壺中天

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唐代伝奇「聶隠娘」

今村与志雄訳『唐宋伝奇集』(下)岩波文庫より要約

聶隠娘

1.刺客の訓練

時代は唐代、徳宗の頃(779~805)。聶隱娘魏博節度使に仕える武人・聶鋒の娘であった。

10歳の時、聶家に物乞いに来たが彼女に目をつけ、引き取って技を仕込みたいと言ってきた。聶鋒は拒絶したが、尼は彼女をさらっていく。

5年後、隱娘は親元に戻ってきた。
彼女の言うことには、連れていかれた先は山奥の大きな洞窟。そこには同じ年頃の少女が2人いて、切り立った山壁を走るなど超人的な身体能力を持っていた。尼は隱娘に薬を一粒と宝剣を一振り与え、それから彼女はひたすら姉弟子を追いかけ、木に登る訓練を続けた。

数年の訓練を経て、彼女は虎や豹などの猛獣をなんなく倒し、空を飛んで猛禽を一撃で仕留めるような超人的な身体能力と武力を身に着けていく。当初は2尺の長さがあった宝剣も、すり減って5寸余りとなっていた。

彼女が尼のもとに来てから4年目、尼は隱娘を都会に連れ出す。刃渡り3寸の羊角の匕首を彼女に渡し、暗殺の仕事をさせるようになった。

とはいえ隱娘には刺客としては未熟な面もあり、標的が子供をあやしている所を見て「仕事」が遅れたこともあった。尼は彼女に「標的をしとめるなら、まずその愛する者を先に仕留めろ」と言い含めるのだった。

その出来事の後、尼は隱娘に帰還の許可を下す。匕首を彼女の「脳の後ろ」にしまい、20年後に会えるだろうと言い残して。

2.劉昌裔の護衛として

実家に帰ってきた聶隱娘だが、夜になると姿を消し、夜明けに戻ってくることが増えた。父の聶鋒はこれを怪しみ、次第に娘から距離を置くようになった。

ある日、彼女は鏡磨きの青年を見初め、父に請うて彼と結婚する。夫婦は独立して居を構えるようになった。

やがて聶鋒が亡くなると、その上司だった魏博節度使は彼女の武技を知っていたため、従者として取り立てた。

ある時魏博節度使は、彼と折り合いの悪い陳許節度使劉昌裔暗殺を彼女に命じる。しかし未来予知の力を持っていた劉昌裔は彼女の企みを見破り、感じ入った隱娘夫婦は逆に劉に仕えることになった。隱娘は訣別のあかしとして髪をひと房、魏博節度使に届けるのだった。

魏博節度使は聶隱娘と劉昌裔を始末するため、刺客の精精児妙手空空児(尼のもとにいた姉弟子二人?)を使わしてその命を狙う。
隱娘は都度彼女たちと戦い打ち破るのだった。

3.神出鬼没の女侠

元和八年(813年)、劉昌裔は官職を得て入朝することになり、聶隱娘にも同行を求めた。しかし彼女はこれを断り、「これからは自然を楽しみ、道を会得した人を訪ねて暮らす」と言って一人姿を消す。

とはいえ劉昌裔への恩義は忘れておらず、劉が亡くなった時には葬儀に顔を出してその死を悼み、また劉の息子・劉縦が四川の陵州に赴任する際に蜀の桟道で姿を現し、陵州には行かないよう忠告した。

劉縦はその忠告を無視し、果たして亡くなった。その後彼女を見たものは誰もいないという。

メモ

・文字通り超人的な女刺客の物語。聶隱娘はただ武芸に優れる女侠というだけでなく、虫に化けて主人の体内に隠れ敵を待ち受けるなど、孫悟空顔負けの術も使いこなす。

劉昌裔の息子と会った時に以前と変わらぬ姿とあったので、仙人のような存在になっていたのだろう。尼が飲ませたのは丹薬?

修行の段とかは何となくキングダムの蚩尤みたいな雰囲気もある。

・夫がいるけど影が薄いし名前もないし何故出したんだ…。時代の制約的に、女性が自由に行動するには逆に配偶者が必要だった?と思ったら最後は置いて行かれているし謎。

・時代的には徳宗代(779~805 安史の乱後)に設定されているので「水都百景録」では何故武則天(生没年624~705)と縁づけられているのかは不明。鍾馗の方は徳宗代の進士という伝承があるので同時代になはる。

節度使がいがみ合って私的に争っているというのはいかにも唐代末期っぽいですね。

・尼の20年後の伏線は回収されなかったけど何だったのだろうか。当初のプロットと異なる形になったということ?


物語を踏まえて、彼女の漢詩を解釈してみた
・学び就く宝剣の光 
⇒尼に授かった宝剣

・鋒芒は綰素に蔵す 
⇒鋒芒=切っ先(父・聶鋒の名も意識?)。綰とは結い上げた髪(綰素は不明、原文にある?)、尼が別れ際に彼女の後頭部に匕首をしまった。

・得来たる功と名は、何ぞ是れ丈夫を須(もち)いん
⇒丈夫は男と夫、どちらの意味もある。夫を置いて一人去っていった筋書きからか。