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【水都百景録】「消された」名将 袁可立伝【中国史】

 水都では魚のプロでお馴染み・袁可立の略伝です。日本ではほとんど知られていないのと、ゲーム中でも仕官前の漁師姿で歴史上の業績がイメージしにくいので、中国語歴史サイトを参考にしながらその生涯を整理しました。何故マイナーなのか?業績がないからじゃない、実は有能過ぎたゆえなのです。

【概要と経歴】
 明末、万暦~崇禎の4代にわたって仕えた文武両道の名臣。字は礼卿(れいけい)、号は節寰(せつかん)。義に厚く清廉な人柄で知られ、詩作や書画をもたしなんだ。仕官当初は司法官、のちには軍事官僚として活躍し、とくに後金軍からの失地奪還に大きな功績を上げた。しかし後金軍に与えた打撃があまりに大きかったため、その死後清朝によってその記録や著作は抹消されることとなった。

蘇州推官  万暦17年~     
山西道観察御史 万暦23年~
尚宝司司丞   泰昌元年~
本司少卿    天啓元年~
太僕寺少卿   天啓元年~
通政布左通政署司事 天啓2年~
廷試読巻官 天啓3年~
登莱巡撫  天啓3年~
兵部侍郎  天啓5年~
兵部尚書  天啓7年~
太子太保  天啓7年~

【1.生い立ち】     

1562年4月25日、睢州生まれ(現河南省)。先祖袁栄は洪武帝に従って軍事面で活躍し、その功績によって睢州の地主となった。しかし次第に袁家は没落、袁可立が生まれた頃には貧家となっていた。(※1)

彼は科挙に挑戦することになるが、伝承によれば、書院に通っている時に長年の友となる董其昌と出会ったという。落第続きの董其昌は「袁可立という者と一緒に科挙を受ければ及第する」という夢を見たことをきっかけに彼を捜し歩き、ようやく出会う。董は袁の家が貧しいことから彼を援助。共に科挙を受け、1589(万暦17)年に晴れて及第する。


またこんな逸話も。袁可立がまだ幼いころ、夜に厠に立ったが灯籠を置く場所がなかった。すると「尚書さま、ここに明かりを置きなよ」と謎の声。すると一匹の小鬼がいた。袁可立はその上に灯篭を置いて言った。

「お前の頭はでっかいな」

尚書さまこそ『大胆』だ」

「何故そんな風に俺を呼ぶ?」

「人から頼まれて伝言しに来たんだ。文曲星サマが転生した董って人が、君と一緒に試験を受けるのを待ってるよ。尚書の地位も君を待ってる」

袁が用を済ませて灯籠を持ちあげると、鬼の姿は消えてしまったという。

まて、董其昌も文曲星の転生?包拯になったり董其昌になったり忙しいな。

 

(※1)水都の袁可立は漁師という設定だが、彼が貧家出身というのは事実であれど、漁師の家の出だという記録は見つけられていないのでゲームの独自解釈かもしれない。だとしたら元ネタは海防を重視したり水軍を率いたり水と縁があるからかと思ったけど「母親が懐妊中、たらいの中に金色の鯉を見た」という逸話があるのでもしかしたらこれかもしれない。

 

【2.司法官としての活躍】

   

進士及第後、最初の官職は蘇州の推官(司法官)で、蘇州知府石昆玉の配下として活躍。たとえば石昆玉を陥れた応天巡撫を裁くなど(※1)、犯罪を犯した者は富者・権力者であろうと見逃さず厳正な裁きを執行。その他倭寇対応にも功績をあげた。1595(万暦23)年、山西道監察御史に就任し蘇州を離れる。蘇州の民は涙ながらに彼を見送ったそうだ。


袁は監察御史としても辣腕を振るい、例えば北京にいた時、万暦帝の寵臣が殺人を犯した。官僚たちが見て見ぬふりをするなか、彼は「殺人を犯した者は死刑、それが朝廷の法。寵臣と言えどもそれを免れることは出来ない」と抗議。万暦帝は寵臣の罪を免じるよう勅旨を下したが、袁はこれに背いて彼を処刑した。


その公正さをたたえ、民衆は彼を宋代の名知府(=裁判官)・包拯同様「青天」と称えたが、一方で剛直な彼の振る舞いは恨みも買い、1595年には一年の減俸、翌年には景徳門が落雷で焼失したことを機に、万暦帝を直言して諫めたことで帝の怒りを買い、免職させられることになる(震門の冤)。(※2)

 

(※1)推官の品級は七品、巡撫の品級は四品。彼は万暦帝に訴え、勅旨をえて上位の巡撫を裁いた。

 

(※2)彼が官界に復帰したのは泰昌元年(1620)のこと。

【3.登莱巡撫就任】 

1616(万暦34)年、満州族女真族)のヌルハチが後金の建設を宣言、明への侵攻を開始。1619年にはサルフの戦い(※1)で明軍が大敗、後金軍は遼東半島支配下に置く。1621(天啓元)年には瀋陽をはじめとする東北地方の要地を奪取し、満州族の脅威は都・北京の目前に迫ることとなった。


袁可立は天啓帝に、後金対応について七つの建議を行う(残兵の回収、軍紀の粛正、防衛強化等)。これを受け、1622(天啓2)年、袁可立は遼東奪還を担う山東半島の軍事基地・登莱の巡撫(県知事)として赴任することになった。選任に際し、天啓帝は「登莱を治めるのは貴方でなければ駄目だ」と高い信頼を示したという(※2)。

 

(※1)この敗戦は明宮廷に大きな衝撃を与え、開明的な官僚たちは対応に動き出した。例えば徐光啓は練兵と洋式砲導入を働きかけ、天啓2年に帝の認可を得ている。

 

(※2)袁可立は1622年に廷試読巻官(科挙の試験官)となり、天啓帝の教師もつとめた。この親密な関係が、彼の巡撫就任にプラスに働いたそうだ。あれ、天啓帝って魏忠賢の重用と木工好きで馬鹿扱いされること多いけど、(※1)と合わせて案外馬鹿じゃないのでは…?

【4.後金軍との戦い】


袁可立は巡撫就任後、白蓮教徒の乱を鎮圧して地盤を固め、水陸の軍五万、戦艦四千、および屯田の実施等でそれを支える戦費・糧食を整える(※1)。さらに城や砲台を築いて沿海の防衛を強化(※2)。こうして登莱は対遼東戦線の一大軍事基地に成長した。(※3)


そのうえで彼は山東・遼東両半島の間にある皇城島を拠点に遼東侵攻に乗り出した。彼の主な戦略は以下のとおりである。

(1)沿海の諸勢力との連携

山海関を守る明の督師(軍の監督役)・孫承宗や、朝鮮との国境付近にある皮島を拠点とする軍閥の毛文龍らと連携し共同作戦をとった。

(2)遼民の活用

後金の占領地である遼寧の民は明軍より騎馬での戦いに慣れている。袁可立は彼らを自軍の兵として編成し、対ヌルハチ戦に活用した。

(3)敵将の寝返り工作

さらに彼の功績としては、後金に投降した武将でヌルハチの娘婿になっていた劉興祚(劉愛塔)を寝返らせたことが挙げられる。劉は旅順の北にある金州を守っており、彼の帰順は遼東半島奪還に大きく寄与した。この出来事はヌルハチに大きな心理的打撃を与え、袁が後金(清)に恨まれる一因となったという。

 

最終的に、彼は1623(天啓3)年には旅順をはじめ後金軍に奪われた土地の奪還に成功した。ヌルハチ率いる後金軍はその後失地回復のため何度も出兵するが、その都度火計や奇襲によって打ち破られ、結局遼東の奪還を断念したという。

 

このように袁可立の軍略は成功をおさめ、結果後金軍の東部戦線は崩壊、明にとって東部海域の憂いは無くなった。人々は彼を「海上長城」と讃えたという。同じく対後金軍の英雄として名高い袁崇煥(※4)が「守りの名将」なら、彼は「攻めの名将」と言うことができるだろう。

 

(※1)水都の袁可立が意外と財務高いのは、この時の戦費・兵糧管理が関係しているのかも?農牧高いのも多分屯田の件ですよね。沿海に砦を築いて防備を強化していたことを思うと、建造はもっと高くていい気がする。


(※2)彼は対倭寇戦の名将・戚継光の、水軍を重視する戦法を参考にしていたそうだ。戚継光実装されたら絡んでほしい…。


(※3)ちなみにこの頃、徐光啓と知り合い友人になったそうだ。最強の西洋砲・紅夷砲は登莱には設置されなかったんだろうか?


(※4)袁崇煥は北辺・寧遠城の守将で、その悲劇的な最期も相まって愛国的英雄として人気のある人物。なお、この二人は同姓だが血縁関係はない。むしろ両者は不仲であったそうだ

【5.魏忠賢との確執】  

遼東戦線がひと段落したのち、袁可立は北方戦線対応のため兵部右侍郎に任命され、都に呼び戻される。兵部侍郎として彼は海防の強化を主張、和議を唱える勢力もいる中、後金への徹底抗戦を唱えた。


当時政権を掌握していたのは奸臣として名高い宦官の魏忠賢(水都では魏九天)であった。当時宮中では彼を中心とした閹党(宦官党)と、それに対抗する清流派官僚の東林党が対立していた。袁可立は両者の対立の中で中立を貫こうとしたが(※1)、1624年に東林党の指導者楊漣が24の罪状を挙げて魏忠賢を弾劾したことを機に、朝廷では東林党の大弾圧が発生。袁の友人で東林党の重鎮であった高攀龍を含め多くが免職・殺害された。このことは袁にも大きな影響を与え、以降彼は魏忠賢一派に公然と対抗するようになったという。

1626(天啓6)年、袁可立は登莱での功績により兵部左侍郎、ついで兵部尚書に昇任する。一方で彼は魏忠賢の恨みを買い、同年に罷免され朝廷を去ることとなった。魏忠賢は当初袁の名望を利用しようとしたが、清廉で腐敗を嫌う彼を操れないため朝廷から追放することを決めたと言われている。

 

その後、袁は高官たちの復職の勧めにも断固応じなかったそうだ。結局再び仕官することはなく、1633(崇禎6)年、72歳で死去。その死後、彼が沿海に築いた防衛線は崩壊し、瀋陽や遼東は再び後金軍の支配下に置かれることとなった。

 

(※1)とはいえ思想・心情的には東林党に近く、実際彼の周囲には友人の高攀龍、弟子の黄道周など東林党関係者も多かった。

 

【6.「消された」名将】

清の成立後、清は女真族(金、後金)に敵対的な人物の抹消・名誉棄損に乗り出した。とくに乾隆帝の時代、袁可立は岳飛とともにその対象となり、その著作や記録は抹消され、清末には彼を記念した牌坊「袁尚書大石坊」も破壊されてしまった。それだけ後金・清側を恐れさせた人物だったのである。


清側が離間の計で「始末出来た」袁崇煥が(それゆえに?)抹消の憂き目にあわず抗清の英雄として名を残し、「始末出来なかった」袁可立の名が失われてしまったのは皮肉なことであると思う。

 

【7.性格と文人的側面】

率直で正義感の強い性格。直言で皇帝含む上司を諫めたため、たびたび処罰されている。武人として名高い一方で詩文や書画を嗜む一面もあり、万暦年間に罷免された間、彼は故郷睢州で詩社を作り文人たちと交流を持った。代表作は蜃気楼を詠んだ「観海市」。ちなみに、彼が海市(蜃気楼)を見たのは登莱巡撫時代の1624年。山東省は古くから蜃気楼で有名な場所(蓬莱島など「東方三仙山」伝説は蜃気楼が由来ともいわれている)。


また晩年は道教を篤く信仰し、故郷睢州に仙人・呂洞賓を祭る「袁家山」を建てた。袁可立と呂洞賓にまつわる伝説はいくつかあり、たとえば登莱巡撫時代、嵐に見舞われ海難に遭った際呂洞賓に助けられた、袁の誕生時、父親の袁淮が呂洞賓が子供を連れてくる夢を見た等。なお呂洞賓山東の出身と言われ、袁の任地登莱と縁の深い仙人である。

 

【8.交友関係(水都関連)】

・董其昌 
科挙から生まれた友情は生涯続き、董其昌は袁可立の伝記を書いたり、その死後は帝に彼を弔うよう働きかけたりしている。また袁可立の詩「観海市」が刻まれた山東省煙台の蓬莱閣には、袁・董合作による書も残っている。


徐光啓 
袁とは生没年月日までほぼ一致する不思議な縁の持ち主。実際その縁もあって、董其昌や徐の恩師・焦竑の仲介で交友関係を持つ(※)。徐光啓は兵器に詳しく、また軍事理論家として武将たちの信頼の厚い人物であり、袁とも後金対応で意気投合したそうだ。

(※)董、袁、焦は同年に進士及第した同期にあたる。

 

【参考】

・なにぶん日本ではあまり知られていないので全て外国語サイト、ゆえに読み違えているところがあるかもしれません。おかしい所があればご指摘ください。

百度百科「袁可立」「董其昌

・该如何评价袁崇焕,卖国贼还是大英雄,袁可立已给出答案
https://view.inews.qq.com/a/20220219A05VDB00?startextras=0_548c064703008&from=ampzkqw

・袁可立 后金为何最害怕孙承宗与袁可立
http://blog.novelsee.com/archives/791297

・Yuan Keli, who was banned by the Manchus, once revitalized the anti-gold situation, but was forced to retreat by the internal friction of the Ming Dynasty.
https://min.news/en/history/b32a1df456f8caca595b1d8366470332.html

イラストフルバージョンです。色々後がつかえてるので、塗りは適度に省エネしました。オリ衣装でさーせんですが銀杏をあしらったデザインとかは気に入ってる 剣は董其昌の専用御宝節寰剣、袁くんの号だし、贈り物じゃないかなこれ?と思ったので