前編は生涯、後編は思想と後世への影響の予定です。東西文武儒学実学なんでも行けるとか本当にすごい、正直この方、正当に評価されてたらかなり歴史変わってたと思うんだけど、時代の方がついてこれなかったんやね…。歴史人物としてだけでなく、人間的にも本当に尊敬している方です。
- 【概要・経歴】
- 【1.生い立ち】
- 【2.科挙の辛酸】
- 【3.新世界への扉】
- 【4.北京での日々】
- 【5.上海帰郷と甘藷の導入】
- 【6.リッチの死と官界入り】
- 【7.対後金・軍事改革への道】
- 【8.崇禎帝の信任と最後の活躍】
【概要・経歴】
明末の政治家・科学者。字は子先、号は玄扈(げんこ)、キリスト教徒で洗礼名は保禄(パウロ)。上海県の貧家の出身で、若い頃は貧困や倭寇の襲来、度重なる科挙の落第に苦しみ、1604(万暦32)年、43歳でようやく進士に及第。
幼少期の経験から民生の改善に関心を持ち、甘藷をはじめ新大陸産作物の土着化、水利技術の改善に成功。一方でマテオ・リッチをはじめ西洋人宣教師と親しみ、エウクレイデスの『幾何学原論』の翻訳、西洋暦を取り入れた崇禎暦書の編纂等、中国の学問史上に大きな業績を残す。官界では軍事改革、特に練兵や砲兵部隊の創設を進めたが、党争や外来技術への偏見に阻まれて改革を全うできず、後世での高い評価とは裏腹に生前は挫折と無理解に苦しんだ。
接する情報に偏見を持たず常に合理的にものを考える人物であり、儒学、実学、西洋科学、キリスト教等様々な分野に通じていたが、盲信的な西洋崇拝者ではなく「西洋文明は中国文明を補完するもの」と考えていた。 あくまで祖国と民を思い、経世済民の道を探り続けた人物であると言える。
翰林院庶吉士 万暦32年~
河南道監察御史 泰昌元年~
礼部侍郎 天啓4年・崇禎元年~
礼部尚書 崇禎3年~
東閣大学士 崇禎5年~
太子太保・文淵閣大学士 崇禎6年
【1.生い立ち】
生まれは松江府上海県。父は徐思誠、母は銭氏。当時の上海は現在と違って発展途上の寒村であり、沿海にあるため倭寇の襲撃に常に悩まされていた。徐光啓の家も倭寇のため没落し、彼が生まれた時は農業と紡績で細々と生計を立てる貧家となっていた。徐光啓はのちに「富国強兵」を掲げて国政改革を推し進めていくが、そのビジョンはこうした幼い頃の経験によって培われたものだと言える。
貧しさにも拘わらず、両親は息子に栄達の望みを託して学校に通わせることにした。徐光啓は7歳の時に上海の龍華寺で学ぶこととなった(※1)。彼は授業が終わるとすぐ龍華寺の塔に登り、景色を楽しむのを日課にしていたそうだ。彼の持つ広い視野、世界への関心のルーツをうかがわせるような逸話であると思う。(※2)
またある時鳩を捕まえようとして足を滑らせ、龍華寺の塔頂から滑り落ちたが平然としていた…というエピソードもある。龍華寺の塔は40mはあるそうだが、なぜ生きていたのかは謎。塔の高さを知らない人が作った後付けの逸話かもしれない。
(※1)龍華寺は三国時代の孫権が建立したと伝えられる古刹。今でも上海の代表的な観光地となっている。
(※2)雪の日に城壁に登って駆け回り、雪景色を眺めていたという逸話もあるので、高い所に登るのが好きだったのかもしれない。
【2.科挙の辛酸】
1581(万暦9)年、20歳の時に第一次試験の童試に及第し「秀才」となる。秀才は県学から経済援助を受けられ、生活に余裕が出てきたこともあってか同年に呉氏と結婚(※1)。なお20歳で秀才に、というのは当時としては比較的遅め。さらにこの後彼は科挙を受け続けるが落第が続き、苦難と焦燥の日々を送ることになる。以下、科挙遍歴を整理した。
《1588(万暦16)年 郷試@太平府》
同郷の董其昌、陳継儒らとともに科挙を受験、しかし落第(董はこの時及第)。
《1597(万暦25)年 郷試@順天府(北京)》
首席(解元)で及第し「挙人」となる。その時試験官を務めた焦竑を師と仰ぐように。
《1598(万暦26)年 会試@順天府》
落第。その帰路、マテオ・リッチの世界地図「坤輿万国全図」と出会うことになる。
《1601(万暦29)年 会試@順天府》
7位という好成績で及第するが、定員300名の所をうっかり301名採ってしまった礼部側が数合わせに7位及第者を落とすことにした、という最悪のめぐり合わせで落第。このことはかなり彼を傷つけたようだ。
家族からの期待への後ろめたさ、周囲が及第していくことへの焦燥、自信の喪失、彼にとってはとてもつらい時期であったろう。それでも早々に科挙コースを放棄することなく、あくまで官界入りを目指したのは、あくまで伝統中国の文脈に生き、官僚として世を変えることを願った徐光啓という人物をよく物語る話ではないかと思う。
(※1)水都だと綿花店テキストにちらっと登場する奥様。一般家庭の出身で、質素を好み働き者、人の3倍綿糸を紡げたという。徐光啓は彼女のおかげで家計の心配は要らず、科挙の勉強に打ち込めたそうだ。
【3.新世界への扉】
進士及第までの長い間、徐光啓は各地で書院の教師や家庭教師として生計を立てていた。そんな折の1595(万暦23)年、広西・韶州でイエズス会宣教師ラザロ・カッターネオ(郭居静)と出会い、キリスト教など西洋の事物に初めて触れることとなった。(※1)
1598年、徐は北京での会試に失敗し上海に帰ったが、彼は同地でマテオ・リッチが作成した世界地図「坤輿万国全図」と出会う(※2)。世界地図は文字通り彼の世界を変え、このことが彼がキリスト教に改宗する大きな要因となったと考えられている。そして彼は世界地図の作者であるマテオ・リッチに関心を持ち、1600年、南京応天府にてリッチと対面することになった。
科挙と経書という狭い「世界」の中でずっと苦しんでいた彼にとって、宣教師たちと出会って本当の世界の広さを知ったことは、大きな救いになったのではないかと思われる。
翌年1601年、徐光啓は会試に失敗し北京から南京へ。西洋文明への関心や科挙落第への失望のためキリスト教への改宗を決めるが、リッチは入れ違いで北京に向かったため不在。1603年、ダ・ローシャ(羅如望)神父の手から洗礼を受けてキリスト教徒となった。
(※1)韶州には1585年までマテオ・リッチが滞在しており、彼が築いた教会があった。その後を任されていたのがカッターネオ神父。
(※2)マテオ・リッチ『中国キリスト教布教史』によれば、徐光啓はこの時の落第について、「科挙に落ちたのは天の恵み。受かっていたら神父たちとは出会えなかった」と発言している。
【4.北京での日々】
1604(万暦32)年には念願の進士に及第、翰林院初庶吉士として学びつつ仕官を待つことになった(※1)。この時北京にはマテオ・リッチも滞在しており、徐はその近所に住居を構え、翰林院での勤めを終えるとリッチの家で講義を受けるのが常だった。西洋科学書の中でも彼はエウクレイデスの『幾何学原論』に感銘を受け、その翻訳を提案(※2)。リッチの口述を徐が文章化し、約1年かけて1607年に6巻分の翻訳を『幾何原本』として完成させた(※3)。
(※1)翰林学士は史書の編纂や詔勅の起草を預かる皇帝の秘書官的存在。なかでも庶吉士は選ばれた者だけがなれる、エリート官僚候補生だった。
リッチ『中国キリスト教布教史』には、「徐光啓は上位で合格できなかったため地方官になる予定だった。彼は翰林院に入るのは嫌だったが、リッチらが無理に試験(吏部試?)を受けさせた」とある。官僚として明を変えたい徐光啓がエリートコースの翰林院に入りたがらなかったというのは不思議に思えるが、これはリッチの主観だろうか?なお水都の徐光啓が翰林院での勤務態度悪いのは、これが元ネタではないかと。
(※2)リッチは中国の学問における論理的思考の欠如を問題視しており、論理的思考を伝える『幾何学原論』の翻訳について考えていた。彼はイエズス会の上長(ヴァリニャーノ?)に3度翻訳を掛け合ったが却下される。なぜかと言えば、外国人である彼らが、文章表現を重んじる知識人層が読むに値する漢文を記すのは至難の業だったから。『原論』の翻訳は、徐光啓という協力者を得て初めて可能になったのである。
(※3)「幾何学」の名称ほか点、線、面、鋭角、鈍角、二等辺三角形等、お馴染みの数学用語は幾何原本制作の過程で生み出されたものだったりする。徐光啓はまさに、漢字文化圏における数学の祖と言えるだろう。
【5.上海帰郷と甘藷の導入】
北京で充実した日々を送っていた徐光啓だが、1607年に父・徐思誠が死去。儒教の慣習により、彼は上海に戻り3年の喪に服すこととなった。その間彼は著作の執筆、また上海の農園で農業実験を進め、とくにアメリカ大陸から伝来した甘藷(サツマイモ)の土着化を進めていくことになる。その間、甘藷の安全性と利点を説く「甘藷疏」を書き上げたと考えられている。
「甘藷疏」は甘藷の利点を13点挙げたもの(収穫量の多さ、痩せた土地でも育つ点、加工の多彩さ等)で、これが朝廷に受け入れられて栽培が進んだ結果、中国の食糧事情は大幅に改善された。我が国の「甘藷先生」青木昆陽も、将軍吉宗に提出する「蕃藷考」を書く際にはこれを大いに参考にしたと言われている。
またこの間彼は上海にカッターネオ神父を招き、1608年には自宅・九間楼に上海最初の教会を建てた。
【6.リッチの死と官界入り】
1610(万暦38)年、師であり友人でもあったマテオ・リッチが死去。葬儀は翌年の1611年に行われ、徐も参列した。彼は葬儀を取り仕切り、納棺の際の縄を引く役目を果たす。宣教師の記録によると、涙にくれながらも手を止めず納棺を遂行したという(※1)。
その後彼は北京での勤務に戻るが順調とはいかず、1613年には宦官魏忠賢の子飼い・魏広微と対立し(※2)、病のためもあって天津に引退(※3)。1616年には復職するが、この年には南京応天府で大規模なキリスト教(天主教)迫害事件(南京教案)が発生(※4)。彼は自宅や上海の教会で神父たちや信徒をかくまうほか、迫害者と言論で戦うが力及ばず、結果宣教師たちは澳門に送還されてしまうことになる。
その後徐光啓は外国とのスパイ容疑で疑われ、宣教師たちとの連絡を絶つため西方の寧夏に飛ばされる。3か月で戻ってこられたものの、当時政権を握っていたのはアンチ天主教の魏忠賢。南京教案の余波もあって反天主教の風潮が高まる中、天主教徒の彼は宮廷でも孤立しがちになっていたという。彼は結局病に倒れ、天津に退くことになる。
(※1)彼はその後、納棺に使った縄を形見として持ち帰ったそうだ。
(※2)魏広微と徐光啓は共に科挙の選考官を務めた。徐は魏が落第させた受験者を合格にしたため、メンツをつぶされたと魏に恨まれるようになった。
(※3)この間、彼は天津の農園で稲や綿花の華北普及の研究を進めた。
(※4)迫害の主導者は魏忠賢一派の南京礼部尚書・沈カク(搉←のさんずいVer.)。天主教を攻撃した際、徐光啓にボコボコに論破され恨んでいたのも迫害の一因になったそうだ。ただし一番の原因は、積み重なってきた天主教への警戒心・不信感。マテオ・リッチは徹底的な融和政策を取り批判者に付け入る隙を与えなかったが、リッチの後継中国布教長・ロンゴバルディは強硬な伝道方針を取ったため、状況が変化していた。
【7.対後金・軍事改革への道】
1616年には満州族の首領ヌルハチが後金を建国し、明領に侵攻を開始する。特に1619(万暦47)年のサルフの大敗は北京を震撼させた。徐光啓はこの敗北を明軍の練度が低いためであると分析し上奏文を提出(※1)。翌1620(泰昌元)年に河南道監察御史に任じられ、文官でありながら練兵の責任者として赴任することになった。
しかし兵部や戸部(兵糧担当)との連携がうまくいかず、病を得て1621(天啓元)年には退官。上海に帰って農業実験を再開し、『農政全書』の執筆に着手した。
翌年にはヌルハチが瀋陽一帯を占領、対後金情勢が逼迫したため朝廷に呼び戻され、徐は再度の練兵と西洋砲購入(from澳門)を上奏した。天啓帝は大砲の購入を認可。最新式の西洋砲=紅夷砲(オランダ人に由来する名称)が国境と北京に配備され、また南京教案で追放されていた宣教師たちも大砲の操作のため北京に呼び戻されることとなった。
この紅夷砲は明にとって大きな戦力となり、1626年の寧遠の戦いでは袁崇煥率いる守備隊が紅夷砲を活用して後金軍を撃破、ヌルハチを戦死させるという戦果を挙げた。
その後1624年には礼部侍郎の職を授かるが、翌年魏忠賢一派の弾劾により官職を失う(※2)。以後彼は宮中の党争に巻き込まれるのを避け、天啓年間には仕官しなかった。
(※1)当時の兵は練度も低ければ、兵糧や装備すら不十分というありさまだった。
(※2)魏忠賢一派は徐光啓が軍事に関わったことについて、越権行為と批判した。
【8.崇禎帝の信任と最後の活躍】
1628(崇禎元)年、天啓帝が崩御し崇禎帝が即位。彼は魏忠賢一派を追放して朝廷の空気を刷新。改革にも意欲的であり、彼は徐光啓を再び礼部侍郎に起用することになった。
この間、徐光啓が成し遂げた業績は主に2点、一つは後金軍からの北京防衛、もう一つは崇禎暦書の編纂である。
前者について。1629年、ホンタイジ率いる後金軍が北京に迫り、崇禎帝は徐光啓を防衛の責任者に任じた。彼は都の防衛プランを考案し、大砲を活用して北京を守り抜く。さらに彼は崇禎帝の認可を得て、弟子の孫元化を責任者とする西洋式砲兵部隊の設立に着手したが、孫は謀反に巻き込まれ処刑されてしまい、彼の望みは潰えることになった。
後者について。1629年には欽天監(国立天文台)が日食の予測に失敗(※1)し、崇禎帝は数学・天文学に長ける徐光啓に命じて暦法の修正にあたらせることとした(※2)。そのために暦局が創設され、徐のほか同じキリスト教徒の李之藻、そして天文に通じる宣教師のアダム・シャールらが天文観測と西洋暦書の翻訳にあたり、暦書の編纂を進めた。その成果をまとめた『崇禎暦書』の完成は1634年。その時徐光啓はすでにこの世を去っていた。
崇禎帝のもと、徐光啓は礼部尚書、文淵閣大学士、太子太保等の高官を歴任。しかし彼の理想は生前に実現することはなく、1633年11月8日、病で死去する。崇禎帝はその死を悼み、一日のあいだ朝廷を停止させたという。
(※1)当時明で使用されていたのは元代に郭守敬(水都では郭天問)が編纂した「大統暦」(イスラーム暦に基づく)。制定時には最先端の暦であったが、西洋のグレゴリウス暦と比べて正確さでは劣っていた。洪武帝は欽天監の役人以外が天文学を学ぶことを禁じたため、このことも暦の停滞と関係があると考えられる。
(※2)リッチら宣教師はグレゴリウス暦を中国にもたらし、彼らとの交流で徐光啓もそれを知ることとなった。またその他地球球体説、コペルニクスやブラーエ等の天文理論も伝わり、『崇禎暦書』にも取り入れられた。
【参考文献】
陳衛平・李春勇『徐光啓評伝』南京大学出版社
石継航『徐光啓』中華先賢人物故事滙 中華書局
マッテーオ・リッチ著 川名公平・矢沢利彦訳『中国キリスト教布教史』1・2 大航海時代叢書8・9 岩波書店
イラスト全体図。
相変らずこういうシンメトリック・デザイン的な構図が好きです。対聯や十字架の文字は徐光啓墓の牌坊や十字架に書いてあるもの。
茨とリンゴ(=知恵と楽園追放)は、知を得たがゆえに理想と現実のギャップに苦しんだ彼の生涯を想起させて好きなモチーフ。馬鹿でいるってある意味楽なんですよね。
世界地図の外に広がる青いカーテンは宇宙=天文の世界、さらにその外側は神と悪魔、人の手ではコントロールできない運命の世界です。ちなみに右は魏九天。
平面的に仕上げたかったので陰影はグラデーション程度に抑えました。手抜きじゃない、これは画風だ…