海際から聖アゴスティーニョ(オーガスチン)教会にかけての地域には、「夜呣街」や「夜呣里」など、「夜呣」と名前の付いた道がいくつかある。夜呣街のポルトガル名はRua do Gambõa。これらは18世紀のポルトガル商人・ガンボアに由来している。
さらに19世紀、一帯はアヘン倉庫やクーリー貿易の商館が集まり、治安維持のための番所や門も各地に作られていた。墓地だった紅街市界隈とは別の意味で、陰の世界を感じさせる独特の場所だ。
「夜呣」の名を辿りながら、ちょっとダークなマカオを歩いてみよう。
シリーズ目次:
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夜呣街と商人ガンボア
「夜呣街」の歴史は古く、1869年にマカオ総督・ソウザ(福隆新街の建設を主導した人物でもある)の命で作成された道路名リストにも以下の4本の道が登場する。
夜呣街 | Rua do Gambõa |
夜呣斜巷 | Calcada do Gambõa |
夜呣巷 | Travessa do Gambõa |
夜呣里 | Beco do Gambõa |
これらの名称はポルトガル商人ガンボアを記念したものだが、まずは彼について簡単に紹介しておきい。
《アントニオ・ジョゼ・デ・ガンボア(1754~1797)》
1754年リスボン生まれ。1775年、21歳の時にマカオに渡り、アヘンや綿花の貿易に乗り出す。アフリカからマカオまで、海をまたにかけて活躍した。公職にも就き、晩年の1793年と95年には澳門議事会の理事も務めたそうだ。
成り立ちとあゆみ
港と町の結び目として
現在の夜呣街は、海沿いの河邊新街と紅窗門街を結ぶ200mほどの道路だ。
道路西端の近くには中国大陸とマカオを結ぶ内港フェリーターミナルがある。東端の紅窗門街はセナド広場方面に繋がるほか、かつて主要な貿易地・商業地だった営地大街への門があり、税関が設けられていた経済上の要地である。
……とくれば、この道の重要性が見えてくると思う。かつての夜呣街は、港と市内中心部を結ぶ重要な道路だったのだ。
夜呣街から紅窗門街、セナド広場にかけては多くの人や馬車が行き交った。夜呣街の南には「馬車巷(夜呣前地)」という小路があるが、道の名前が示す通り、この辺りには馬車の駅があったそうだ。
しかし夜呣街のこうした重要性は、19世紀後半から20世紀前半にかけて、福隆新街や新馬路が開通したことで失われていく。今では人通りも多くなく、閑静な道になっている。
夜呣街は「夜摩」の街?
海際から夜呣街を見て、ひときわ目を引くのがこの門楼だ。建物の1階部分がトンネル状になっており、歩いてみると中々奥行きがある。
これは旧時の番所の跡であるらしい。港に近く交通量の多い夜呣街では治安にも気を遣う必要があり、かつてここには監視員が詰めて不審者に目を光らせ、夜間は門を閉鎖したそうだ。
現在の門楼は1984年に建てられたもので意外と新しいのだが、それ以前からここには門があり、それを建て替えたもののようだ(改築の結果、「門」から「トンネル」になったのかも)。
こうしたゲートが設けられていたのはここだけではなく、夜呣街から分岐する路地の「夜呣里」にも同様の門があった。
夜呣街から坂を下りていくと、住宅地の入り口に同じようなトンネルがあり、土地神が祀られていて独特の風情――もっと言うと、結界じみた雰囲気がある。
トンネルの先は集合住宅に囲まれた広場のようになっており、反対側にも同様のトンネルがある。ここにも昔は門があり、夜間は閉鎖されていたそうだ。
この道は面白くお勧めの散歩ルートなのだが、詳しくは後半の「歩き方」で書きたい。
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さて、ガンボアの名を冠する各種道路の中国語名はいずれも「夜呣○○」となっている。その理由について、一般的には「ガンボアの中国名が夜呣だから」とされるが、正直な所なぜ「ガンボア」=「夜呣」なのかははっきりしない。
歴史家のManuel.V. Basilio氏はこちらの記事で、「夜呣yemo」というのはガンボア本人とは関係なく、もともと「夜摩yemo」=夜盗を指していたのではないか、と推測している。
内港の船着き場から上陸した移民のうちには、運に恵まれず盗人に転じる者もあり、夜呣街や夜呣里に特に厳重なセキュリティ態勢が敷かれているのはそのためだ。それを思うと、確かに納得が出来る説だと思う。
夜呣里沿いには土地神が2つあって印象に残っているのだが、これも道徳的なセキュリティ強化なんだろうか?
色々想像を掻き立てて面白い道だと思う。
影の記憶をたどる
さて、この夜呣街や夜呣斜巷は、マカオの負の歴史と関係の深い場所であったりもする。それが「アヘン貿易」と「クーリー貿易」だ。
マカオとアヘン貿易
アヘンの原料となるケシはインドに産出し、16世紀からインドに拠点を持っていたポルトガルの商人は18世紀にはすでに中国にアヘンを輸出していた。ガンボアもその一人である。
清朝唯一の対西洋貿易港だった広州に近い地の利もあり、ポルトガル商人やイギリス商人がマカオを通じて中国にアヘンを輸出。これがアヘン戦争勃発の背景にもなった(※)。
※)1830年代、アヘンの取り締まりを命じられた林則徐もマカオ視察に訪れており、彼が宿舎として滞在した蓮峰廟には林則徐記念館がある。 |
マカオのアヘン貿易は20世紀初頭まで続いたが、マカオ唯一のアヘン貿易港だったのが、夜呣街に近い「司打口」である。
今は街路樹や噴水のあるのどかな広場になっているが、かつてここには港があり(口とは水口=港のこと)、インドから運ばれてきたアヘンはここから水揚げされ、倉庫に蓄えられ加工された。
マカオ政府観光局のパンフレットによると、司打口の一角にある黄色い建物は鴉片屋=アヘン倉庫であったらしい。文献(以下リンク参照)には「南洋スタイルでアーケードがあり、鎧戸が並ぶ」…と書いてあり、その描写とも一致する。
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何も知らなければロマンチックにさえ見える建物なんだけど…びっくりだ。
アヘンの貿易港を限定し、倉庫で厳重に管理していたのは密貿易を取り締まるためだったという。つまり、アヘンはマカオ政府の専売品だったということだ。
夜呣街にもアヘン倉庫があり、19世紀から20世紀にかけて、倉庫内の工場で作られたアヘン煙膏(※)はマカオの主要な輸出品となっていたそうだ。
※)アヘンの原料となるケシはインドから輸入されるが、それを精製して作られるのが「アヘン煙膏」。これを丸薬状にして燃やし、煙管で吸引する。 |
マカオとクーリー貿易
しかし、香港の台頭によってアヘン貿易のアドバンテージはイギリスに奪われ、その代わりにマカオの主力産業となったのが「クーリー貿易(苦力貿易)」であった。
19世紀前半、西欧各国では黒人奴隷制度が相次いで廃止されていった。しかし結局労働力の需要は変わらず、その穴を埋める形で雇われたのが「クーリー」と呼ばれる年季契約労働者たちだった。
インド人や中国人からなるクーリーたちはアフリカや東南アジア、南北アメリカ大陸のプランテーションや建設現場などで働いた。
マカオは1850年代から70年代にかけて中国人クーリー貿易の中心地となり、貿易はマカオ・ポルトガル政府に管理されていた。マカオにはバラコン(招工館/豬仔館 クーリーは「豬仔」=豚と呼ばれた)と呼ばれる商館が各地に建設され、キューバやペルーなどの中南米に労働者を「輸出」していたのだった。
黒人奴隷と異なり彼等は自由身分で、「自発的な」契約を通じて雇われた「合法的な」労働者だった。とはいえ誘拐や詐欺の被害者として連れてこられた者も多かったそうだ。
※)ジェット・リー主演の香港映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」第1作目にはゴールドラッシュを餌に人を集める西洋人商人から労働者の虐待まで、クーリー貿易の様子が描かれているので、気になる方は見てみてください。 |
1873年にはマカオの「豬仔館」の数は300軒以上に達し、1865年から1873年にかけて「輸出」された苦力の数は18万人にのぼったという。
その悲惨な実態についてはここでは詳しく延べないが、クーリー貿易は諸外国にも悪名高く、清朝はもちろんイギリスなど西洋諸国からも反感を買い、結局1875年には人身売買が禁止されたのだった。
夜呣斜巷から夜呣街のあたりにはかつて「豬仔館」があり、「苦力圍Patio dos Cules」や「天通街Rua dos Cules」などいくつかの地名にその名残をとどめている。(※)。
※)クーリーとはもともとインドの言葉で「荷担ぎ人夫」を指し、天通街については交通の要所であるこの道に、そちらの意味でのクーリーが集まっていたから…という説もある。 |
歩き方①夜呣街:門楼と最香餅家
夜呣街を歩くなら、ぜひ海沿いから歩いてみて欲しい。道のシンボルである門楼にも近いし、何より、かつて港と市街地を結ぶ幹線道路だった夜呣街の過去を追体験することができるからだ。
河邊新街から夜呣街に入ると、まずは青煉瓦の門楼が見えてくる。先程書いたように、かつては治安強化のために使われていた門だ。
その先にはアーモンドクッキー(杏仁餅)で有名な老舗の菓子店・最香餅家がある。店舗は二つあり、一つは菓子店、一つは調理場になっている。
こちらが菓子店。人気店なので大体行列が出来ており、店内には入場制限をかけている。店頭には整理券についての説明が書かれているが、9月に買いに行った時は発行しておらず、特に人が多いときだけのようだ。
そのまま並んで順番が来たら店内に入れてもらった。店内には商品が並んでいるが、目玉の杏仁餅はカウンターでのみ注文する仕組み(その日の分しか作らず、作り置きしないから)。蛋巻や鳳凰巻などそれ以外のお菓子の箱は棚から自由に取ることができる。
…つまりアーモンドクッキーを注文する時だけ言語の問題が発生するということで、しかも10個入り、20個入り、ミニサイズなどいくつか種類があるので、公式サイトを見て事前に何を買うか・何を言うか決めておくと安心だ。
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こちらが調理場。マカオ名物の杏仁餅(アーモンドクッキー)は中華街などで売っているサブレ風の「アーモンドクッキー」とはまた別物で、緑豆の粉を固めて作った焼き菓子だ。和菓子でいうと落雁とかに近いらしい。
動画も撮ったけど、ブログに上げるのは大変なので調べればすぐ出てくると思う。公式サイトにもあるし。
奥では粉をこねて生地を作り、型に入れて成型している。店内にはいくつもの炉があって、竹ざるに型押しした杏仁餅を並べ、炭火で焼き上げる。昔ながらの製法を守っているため、ここの杏仁餅は香ばしい味わいがする。
今回(2024年9月)は20個入りのを一箱買った。値段は83パタカでそれなりにはする(現在は1パタカ約20円)。エッグロールも買ったけど、義字街の晶記餅家に比べるとここのは卵の味が濃厚なのが特徴。ちなみに袋は有料だ。パッケージがまた、レトロで可愛いから捨てられない!
門楼と最香餅家。今の夜呣街を代表する2大名所だ。
とはいえ、この辺りはあまり人の流れが活発ではないので、一帯に店を構える人たちは地域活性化のため、門楼を歴史遺産・地域のシンボルとして宣伝すべきと考えているようだ。
確かに19世紀後半まではマカオ交通の幹線だった所だし、歴史的な価値はある場所だと思う。ただ、門楼も治安強化の施設だし、アヘン貿易との結びつきも考えると、この場所の「価値」をどういう形でアピールするかというと、なかなか工夫が必要な土地柄かもしれない、と思う。
歩き方②夜呣斜巷の古い住宅地
夜呣街の突き当りまで来ると、聖オーガスチン教会のある丘に続く「夜呣斜巷」に切り替わる。椰子の木があったりフィリピン系のお店が目立ったり、なんとなく南国ムードを感じる場所だ。
そんな南国情緒とは裏腹に、この道の両側にはこういう昔ながらの住宅地(里・圍)がよく残っていてなかなか面白い。
詳しくはこちらの記事でも書いたけど、マカオには壁に囲まれた共同住宅地があちこちに作られており、福隆新街周辺や下環などでは立派な門をはじめ、その名残をいくつか見ることができる。
夜呣斜巷沿いにある「圍」としては、以下が挙げられる。住民に配慮する必要はあるものの、一応中に入って見学もできる。
(道の反対側にも圍があるが、こちらは写真を撮っていないので門があるかどうかは忘れてしまった)
中でも見応えがあるのがこの「苦力圍(聚龍里)」。夜呣斜巷にはかつて「豬仔館」があったそうだし、ここもそうだったのだろうか。
古めかしい圍門の奥には、歴史の古そうな古建築が残っている。中の住宅は現役だが、奥のほうまで行くと崩れた壁があり、その奥には草の生い茂った空き地が見えた。
こうやって草木や苔に覆われた家が多いけど、人は住んでいるんだろうか。
路地の突き当たり、朽ちた壁にはタイルの標識が。
苦力圍入り口の土地神は、真っ赤な肌をしていて個性的だ。寿老人(日本でいうと福禄寿)に似ていると思うけど、寿老人は禿げ頭だが頭が白い=髪が生えているからやっぱり土地神なんだろうか。結構由来が気になる土地神。
歩き方③夜呣里の路地裏迷路
個人的に気に入っている散歩ルートが、夜呣街から夜呣里を通って清平巷に抜ける道。
入り口はこちら。坂道を下っていくと建築設計関連のお店が多くあり、かと思えば若者が集まるカフェもあって意外と賑わっている。
突き当たりには先ほど紹介した門があり、トンネルの暗がりに土地神が祀られている。ワクワクする!
土地神の奥に抜けると集合住宅に囲まれた小路があり、小さな広場や中庭のような雰囲気。
マカオでも珍しく、印象に残った手書きのお札。片や達筆、片やおおらか。どんな人が書いたのやら。
この「広場」の反対側にもトンネルが作られており、
抜けるとこんな感じ(画面の奥がトンネル)。道の右手(写真向って左)は広東オペラを上演した劇場・清平戯院の跡地で、カビとコケに覆われた古い壁にガジュマルが根を下ろしていたりと廃墟的な景観だ。
道なりに進んでいくと、廃墟を背にもう一つの土地神が見えてくる。
面白いことに、実はこの道、ゆるい「くの字」になっているからトンネルを抜けた直後は土地神が見えない。先に進んでいくごとに次々新しい顔が見えてくる、アトラクション的な演出にすぐれた道なのだ。
先にも書いたように、この夜呣里はかつては門で仕切られており、さらに2つも土地神があることからマカオの中でも特に「安全」に気を遣っている道だと思う。狭くてくねくねしたこの道は、昔は「夜摩」の多い危険な場所だったのかもしれない。
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この道、実はものすごく大好きな場所で、初めて通った時にすっかり気に入り、同じ旅程で2周してしまったほど。路地裏愛好家の琴線に触れる要素を色々持っている場所だと思う。
具体的にいうと、
②トンネルや土地神という「境界的なシンボル」が多い
など、冒険心をそそる要素がとても多いのだ。
自分語りになってしまうが、私という人間は洋の東西、海外・国内を問わず路地裏を歩くのが好きで、地元を散歩する時も、知らない道にさしかかるとついつい入ってしまう。
その心性のベースにあるのは「どこに繋がっているかからない」「何があるか分からない」という「未知への期待」だと思う。感覚としては、RPGゲームでダンジョンを冒険するのと似たようなもの。
そして、その期待を煽るのがトンネルや土地神、日本でいうとお稲荷さんやお地蔵さんなどの「境界的なオブジェクト」で、この夜呣里はそういうワクワクに満ちていると思うのだ。
感覚としては、パタン(ネパール)の中庭めぐりに似ているなぁと思った。パタンという街には建物に囲まれた中庭があちこちにあり、小路や門でそれが繋がっている。そして、ルートのあちこちにガネーシャの祠や仏塔があるのも同じ。
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あとはナポリの下町(スパッカ・ナポリ)なんかも丁度こんな感じで、大好きな場所のひとつ。
パタンにしろナポリにしろ夜呣里にしろ、「小さな出入り口を通じて閉ざされた空間を渡っていく」という、ちょっとした冒険を味わえる楽しい場所だ。
こういう場所というのは探そうと思って見つかるものではないので、見つけたら貴重な出会いとしてしっかり記録しておきたいと思う。
まとめ
今回はちょっと暗い話が多くなってしまったけど、ただ「こういう背景があるから、こういうものがあるよ」という話をしたいだけで、色眼鏡で見たいわけではない。
私自身色々調べて見たことで、司打口のアヘン倉庫も夜呣街の門楼も、一つの糸でつながってかなり街の見え方が変わり、またこの道を歩きたくなった。
歴史だ背景だって深く考えなくても、最香餅家のアーモンドクッキーを買ったり、門をくぐって古い住宅地に入ってみたり、路地裏ダンジョンを探検したり、エリアならではの街歩きを素直に楽しんでほしいと思う。
参考文献、url
陳鵬之『澳門土地公 街區神壇掃描』文化公所
cronicasmacaenses.com
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