2024年9月の訪澳時には「晶記餅家」でエッグロールや金銭餅を買った。

澳門の伝統菓子はポルトガルの影響かクッキーなどの焼き菓子が多く、無難に美味しくてお土産にしやすいし、しかもこういう所で買うと観光地によくある鉅記餅屋などの大手菓子店よりも安いので、お土産を買いに行くのも結構おすすめ。

老舗菓子店の一つ、晶記餅家で買ったお菓子をいくつか(※右上の箱だけ、最香餅家という別のお店のもの)。エッグロール(蛋巻)の値段は25パタカくらいで、割安且つたくさん入っているのが嬉しい。

ただし、安いのはパッケージ代がかかってないのもあると思うので、特にクッキー類は割れないよう、持ち運びに気を付けたい。

※)ちなみに、もう1軒立ち寄った老舗菓子店「最香餅屋」のエッグロールは28パタカで長いのが8本=晶記のサイズだと16本ぶんだった。味わいが違ってどっちの良さもあるのでいつか比較記事を書きたい。

歩き方②三盞灯と竹林寺

露天市場街の東にはロータリーがあり、正式名称は「カルロス・ダ・マイアのロトゥンダ(ロータリー)」。セナド広場前の目抜き通り「新馬路」の建設など都市開発に功績を挙げ、人気のあったマカオ総督マイアの名前が付けられている。

それよりポピュラーな呼び名は「三盞灯」。中央の広場にある、優美な西洋式の街灯に由来している。
以前ロータリー周辺は閑静な高級住宅地だったというから、その雰囲気に合わせて作られたんだろう。今は店舗や集合住宅に作り替えられ、大分賑やかな所になっているけど。

「三盞灯」という名前は、道路を背にして立つと電灯が重なり、3つしかないように見えるためらしい。

この辺りは20世紀後半に移住してきた南洋華僑が多く、ビルマインドネシアなど、東南アジア料理のお店が多いので有名。

もう15年近く前になるけど、初めてマカオに行った時は三盞灯の近くのビルマ料理屋さんで鶏肉のカレーを食べた。ココナッツミルクがまろやかで、油条が入っているのが好きだったなぁ。今はどうなっているんだろう。

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三盞灯の近くには竹林寺がある。ここは無縁墓地だった過去の名残をとどめる場所で、特別何があるというわけではないんだけど、葬式用の紙製品など、中国的な葬祭の風習に触れることができる面白い場所。

ベンチもあるし緑深い境内も癒されるので休憩にもお勧め……なんだけど、タイミングによっては炉で紙製品を燃やしていたり渦巻き線香が沢山あったり煙たいことが多く、ひどいときは本当に目を開けていられないほどなので結構運が絡む。

中国の死生観とかキョンシー映画とかに興味のある人にはおすすめしたいスポット。詳しくはこちらの記事で書いているので興味のある方はどうぞ。
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歩き方③蓮渓廟とガラクタ市

三盞灯や竹林寺から西には大䌫巷という道が伸びている。赤い土地廟や小学校のある通りを道なりに進んでいくと、かつての用水路にちなんだ蓮渓廟がある。

ここではかつて火事が多発したため、火を鎮めるために建てられた寺院だそうだ。なので、火の神・華光大帝や北方(水)の神である真武大帝(北帝、玄武とも)などが祀られている。寺院については……竹林寺のようなユニークさはなく、普通の寺院という感じ。

渦巻き線香とか広東の寺院ならではの光景は面白いけど、見慣れていると真新しいものはないかも。

個人的な見所は、三蔵法師とお供たちが祀られていること。マカオでは4人セットのほか孫悟空(斉天大聖)単体で祀られているのもよく見かけて、中国本土だとあまり見ないから南方の文化なんだろうか?

蓮渓廟周辺では、土日になると開催されるラクタ市も見どころだ。

フリマとして気軽に利用されているようで、あちこちに出る露店には結構人が集まっている。

品物は古着にぬいぐるみ、食器、お鍋に炊飯器、レトロなミシン、はたまたヘルメットまで本当に様々。足が痛いし暑かったので今年は覗かなかったんだけど、レトロ趣味な人間としては、意外と欲しいものがあるかも…。すでにこの写真に写ってる、陶器の灯籠みたいなのが気になって仕方ない。

年代物の壺を真剣に検分していたり、ベルトをお買い上げしたり、そういう買い手の様子を見るのも楽しかった。

歩き方④新橋そぞろ歩き

さて。蓮渓廟の辺りはバスの接続もいまいちよくなく、中心部に戻るなら歩くか、バスなら北の沙梨頭海邊街沿いの「沙梨頭/華寶工業大厦」からセナド広場・リズボア方面行きのバスに乗れる。

そして……蓮渓廟から沙梨頭海邊街までの、いわゆる新橋エリアには色々面白いものもあるので、道中のスポットを紹介しておきたい。地味だし普通の街ではあるんだけど、だからこそ「ならでは」のものも色々あるのだ。

蓮渓廟から西に進むと、「青草街」との交差点に出る。この青草街を南に下りきると鏡湖医院で、病院に続く階段下には綺麗な公衆トイレがある。

さらにトイレの手前には、道路から一段低くなった小さな広場があり、土地神の祠と古井戸がある。付近の「涼水街」の地名の由来になった「涼水井村」の古井戸で、かつてここには数十戸程度の小さな村があったが、1860年代の開発により姿を消してしまった。

ここにある古井戸は涼水井村にあった二つの井戸の一つで、今は蓋がされていて水をくむことはできないが、かつては住民の生活を支える重要な井戸だった。(井戸が写ってなくて申し訳ないです)

井戸の隣には土地神の祠があるけど、これは意外と新しく、1980年頃に作られたものらしい。

鏡湖医院から南の坂を上がっていくとサンパウロ天主堂跡に近いモンテの砦につくので、そこまで歩いて行ってもいいし……

蓮渓廟から青草街を北に歩いて、バスに乗ってもいい。こちらのルートの見所は、新橋地区の説明でも出てきた城隍神の祠や石敢當行台だ。見どころとしては渋いけど、新橋地区の歴史に迫るディープな体験ができる…はずだ。

青草街の北ルートで個人的に紹介したいのが、雑貨店の「明發生活用品」。この辺りには営地大町や十月初五日街では姿を消してしまった昔ながらの日用雑貨店が残っており、覗いてみると結構掘り出し物があるのだ。

例えばこのお店では香港・マカオ情緒あふれる日用雑貨が買える。例えば、香港マカオでお馴染みの金属製の郵便ポスト(70パタカ)や香港映画でも見かけるニワトリ模様のお皿など。

ポストは意外と値が張るので見送ったけど、今でも悩んでる。新品でピカピカ、街中にあるものと違ってレトロ風情に欠けるというのも即決しなかった理由かもしれない。赤い神棚や香立てとかも売っているので、とにかく、香港・マカオの風情を日常生活やインテリアに取り入れたい、という人にはおすすめだ。

青草街の突き当りを左に曲がると、かつて「新橋」があった石敢當行台と橋巷土地廟があり、街の歴史に触れることができる。そのまま沙梨頭海邊街に出てバスに乗ってもいいし、ここから西に伸びる石街はレトロな風情があり、沙梨頭の下町にもつながっているので合わせて歩くのもお勧めだ。

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(この辺の詳しい旅行記はこちらの記事で書いてます)

……というわけで、かつての墓地、ポルトガル統治の光と闇、などなどディープな過去を持つマカオ中東部について紹介させていただきました。自分でも知らない事だらけで、現地で感じてた色んな疑問が氷解したのできちんと調べてよかったと思う。

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参考文献・サイト

林发钦ほか著『澳门街道的故事』上巻(南方出版传媒 广东经济出版社)
www.macaumemory.mo
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