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8日目 西安2(阿房宮址・碑林)
この日の予定は、午前中に西安郊外にある阿房宮跡、午後は大雁塔と陝西省博物館、夕~夜に城壁を見学する予定だった。しかしこの日はとにかく思い通りに行かない日で大変だった。
消えた阿房宮
二千年の都たる西安周辺には各王朝時代の名所があるが、何故だか自分の興味関心は秦に偏っており、兵馬俑に次いで何としても行きたいところがあった。それが「阿房宮遺址公園」。かの始皇帝の阿房宮をイメージした立派な宮殿が建っているのを写真で見たことがあった。
イメージと書いたように、この阿房宮は学術的な復元の産物ではない。映画のセットのようなもので、価値のない「まがいもの」だと斬って捨てる人もいるだろう。
しかしそんなことは承知のうえで見たかった。建築が好きだというのもあるし、再現された阿房宮は漫画「キングダム」の咸陽宮殿の作画上のモデルでもあるからだ。
しかし意外とガイドブックには載っていない。中国語で検索すると、622番のバスで「和平村」まで乗り、そこから302番等で「秦阿房宮」まで行けばいいと書いてあった。622番バスは鐘楼東のバス停から出ているので、また鐘楼方面に向かった。
泡饃で重い朝食
バスに乗る前に途中で朝食を食べた。ホテルの近くには「竹芭市」という小吃店が集まる道があり、最初はこの道にある肉夾饃の有名店に立ち寄るつもりだったんだけど、その手前で「泡饃」の看板を見かけて急遽予定変更。これも是非食べておきたかったのだ。
西安には名物料理がいろいろあるが、「泡饃(パオモー)」もその一つ。「饃」は肉夾饃と同じく「パン」、「泡」というのは中華料理用語では「漬ける」という意味で(例えば漬物は泡菜)、パン粥のような料理。
具体的には、羊や牛の肉入りスープに細かくちぎったパン(西洋パンではなく、肉夾饃のバンズになっている西安特有のパン)を入れて食べる。スープにパンを入れて食べるというのが新鮮で、一度試してみたいと思っていた。
羊肉入りの泡饃を頼んだ。今回入ったお店のはかなり大きく、しかもちょっと油っぽくて朝っぱらから一人で食べるにはヘビーだった。具は中華パンと羊肉のほか春雨、ネギ。羊肉は癖がなく、饃はすいとんみたいな食感で歯ごたえがあり、スープに漬かっていてもあまりふやけない。
付け合わせにはラッキョウがついてきた。少し味が単調なので、これと一緒に食べると爽やかになっていい感じ。しかしいかんせん量が多くて、全部は食べきれなかった。お値段は28元。
あとで色々調べてみたら、唐代に飢えと寒さで疲弊した軍隊が羊を殺し、保存食にスープを注いで食べたところ元気を取り戻し勝利を収めた……という逸話があるそうだ。
今回は全部出来上がった状態で出てきたけど、客がパンをちぎってからスープを注いでもらうのが昔ながらの食べ方のようだ。
ちなみに泡饃は、池袋の中華フードコート・「食府書苑」で食べられる。あまり脂っこくなく美味しかった。気になった方はぜひ。
阿房宮への道
ロータリーの地下通路を通って階段を上がり、鐘楼の北東に出た。無事バスに乗り、座席も確保。和平村までは10なん駅もあるのでしばらくは車上の旅。バスは西安城を西に走り、西門を抜けて出ていった。
乗り換え地点の「和平村」までは40分くらいだった。「大秦温泉」の看板が見え、阿房宮が近そうな雰囲気はある。
ちなみに西安は色んな王朝の都になったけど、時代ごとに都の位置は変化している。だから唐の長安、漢の長安、秦の咸陽は全て違う場所にあって、そもそも西安市と咸陽市は行政区分も違う(空港は咸陽市にあるので咸陽国際空港)。和平村の辺りは咸陽市に近く、秦の名残が色濃い地域なんだろう。
西安市街地とは違う、いかにものどかな和平村バス停。おじさんズのシンクロがナイス。
阿房宮遺址公園
で、「秦阿房宮」までバスを乗り継いだわけだが…バスを下りてみると、どうにも様子がおかしい。
目の前にあったのはだだっ広い公園だった。舗装された広場の奥に、芝生と木々が茂っている。子供連れやサイクリングをしている人もいて、地元民の憩いのプレイスという感じ……だけど、宮殿テーマパークがあるような空気は微塵もないのだ。
地面に篆書の文字が描かれていたり、史跡っぽい雰囲気はあるんだけど。
看板を見つけた。「阿房宮考古遺址公園」と書いてある。行きたかった「阿房宮遺址公園」とは別物?実際の遺跡と宮殿は場所が違う?などなど混乱し、いずれにせよ1時間かけて無駄足を踏んだことになるのか…と急激にガックリ来た。
で、あとでホテルに戻った時に調べていたら訳が分かった。確かに、この場所には阿房宮を再現した宮殿テーマパークが存在した。しかし2013年、遺跡保護のために取り壊されてしまったようだ。webページには無残に破壊される宮殿の写真も載っていた。なんともったいない…!
平城宮跡の上に勝手にイメージで平城宮作っちゃうようなもんだから、学術的には問題なの分かるよ…でも中国には大唐芙蓉園や清明上河園なんてものあるわけだし、別の場所に移してテーマパークにすりゃよかったのに。スポンサーいなかったのかな。
この時は周りをリサーチする気持ちの余裕がなかったのですっかり見逃していたけど、ここには博物館もあったらしい。雰囲気的に、多分バスの右手に写っている建物だろう。
うーん。。。分かりやすいものが好きだから、ファンタジーでも宮殿が見たかった。無念。
↓かつてはこんな宮殿があったのです…
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博物館未遂
無念を抱えてUターンし、見学を予定していた陝西省歴史博物館に向かった。ここは城壁の外にあり、地下鉄でアクセスする。最寄りの駅は「小寨」駅。周りにはカフェやショッピングセンターがあり栄えている。
東にしばらく歩くと博物館があるのだが……これがまた、物凄い行列。足も痛いし阿房宮で痛い目見たのでメンタルもやられており、とても並ぶ元気が出てこない。どうせ中に入ったところで人だらけ、疲弊するのは目に見えているし諦めた。
大雁塔まで行く気力もなくなって、一度ホテルで休もうと、とぼとぼ引き返す。今思えば勿体ないことをしたと思うけど、この時は時間のロス、暑さ、溜まった疲れ等々で大分心身削られていたのだった。
癒しの湘子廟
永寧門の駅に戻った。地下鉄からは城門に抜ける階段があり、入場券の要らないところ(門の手前)まで見学した。
護城河の遊覧船も出ているようだ。
ホテルに戻る前に、城門近くを少し探検してみた。城門の雰囲気に合わせているのか、この辺りはこういう古建築風の建物が多い。
通りに面した建物はいかにも立派だけど、一歩内側に入れば食堂やユースホステル、超市などが並ぶ庶民的な裏路地がある。その一角にある「湘子廟」に寄ってみた。
湘子廟というのは、八仙の韓湘子を祀る道観。唐の文豪・韓愈の甥とされており、遭難しかけた叔父を救った伝説がある。なお「韓愈の甥・韓湘」は実在し、韓愈が彼のために読んだ詩も残っている。
韓湘子を単独で祀っているというのは珍しいと思う。唐代の人物だし、ゆかりの地なんだろうか。
境内は小ぢんまりしていて、何か珍しいものがあるわけでもないんだけど緑豊かで癒されるー。湘子廟の辺りは静かだし、生活臭溢れるエリアで好きだった。固形茶の茶芸館なんかもあったな(唐代は固形茶を煮出して飲んでいた)。
行き当たり碑林
ホテルに戻って休憩且つ予定を立て直す。阿房宮がすでに壊されていることもこの時に知った。とにかく満たされなかった宮殿欲がうずいていたので、大明宮遺跡公園に行こうと思い立った(正式名称は「西安大明宮遺跡国家公園」)。
大明宮は太宗李世民が建設した、言わば唐代版紫禁城で、歴代の皇帝が政務をとった宮殿の跡地。敷地はなんと紫禁城の4.5倍はあったという。宮殿そのものは残っていないが、ここには1/15スケールの復元模型があってこれが見たかった。
文の香りに誘われて
というわけで、出直した。大明宮方面行きのバス停は南門の東側にあるはずなので、探したが見つからない。彷徨っているうちに、北京風の牌楼が目に留まった。
よく見れば、牌楼の奥には古めかしい街並みが。西安といえばすっかり開発された都会のイメージだったので、これは嬉しい誤算。こんなレトロな所も残っているとは。
吸い寄せられるように牌楼をくぐると、アンティーク家具や書画、印章、文房四宝などの伝統工芸を扱う店がずらっと並んでいた。まるで北京の琉璃廠や黄山・屯渓の老街のような雰囲気だ。
文雅の香りただよう骨董品街は、碑林へと続いているらしい。
こうなったら予定変更。古い街並みをぶらつきながら、碑林まで行ってみることにした。もう観光は散々してきたし、あれ見なきゃこれ見なきゃってガツガツするより、こうしてのんびり街歩きする方が今はいいのかもしれない。
後から知ったことだけど、西安のこの辺は古くからの文教地区であるようだ。現在碑林のある場所には唐代には国立大学である国子監が設けられ、長安が都でなくなった宋代以後も府学として存続した。
牌楼の額に「書院門」とあるのは、碑林近くにある関中書院(↑)を指している。明代にルーツのある学校だそうだ。
学校があれば、文房具の需要も高まる。この一帯の書画用品を扱う商店街は、そうして生まれていったものなんだろう。
この辺、街並みの雰囲気もいいしお店巡りも楽しそうだし、その気になったら1日でもいられると思うんだけど、惜しむらくは荷物を増やせない事と、もう所持金があまりないこと。
本格的な書画用品のほかにも小型の陶器や木彫り(台座とか飾り棚とか)などインテリアとして使えそうなものも色々置いてあったので、いつかまた買い物しに来たい。水都百景録やって書画や文房四宝に造詣が深まった今だったらもっと楽しいだろうし。
碑林博物館見学
というわけで、全然予定していなかった碑林博物館にやってきた。ここには秦漢代から清代にかけての石碑や彫刻が数多く所蔵されている。歴代の名文が集まる、石刻文化の殿堂だ。
ここでは城壁との共通券が売っている。値段は100元で、通常だと碑林が70元、城壁が50元なので20元ほどお得になる。城壁を見学予定だったのでこれは有難い。
お堅い所だし、観光客はそんなに多くないのではと勝手に思っていたけど、人は多くツアー客も沢山いた。前に東博で顔真卿展見に行った時も同じような感想だったけど、自分が分からないからといって、書道というものをナメていないかお前。
日中のリンク:泮池
さて、碑林は石刻類を保護・保管するため、北宋代に作られた施設。ここには元々府学(府立学校)兼孔子廟があり、入り口すぐのところには、その名残が残っている。
孔子廟の門前には「泮池」と呼ばれる池が作られる。↑の写真で、漢白玉の欄干に囲まれている所がそれ(噴水がある)。半円形の池の中央には橋があり、確かに同じものを長崎孔子廟や中国の他の町でも見かけたことがある。
後で調べたところ、これは本来諸侯の学校(泮宮)に作られるもので、天子の学校である「太学(国子監、国立大学)」が四方を池に囲まれているのに対して、南側にのみ池を作ることで身分差を表しているんだそうだ。
そして中国の公立学校は必ず孔子廟を併設しているので、孔子廟の門前=学校の門前ということ。
ちなみに江戸時代のわが国でも諸侯すなわち大名が作った藩校にはこの泮池が作られ、岡山藩校跡や閑谷学校等に残っているそうだ。
碑林の入り口。敷地内には木がたくさん植えられ、夏場には有難い。やっぱり緑は良い。
盛り盛り石碑:孝経碑
突き当りの広場には、「碑林」と記された額と四阿があった。人が集まっているので、さては有名なヤツだな!と見に行くと玄宗が造らせた『孝経』の碑であるそうな。
『孝経』は儒家の経典の一つ。玄宗は「孝によって天下を治める」という理念を掲げ、自ら『孝経』を碑に刻んだのだという(彼は隷書の名手であったそうだ)。
または、息子(寿王)の妃だった楊玉環(のちの楊貴妃)を手に入れるため孝経を利用したとか……。こっちの方が、人間味を感じる分納得できてしまうな。
さらにこの石碑、内部に空洞があって、その中から金貨や巻物が発見されたというミステリアスな逸話もある。その他石碑を覆う四阿の額も林則徐の手によるものだったりと色々盛りすぎ、もとい見所が尽きない代物なのだ。
しかしまだネタは尽きず、近年この石碑の一部頭文字をとった「朕略萌(朕ちょっと萌え)」というフレーズがミーム化し、皇帝パロディグッズなんかでよく使われるようになった。
一部撮ってた。この上に「朕聞上古、其風朴略、雖因心之孝已萌…」とあるのが由来だそうだ。「萌」の日が顔文字みたいなのがまたネタっぽい。
……というわけで、「朕略萌」という見所が、孝経碑にまた一つ加わったらしい。
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さて、
この碑の奥が本格的な博物館。いくつかの建物に分かれており、時代、テーマ別にいろいろな石碑・石刻が展示されている。
石の教材:開成石経
最初の展示室には、幅広の石碑がずらっと並んでいる。これは「開成石経」と呼ばれていて、科挙の出題対象となる経典「十二経」を石碑に刻んだもの。
先程書いたように、唐代の碑林は国子監=国立大学だった。これは、そこで使われていた科挙の教材。印刷技術が発達・紙が日用レベルで普及するまではこういう石刻教材が使われていた。または、写本を作る際に誤字脱字が発生する場合もあるから、正確な原本を保管する目的もあったのだそうだ。
ということは、1000年以上前からこの場所にあった?ここで過ごした時間の長さという点では、一番の所蔵品かもしれない。
ちなみに説明は中国語、英語のほか、韓国語と日本語も書いてあるが日韓は説明がなく手抜きなのが遺憾(↑写真参照)。でも、日本の元号の由来になっている箇所には印をつけてくれている。
ま、そんな伝統もなくなってしまったけど。漢文の素養が外来・国産の区別なく「自分たちの一部」であった時代が終わってしまったんだな…。
その他、色々あるんだけど予備知識なしで突入したので、有名な「大秦景教流行中国碑」や関羽の竹葉の詩とかいくつかを拾い見する形になった。
大秦景教流行中国碑
これは高校世界史教科書にも出てくる有名な奴!景教=ネストリウス派キリスト教の中国への伝来と発展の歴史を記録したもの。
キリスト教は唐の貞観年間(7世紀)に宣教師・阿羅本が伝えたと言われる。碑文はその約150年後、長安の大秦寺(教会)内に建てられた。
大秦とは本来ローマ帝国のことだけど、この場合はビザンツ帝国(東ローマ)ではなく漠然と西方を指す語として使われているのだと思う(阿羅本はペルシアから来てビザンツとは無関係なようだし)。
面白いのが、唐末に会昌の廃仏を逃れるため石碑が地中に隠され、1620年代の明の天啓年間に再び発見されたこと。この時代の中国にはたくさん宣教師が来てたし、いい時に出てきたなぁと思う。
もしかして?と思って徐光啓先生の文集(『徐光啓集』)を見たら彼も碑文の発見について書いていた。天主教界隈では大きな出来事だったんだろう。
縦書きの異国の文字が書かれていたけど、これはなんだろう。ウイグル文字かソグド文字?と思って調べたらシリア文字であるらしい。阿羅本がシリア人なのか。
シリア文字というのも聞きなれなかったけど、そういえば、ソグド・ウイグル文字含む西アジア・中央アジアの文字はアラム文字がルーツで、アラム人の活動拠点はシリアだな。みんな似ているのもそういうことか…。
色んな角度からユーラシア規模の人的文化的交流に関わっていて、色々わくわくする碑だなー。
関帝詩林碑
こちらは三国志ゆかりの石碑。一見ただの竹の絵だけど、よく見たら竹の葉が文字になっていて、一時的に曹操に降った関羽が、竹の絵に託して劉備への変わらぬ忠誠を詠んだ詩と言われている。
不謝東君意 東君の意はいただけぬ
丹青独立名 丹青は独り名を立てて
莫嫌孤葉淡 孤葉の淋しさいとわずに
終久不凋零 ついには落つることもない
(訳文は 殷占堂編著『三国志 中国伝説のなかの英傑』岩崎美術出版社 より)
これ、白帝城でも見たなぁ。と思って並べてみたら碑林のは康煕年間、白帝城のは光緒年間のみたいで、画題の一つとして色々なパターンが書かれてきたものらしい。よく見たら字の配置も違うし、白帝城のは東君ではなく「東篁」になってるようにも見える。篁は大きな竹のことだから大勢力を誇る曹操の暗喩なのだろうか。
衝撃の値引き率:売店にて
最後に売店に立ち寄った。書画に関する本や工芸品、倣古風のインテリアなどやはり伝統工芸系の品ぞろえが充実している。
この時ちょうど中国風のペン立てが欲しいと思っていて、玉器っぽいデザインの筆立てに目を留めた。すると店主のおじさんに声をかけられた。曰く、大きいのは498元、小さい(細い)のは200元。
ほぼ1万円?さすがにそんなに出せないし、かといって小さい方だと実用的でないので身を引こうとすると、おじさんが値引きをはじめた。
しかしこれは駆け引きでもなんでもなく単にお金がないのだ。それをはっきり伝えるとおじさんはなおも値引きし、結局100元まで下がった。
……!!??
こらこらおっさん!原価いくらだよこれ!100元で元が取れるものを500元で売ろうとしてたってこと??言い値を信じちゃだめだな~。
しかも明らかに玉ではないから(あちこちにバリがある)、そんなに高値が付くはずがないし、逆に玉だったらそんなに安く買えるはずもない。中々衝撃で面白かった。
そうそう、ここでは碑林博物館オフィシャルの子供向け解説本を買ったんだけどこれが優れもの!子供向けだから初学者にも分かりやすいし、書の見方、その魅力はどこにあるのか、また書家たちの来歴や個性も分かって見る前に読んでおきたかった。
字を見て何が面白いんだろうと思ったけど、字だって絵画のようなもので、その人の個性や精神性が現れているわけで、その書き方を通じて作者の人物像に迫るのが面白いんだな、と自分は理解した。
買い物を済ませて、碑林から引き上げる。思いがけず楽しい所だった。
城門:最後の観光
書院門を通り、地下道を通って城壁の入り口に向かった。地上で碑林の半券を見せて中に入る。いよいよ最後の観光だ。
西安の旧市街は、四角い城壁で囲まれている。西安が特別なのではなく、中国の街は昔から皆、身を守るための城壁と濠を備えていた。こうした防御施設は再開発でほとんど取り壊されてしまったが、いくつか城壁を留めている町もある。例えば南京や平遥、そしてこの西安である。
現在の城壁は明代に修築されたもので、高さは12m、全長は約14㎞。明の太祖・朱元璋は天下統一後、全ての県城・府城に城壁を築かせた。特に彼は西安を防衛の要として重んじ、次男を秦王に封じて統治に当たらせたほか、「西方を安んじる」という意味の西安と名付けたのもこの時代のことである。……ちなみに、唐の長安城はその9倍の規模があったという。
城門は18あり、南向きの永寧門は説明板によると隋代に築かれた最古の城門であるそうだ。ということは、城壁の規模は変化しても南端の位置はずっと変わらなかったということだろうか。
城壁は本来防御施設なので、城門も戦を意識して作られている。どこまで守りを固めるかは街の規模や戦略的な重要性によって変わってくるが、城門の外にわざわざもう1つ外城を作るなど、西安の城門は特に守りが固いと思った。
外から見るとこう。
入り口入ってすぐのここは甕城。城門を突破した敵兵を閉じ込め包囲攻撃するための施設だ。南門では夜にショーをやるので、この時間はその準備中。出演者らしい時代衣裳の人たちもいた。門がないように見えるけど、装置で隠れているんだろうか?
甕城の広場には階段があり、そこから城壁の上に登ることができる。城壁では散策やサイクリングが出来るほかお店やカフェもあり、観光地として整備されている。とりあえず、少し歩いてみた。
城壁の街と言えば平遥(山西省)に行ったけど、平遥の城壁に感じた威圧感と迫力はここにはない気がする。象徴的な、見せるための城壁という感じ。
それは単に観光地化の度合いによるものではなく、例えば平遥の場合は古い街並みが城壁内に囲い込まれて、壁の中と外が別世界になっている。だから城壁の境界性が強く意識される。
対して西安の場合は城壁が形式的な存在になっていて、城の中も外も同じ都会で大して変わらない。その性質の違いが印象の違いをもたらしているのかもしれない。
ここは特に、これ以上書くことはない。城壁に来た目的は、夕暮れと夜景を見ること。この日も天気に恵まれて、素晴らしい景色を見ることが出来た。長いこと中国にいたけど、明日の夜は、もう日本にいるんだな。
空が黒くなった頃に階段を降りた。もう遅いが人足は途切れず、出入り口には相変わらず人が多い。城壁の周辺をもっと撮影したかったが、夜はここでショーをやるためあちこち封鎖されてしまっている。
どこ行っても派手なショービジネス、みたいな嗜好にはイマイチ馴染めない。中国文明って、わざとらしいの極致みたいな文明だってのはわかってるけど。
明日は早いので、早々にホテルに戻る。明日の交通費を確保してあるのを除いて所持金もあまりないので、夕食は簡素にコンビニの豆腐まん。それと朝食用の天然酵母パンを買った。
しかし部屋に帰る前にやることがあった。明日は帰国日。しかし飛行機は朝7:30発で、国際線は2時間前に着かねばならない+空港まで1時間となると朝はかなり早く出なければならない。
普通に考えればタクシーで行くことになるだろうけど、そんな時間に流しのタクシーがいるのか、実はもっと安く行ける方法があるんじゃないかとか、色々気になることがあったのでフロントで相談してみることにしたのだった。
フロントのお兄さんに「飛行機の時間が7:30で、早くホテルを出なきゃいけない。空港に行くならどの方法が一番いいか」と聞いてみた。ちょうどこの時、ロビーのソファに帽子を被った運ちゃん風のおじさんがいて、お兄さんはその人と色々話し始めた。そして「160元でタクシーを手配できる」とのお返事。
結構するなぁ…と思い(エアポートバスの出る)西安賓館までタクシーで行くのは?と聞いてみたら、エアポートバスの始発は6:30から、ということでやはり空港までタクシーで行くしかないようだ。
結局、明日の朝5:00にタクシーに来てもらうことになった。空港まで1時間だとして、搭乗前2時間切るけど大丈夫かなぁ…と思ったけど5:00でも早すぎる!みたいな空気だったしよく考えたら西安に来る時は渋滞もあったから、本当は1時間もせず着けるのかもしれない。と自分に言い聞かせ、言うとおりにすることにした。
その日は早起きのプレッシャーでなかなか寝付けなかった。