マカオ、澳門、蓮城、濠江、「主の聖名の街」……。マカオは多くの名前を持つ町だ。ではその中で、一番古い名前は何かというと…「蠔鏡」というのがそれだ。蠔とは牡蠣のことで、名前の理由はもちろん、牡蠣がたくさん取れたから。
中華料理に欠かせないオイスターソースの起源も広東にあり、有名な「李錦記」の創始者もマカオに拠点を置いていたことがある。マカオの成り立ちやアイデンティティに大きく関わる牡蠣に関係する地名はいくつかあるが、その1つが今回の「蠔里/Beco da Ostra」だ。
蠔里は観光地で人通りの多い關前正街や、果物問屋が並ぶ大碼頭街の裏手にひっそりとある裏道のオアシス的な場所だ。ちょっとわかりにくい場所にあるので、あらかじめ知らないとなかなか足を運ぶ機会がないと思う。
しかし素通りしてしまうには勿体ない魅力的な場所なので、牡蠣とマカオの関わりとともに今回は「蠔里」を紹介したい。
シリーズ目次:
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成り立ちとあゆみ
蠔里は1869年に作られた街路名リストにはすでにその名が見え、マカオの中でも歴史の古い道の一つだ。
別名を果欄尾ともいい、初代果欄街と「二代目果欄街」の大碼頭街のちょうど中間に位置している。この辺りに果物問屋が集まっている・いたのは海に近く貨物の積み下ろしに便利だったからで、蠔里も昔は海の近くだったことになる。
今では観光業や娯楽産業が発達したマカオだが、20世紀前半までは漁業がその主産業の1つだった。特に1920~30年代には住民の3分の1が漁業従事者だったと言われ、造船業者や船具業者、魚問屋(魚欄)なども含めると、かなりの住民が漁業と関わっていたと思われる。
牡蠣の養殖も盛んで、マカオ半島からタイパ・コロアネに至るまで、各地に牡蠣の養殖場(蠔田)が作られた。
そして蠔里がある一帯は、マカオで最も早く養殖場が作られたエリアだと言われている。
マカオ市政府のHP「漫歩澳門街」の解説によると、15世紀頃には沙欄仔街付近にある23号碼頭の南から新馬路西端の辺りまで、全てが養殖場だったという。
「最古の養殖場」については、次のような説がある。林發欽ら『澳門街道的故事』によれば、沙欄仔街はもともと海に突き出た砂堤で、その南が北灣(※)、北が浅灣と呼ばれていた。浅灣は名前の通り水深が浅く船の停泊には向かず、その代わりに養殖業に適していた。
マカオで最初の牡蠣養殖場はこの浅灣に作られた「沙欄蠔塘」であるという。漁業の発展と牡蠣需要の拡大に伴って、南の北灣付近にも養殖場が作られていったのだろうか?
少なくとも「蠔里」があるということは、その周辺で牡蠣の養殖が行われていたことは間違いないのだと思う。
※)マカオ半島には南灣と北灣の二つの湾があった。南灣は現在南灣湖となっている部分で、北灣は下環~沙欄仔街のあたり。こちらの湾は埋め立てられて消えてしまった。 |
20世紀の埋め立てで沙欄街一帯の養殖場はなくなってしまったが、一方で南のタイパやコロアネで養殖ががあり、1931年の記録によると12の養殖場が年間1200担(=60トン)の牡蠣を産出したそうだ。
牡蠣とマカオ
冒頭でも書いたように、マカオの一番古い名前は「蠔鏡」という。せっかくなので、マカオと牡蠣の関係について少し書いておきたい。
牡蠣の中国史
中国における牡蠣の歴史は古く、漢代には牡蠣の養殖が行われていた記録があるそうだ。とはいえ、どの程度実施されていたのかは定かではない。
広東一帯が牡蠣の名産地だったというのは確かで、唐・玄宗代の716年に香港付近の吐露港で牡蠣床が発見され、明初の1374年に取り尽くされて枯渇するまで牡蠣の主要な供給地だったそうだ。
吐露港の枯渇後は海南島付近の雷州で牡蠣床が発見され需要を満たしたそうだが(※)、こうした記録を見る限り、「漢代に養殖をした記録がある」とはいっても、しばらくは採取が中心だったのではないかと思える。
明代中期(15~16世紀)にマカオ半島で大規模な養殖場が作られていたというなら、養殖産の牡蠣が出回るようになったのはこの頃なのだろうか?
※)ちなみに宋代の美食家として有名な蘇東坡(蘇軾)も、海南島に流刑になった時に初めて生ガキを食べ、感動して詩に詠んでいる。上の話と合わせて、なんとなく牡蠣産地の分布が見えてくる。 |
蠔鏡、蠔鏡澳、澳門
では、マカオ=「蠔鏡」はいつからあったのだろうか。
何の変哲もない小島だったマカオが脚光を浴び始めるのは、15世紀以降、東アジアと東南アジアを結ぶ海上貿易が盛んになった頃からのようだ。15世紀には東南アジアや琉球の商人、さらに16世紀にはポルトガルやスペイン商人がそこに加わり、この時期アジアでは活発な海上貿易が展開した。
史料の上では、ポルトガル人トメ・ピレスの『東方諸国記』(1515)にOquiemという地名が登場し、「広州から水路で1日と一夜」「琉球など諸民族が滞在」とあることから「蠔鏡」=マカオの音訳だと考えられている。
中国側の史料でも、嘉靖八年(1529)年頃の地方官の報告に、東南アジア商人が来航する港の一つとして「蠔鏡」の名が挙がっており、『東方諸国記』と合わせて16世紀前半には貿易港「蠔鏡」がメジャーな存在になっていたことが分かる。
また、蠔鏡に「澳(=港)」を加えて「蠔鏡澳」と呼ぶこともあったが、「澳門」というのはこの「蠔鏡澳の門」という意味で、二つの山(ギアの丘、ペンニャの丘)に挟まれた地形が門のように見えるということで、そう名付けられたらしい(※)。
※)ちなみに、蠔鏡や蠔鏡澳は「濠鏡」「濠鏡澳」とも書かれる。「蠔」では字面がイマイチという理由らしい。「鏡」の由来は、南湾が丸く鏡のように見えるから…など諸説ある。「鏡湖医院」「鏡湖馬路」などの「鏡湖」もマカオの代名詞の一つ。 |
つまり、当初マカオ全体を指す地名は「蠔鏡澳」で、「澳門」というのはポルトガル人が住む一部の地域を指す言葉だった。それがいつの間にか、地域全体を指す名前に入れ替わったというわけだ。
オイスターソースとマカオ
牡蠣といえば中華料理には欠かせないオイスターソース(蠔油)の原料でもある。オイスターソースの起源も広東だ。その発明者は一般に「李錦記」の創業者である李錦裳と言われている。
李錦裳はマカオから30㎞ほど西にある南水郷の出身で、食堂を営んでいた。ある日牡蠣を煮てスープを作っていたが、外で作業をしに行く時に火を消すのを忘れてしまい、帰ってから鍋の蓋を開けると煮詰まってソースになっていた…というのがオイスターソースの始まりと言われる。
とはいえ実際は李錦裳が店を開く前、1875年の香港の学術雑誌『チャイナ・レビュー』にオイスターソースについての記述があり、それ以前から存在はしていたようだ。
つまり李錦裳はオイスターソースの「発明者」というより、オイスターソースを世に売り出した「プロデューサー」ということになる。
李錦裳は南水でオイスターソースの販売を始め、屋号を「李錦記」とした。しかし1902年、火災に見舞われ店舗を失い、李錦裳はマカオに拠点を移して営業を再開。1929年にマカオで亡くなった。
本社は1946年に香港に移転したが、新馬路の西端には今でも李錦記の店舗がある。
ちなみに李錦記の隣には1902年創業、李錦記の移転前から営業していた老舗オイスターソース店「榮甡蠔油荘」があり、かの孫文も愛した名店だった。
手作りの製法を守り続けていたが、2015年に3代目の店主が逝去、後継者がなく閉業してしまったようだ。残念…。
大量生産と事業拡大で世界的なブランドになった李錦記と、伝統を守り続けて絶えてしまった榮甡の対比には色々と考えさせられる。
功利の面でいえば前者が正解なんだろうけど、そういう隣人をしり目に自分の道を貫き続けるのも勇気と決意が要ることだし、全うしたのならそれは一つの生き様で正解不正解とか、賢愚の問題じゃないんだろうなと自分は感じる。
それでも一つの店だけでなく、一つの歴史が終わってしまったような、深い喪失感に襲われる話だった。
歩き方
蠔里は3本の道とその結び目の小広場から成り立っており、3か所からアクセスできる。
こちらはマカオ市政府による蠔里の見取り図だが、周辺の通りと比較すると分かるように敷地には結構ゆとりがあり、北側には整備された公園もある。
しかし入り口は狭い道なので、奥にこんな開放的な空間が広がっているとはなかなか想像しづらい。入り口は狭いが入ってみれば中庭があって明るい、中国の伝統的な民家にも似た構造だと思う。
静かな町のオアシス
蠔里は果欄街と大碼頭街を結び、太平街との合流地点が小さな広場になっている。広場の中央には枝ぶりも逞しいガジュマルの木があり、おあつらえ向きに石のベンチまである。旅の途中で一息つくにはうってつけの場所だ。
衛星写真で見ても緑が目立ち、まさに街中のオアシスという言葉がぴったりだ。
広場は瓦屋根の古い建物に囲まれており、パステル調のコロニアルカラーが可愛い家もあり、レトロを通り越して廃墟に近い朽ちっぷりの家もあり、ある種見応えがある。
こちらの建物なんかは西洋風のベランダ?もあり、かつての優美さが偲ばれる。ドアが外れて放置されているので多分空き家になっているんだろう。屋根の辺りはだいぶガジュマルに浸食されている。
……と思ったんだけど、空き家か否かの判断は意外と難しい。右の家、よく見ると春聯に「龍年吉祥」とあり、紙自体も新しいように見える。郵便箱もあるし、窓は外れまくってるのにまさか現役なのか?不思議だ。
周辺の建物は、傷んではいるが彩り豊かだ。黄色やミントグリーンの建物はタイパやコロアネに行くと綺麗に残っているけど、ここもあんな感じだったんだろうな。
緑色のペンキ塗りの門と真っ赤な春聯のコントラストが素敵な玄関口。前を通ると、気配を察して駆け寄ってきた犬の吠え声、それを宥める老飼い主の声が聞こえてきた。
土地廟と不思議な「紫薇神」
ガジュマルの木と共に、広場でひときわ目立つのが蠔里の土地神だ。
屋根のある立派なお社にスタンダードな椅子型の神壇、タイル張りの壁には額も掲げられている。額には「甲午」とあるけど1894年?1954年?いや、意外と2014年だろうか。
「本街埠寧社敬立」とあるが、社というのは氏子団体のようなもの。つまり、この土地神の管理をしている団体で、地域住民で構成される町内会的なものでもあるんだろう。廟の周りには「野良猫に餌をやらないで」など、住民に向けた色々な掲示もされている。
土地廟は近年修復がされたようで、奥の壁には神壇・神像修復の寄進者と金額の一覧が貼り出してあった。
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蠔里の土地廟は神壇のみで土地神像はなく、その代わりに石敢當と卵型の石のご神体、カラフルな神像が置いてある。
ところで騎獣にまたがりハンコを振りかざすこの神様、個性的なルックスで異彩を放っているのだが、あまり他の場所で見かけたことがなく正体が気になっていた。
しかも、帰国後に気付いたけど下環で見かけたお気に入りの窓にもそれらしき神様が!!たぶん門神や鍾馗さんみたいなものだろう…と漠然と思っていたけど、ようやく正体が分かった。
この記事を書くにあたって土地廟の写真をまじまじと見ていたら、寄進者リストに「紫薇神像」とあるではないか!(よく見たら、石敢當の隣の石にも紫薇と書いてある)
紫微神といえば、北極星の神・紫微大帝が頭に浮かぶ。北極星は位置が変わらないことから天子と結び付けられることが多く、当然紫微大帝もランクの高い神で皇帝風の威厳ある姿で描かれることが多い。
なので「紫薇神(紫微神)」で検索しても半裸の「紫薇神」は出てこず頭をひねっていたのだが、彼が持っている印章の文字を頼りに調べたところ、ようやく答えに辿り着いた。
これは「紫微正照」という一種の吉祥図案。紫気(紫の雲気)は吉兆とされるので、招福や魔除けの護符として、戸口などに飾るそうだ。
そしてやはり、彼は紫微大帝らしい。乗っているのは風水アイテムとしてもお馴染みの「貔貅(ひきゅう)」という吉祥の神獣でこちらもおめでたいシンボル。
ただ、どうしてこんな姿になったのかが気になる。星々の王、帝王の化身と言われる神様にしてはあまりにラフな格好だけど、他の土着神との融合とかが起こっているのだろうか。
または、「紫微大帝=偉い神様」というイメージ自体が北極星と帝王のアナロジーから来ているので、政治的な中心から遠ざかるにつれて紫微大帝の政治性も薄れていくということなんだろうか。
ところ変われば神様の解釈や描かれ方も違う、という、なかなか面白い話だった。鬼の形相のマハーカーラが福々しい大黒様になるようなものか、と思えばまぁよくあることなのかな。
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蠔里は不思議な空間だ。すぐ表は賑やかな通りなのに、それとはまったく異なる時の流れを持っている。ちょっと大げさな気もするけど、例えるなら陶淵明の「桃花源」のような。
移り変わりや競争の激しい世間から距離を置き、静かに自分の時を過ごす――今考えると、先に述べた「榮甡蠔油荘」の在り方も、この蠔里と似たようなものだったのかもしれないなと思う。
休憩したくなった時、暑さや人の多さに疲れてしまった時、蠔里はそういう時につい行きたくなる、または逃げ込みたくなる場所だ。
完全に荒廃してしまわないうちに、または開発の手が伸びてこないうちに、その穏やかな空気をまた味わいたい。
蠔里の西側出口は、大人ひとりが通れるくらいの狭い路地。古い民家に根付いた木の葉が緑の屋根を作り出し、室外機もぶつかりそうに近い。入ろうとしたら向こうからバイクがやってきたので、いったん外に出た。
バイクのおじさんとすれ違いぎわに軽く笑顔を交わして、もう一度足を踏みだした。
細い路地は、忙しい現世への帰り道。通り抜けると、果物箱を積んだリフトが行き交う大碼頭街だ。
参考文献・url
林发钦ほか著『澳门街道的故事』上巻(南方出版传媒 广东经济出版社 2019)
湯開建『明清士大夫與澳門』(澳門基金會出版 1998)
キャロライン・ティリー著、大間知知子訳『牡蠣の歴史 「食」の図書館』(原書房 2018)
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