下環街から聖ローレンス教会の辺りには煉瓦造りの古い建物がいくつか残っており、思いがけず見応えがある場所だ。特にこの辺りにある南巫圍、鳳仙圍、幻覺圍、六屋圍は「下環四圍」と合わせて呼ばれ、昔ながらの住居や生活の名残を今に伝えている。
今回はそのうち実際訪れた「幻覺圍」と「六屋圍」を紹介したい。どちらも19世紀末~20世紀初頭に作られ、古建築が残る歴史ある住宅地だ。
シリーズ目次:
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歩き方
このエリアを訪れたのは2024年9月が初めて。土地神探訪の一環で、下環街沿いの土地神を見学してから坂道を上り、次の六屋圍を目指していた途中だった。
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この辺りには食堂も多く、媽閣~下環エリアと、聖ローレンス教会~崗頂エリアの結び目としてちょうどいい場所にあるので昼食のお店探しにもいい場所だ。
★大体この辺り
ただ、下環も含めてこの辺は地元民向けの商店街なので、ローカル色が強い食堂が多くて敷居が高いと感じるかもしれない。自分も決めるまで結構迷った。
今回は潮州麺のお店でランチにした(店名は失念、Googlemapでは見つけられなかった)。新しくて店内が開放的な雰囲気だったのと、おひとり様客が気軽に利用しているのを見て決めた。
潮州は広東の他の地方とは文化が異なり、料理も「広東料理」とは一風変わっている。華僑の出身地でもあるので、香港やシンガポールでもおなじみだ。
代表的なのが肉や魚団子の入った麺料理で、ここでは麺と具が選べる。今回はビーフンと豚肉の団子にしたけど、メニューは中国語表記(広東語)onlyかつ写真もないので結局分かるものしか頼めなかった感じ。
他のお客さんの注文を聞いてみると、麺は河粉(きしめんみたいな平麺)を頼んでいる人が多かった。スープは干しエビの風味が強く、美味しかったけど好き嫌いはあるかも。大根の酢漬けとかXO醤とか味変用の付け合わせが充実しているのが嬉しかった。
*****
聖ローレンス教会方面に続く坂を上がっていくと、水手西街の土地神にぶつかる。
今回取り上げる幻覺圍・六屋圍には、この土地神の奥から行くことができる。
ワクワク感というものは「非日常感」や「くぐること」から生まれると思っているけど、この水手西街の土地神はどっちも兼ね備えていて導入としては素晴らしいなと思う。
下環街に用事はないという人は、六屋圍南の高樓街がリラウ広場と繋がっているので、媽閣廟から北上して港務局大楼、リラウ広場を見学し、聖ローレンス教会に向かう途中で立ち寄るのがいいと思う。
幻覺圍/Pátio da Ilusão
土地神から仏具屋さんの前を通り過ぎ、ゆるい坂道を上っていくと、道の左手に綺麗な門楼が見える。
タイルに書かれた標識は「幻覚圍(高樓里)」。地名は地図で見たことがあり、いわくありげで前々から気になっていた場所だった。
とにかくここは、一言でいうとワクワクする。古びた門楼に「幻覚圍」という不思議な名前。色々想像力が掻き立てられて、ついつい足を止めてしまう引力があると思う。
所感
入ってみると、広い空間があり、北側はマカオによくある唐樓と呼ばれる集合住宅。南側には古い住宅があるが保存状態は悪く、ところどころ崩れている。窓も朽ちて、ツタに呑み込まれつつあった。
(左は圍門の内側、よく見ると金具が突き出ており、昔は扉もあったようだ。右は住宅の窓。複雑なデザインやほっそりとした優美な欄干が美しいが…。)
南側の住宅は5軒あり、そのうち2つは倒壊してしまっている。以下はマカオ政府によるオンラインマップの画像だが、点線で囲まれた部分がそれだ。
残る3軒の建物も住所はあるものの、上に掲げた窓の写真からわかるように、かなり老朽化して内部も草木に覆われている。
これらの建物は、周辺の住民にとっては不安の種でもあるようだ。住民は崩落の危険性を工務局に訴えたが、幻覺圍の古建築は「文化遺産保護法」の保護下にあるため取り壊すことはできず、かといって政府が積極的な修復に乗り出しているわけではなく、文化財保護という面でも民生の安定という意味でも中途半端な状況にあるらしい。
成り立ちとあゆみ
この「幻覺圍」の過去もまた、あまり明るいものではないようだ。そもそも何故こんな名前が付けられたかというと、かつてここの住民はこぞってアヘン中毒患者だったから……という、身もふたもない理由であるそうだ。
マカオは清朝が唯一西洋人との貿易港として開放していた広州に近く、中国との貿易にやってきた西洋船の重要な寄港地だった。
ポルトガル商人は16世紀から中国にアヘンを売っていたが、19世紀になるとイギリス商人の台頭や土砂の堆積による港の劣化で、貿易港としての繁栄はすっかり香港に奪われてしまった。
そんな状況下、マカオが活路を見出したのが賭博や売春などの「娯楽産業」で、さらに阿片貿易や苦力貿易(※)も政府主導で進められた。19世紀のマカオは闇商売が横行する魔窟でもあったのだ。
※)中国人労働者をペルーやキューバなど中南米の労働力として輸出する、一種の奴隷貿易。 |
もちろん、趙家巷の趙氏のようにアヘン貿易の問題について行政に意見する人物もおり、住民の全てがそれを支持していたわけではなかったが、対中国貿易におけるアドバンテージを失ったかつてのマカオにとって、これらが重要な「生業」であったことも事実だった。
マカオには「苦力圍」の地名もあり、「幻覚圍」も同様に、マカオの負の歴史の生き証人と言えるだろう。
ところで幻覚圍の門楼は、修復の手が入っているのか保存状態が良く、軒先の壁画もしっかり残っている。
じっくり見てみると、軒下には「千祥雲集」の文字。その奥の壁面には絵と文章が書かれている。
左は有名な孟浩然の「春暁」。右は作者不明だが、たぶん「桃李満瓊林、泥封報好音、状元賜及第、衣紫帯黄金」で、深圳・南頭古城の関帝廟に同じ文句が書かれているようだが、それ以上のことは分からなかった。
誰々の作品というより汎用的に使われる決まり文句なのかもしれない。いずれにせよ、科挙合格を激励するような文章が書いてあるものと思われる。
中央の絵は下環福徳祠に描いてあった「蘇東坡教学」(↑)に似ていると思った。全体的に教育的な感じが漂っていて、先に述べた趙家のような古式ゆかしい文人一家が住んでいた場所、って感じがする。そんな場所がどうしてアヘン中毒者の巣窟になってしまったのか。
そもそも、科挙及第を祈るような文章や絵と同時に、孟浩然の「春暁」が書かれているのはなぜだろうか。「春眠暁を覚えず」とは一見のどかな春の一幕のようでいて、毎朝早く起きて仕事をする官僚との対比、隠遁の境地を暗示しているという。そして結びの「花落つること多少ぞ」。
この門楼に込められた意図はなんだったんだろう。栄華と落魄、現世と隠遁、あいまいな境界に遊ぶ荘子の蝶のような、そんなつかみどころのなさを感じる。
正直な所、こういう深読みも「幻覺圍」の名前のイメージに引きずられている所があると思うので、とにかく強烈な地名だと思う。
六屋圍/Pátio das Seis Casas
幻覚圍を通り過ぎるとペットショップがあり、左折すると聖ローレンス教会に続く高樓街、そのまま直進すると六屋圍の入り口がある。ここはもう、一目見てなにこれすげー!!となった。
言語にしちゃうと感動がうまく使わらないんだけど、鄭家大屋や福隆新街にも引けを取らないような、こんな風格ある古建築が観光地化もされず普通に街並みの一部として存在することに衝撃を受けた。
緑豆圍とかもそうだけど、下環のあたりにはこういう古い建築がさりげなく残っているので、歩いてみると特に発見が多い場所だと思う。観光地としてはマイナーということもあるだろうけど、「こんなのあったのー!?」って驚くことが結構多かった。
所感
六屋圍の別名は福六圍といい、名前の通りL字型の通路を挟んで六つの家屋が向かい合って建てられている。丘の斜面に建てられているからか、奥に行くほど高くなり、圍内の通路もゆるい階段状になっている。
圍(囲)というのはマカオに昔からある住宅地を指し、基本的には
②家の戸口は圍内部の通路のみに面し、圍の外側は壁で囲まれる
③外と繋がっているのは圍の門だけ
という、防犯を意識した造りになっている。この六屋圍はまさに、そういう昔ながらの圍の形をよく残している場所だと思う。
後から調べたら圍の奥には井戸もあり、思い返してみるとたしかにそれっぽいものがあった(石の蓋で封じられており、一目でそれとはわからなかった)。当時は「下環四圍」を含め、周囲の住民の喉を潤した水源だったようだ。
圍の住民は殆ど引っ越してしまったようだが、それでもまだ住んでいる人がいるらしい。
これが六屋圍の土地神(関羽に乗っ取られてる感があるけど)。ところどころひび割れて塗料も剥げて、祠自体はかなり傷んでいるけど、福の字の飾りはピカピカでお供えのミカンもみずみずしい。そうすると、確かに人が住んでいるようだ。
土地神の横にある家の戸口には郵便物が差し込まれていたが、ドアの取っ手には自転車のチェーンみたいな「封鎖線」がかけられ開かないようになっている。ここはもう無人なんだろうか。
この2階部分とかを見ていると廃墟のようで、人が住んでるようにはやはり見えない。
圍の門から見上げた景色。赤く塗られた垂木と緑のコントラストが綺麗だ。
幻覺圍の門楼ほど保存状態は良くないが、こちらも壁画がうっすら残っている。梅と松と言えば中国でも吉祥のシンボル。
枝には2羽の鳥が止まっていて、梅の花につきもののカササギか?と思ったけど、嘴の根元に飾り羽があるのでハッカチョウのように見える。中国画ではよく描かれる鳥で、マカオでも見たことがある。こちらも吉祥の意味があるらしいので、いずれにせよ、おめでたい絵として描かれているんだろう。
古い木の扉の脇には、かつては土地神の祭壇だったらしい石が。すっかり古ぼけて文字も読み取れない。
階段を上って圍の突き当りまで行くと、家の前に生活用品が雑多に積まれて混沌とした様子になっており、なんとなく近寄りがたく、生々しい雰囲気があった。ここに人が住んでいるのだろうか。
成り立ちとあゆみ
六屋圍の歴史は19世紀末に遡るそうで、かつてここには、ロシア出身の画家・ゲオルギー・スミルノフ(1903~47/喬治・史密羅夫)が住んでいたそうだ。ロシアとマカオの組み合わせはピンとこなかったが、背景を調べるとなかなか歴史の激動に翻弄された人物だった。
スミルノフはハバロフスク生まれで、ロシア革命を機にハルビンに移り、建築デザインやバレエのコスチュームデザインなどに活躍。結婚後は青島に移り住んだが日中戦争の戦火を避けて香港に移住した。しかし香港も日本軍に占領されてしまったため、1944年にマカオに移って平和に絵を描いて暮らしていたようだ。
戦後は香港に戻ったので彼がマカオにいた時期はそう長くないようだが、マカオを描いた作品をいくつか残しているそうだ。極寒のシベリアから南国・香港まで…。その辿ってきた道のりも踏まえて、彼の絵を見てみたくなった。
澳門芸術博物館の所蔵品検索で何点か出てきたけど、結構好きだなと思った。特に水彩画の繊細で淡い表現が綺麗で、なんとなく白昼夢みたいな幻想的な印象がある。
www.mam.gov.mo
気になった方は「史密羅夫」で検索してみてください。
そういえば、この辺りには19世紀イギリスの画家ジョージ・シナリーにちなんだ道もある(千年利街)。彼はローレンス教会付近の鵝眉街に住んでおり、千年利街はそのすぐ近くにある。この一帯は、何かと画家に縁のある場所のようだ。
私がここを訪れていた時はビデオカメラを持った西洋人のグループが何やら取材をしていたが、スミルノフ関係だったのだろうか。
スミルノフの足跡はマカオ各地にあるそうで、以下のサイトでそのルートを紹介している。
macaostreets.iam.gov.mo
まとめ
それにしても、下環には緑豆圍にしろ幻覺圍、六屋圍にしろ、放置されて朽ちるがままになっている古建築が多くて勿体ないと思う。
2010年代には六屋圍や幻覺圍で建物の倒壊事件も起こり、マカオ政府も法律で保護したり再開発のプランは立てたりしているようだけど、放置または有効な手が打てず現状維持になっているよう。
これら下環の古建築は隠れた見どころであると同時に、文化財保護に関する澳門政府と住民の相克や苦闘など、中々表立っては見えてこないマカオの生の顔を見せてくれるところかもしれない。